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2020年夏期アニメ感想 日本沈没2020

酷評回です。
後半展開に関するネタバレもあります。
ご注意を。

日本沈没2020 イメージ2

 Netflix×湯浅政明監督最新作は小松左京原作の名作『日本沈没』。舞台を現代に移し、プロフェッショナルの視点からではなく、ごく普通の人々から日本が沈没していく様がどのように見えるのか、どんな体験をするのか、その過程とサバイバルを描いた作品だ。
 物語の始まりは武藤一家の日常から始まる。主人公である武藤歩はオリンピック日本代表候補としての研鑽を積み重ねていた。このあたり、コロナウイルスが蔓延する以前の、オリンピックが予定通り2020年に開催されると思われていた時代に制作されていた名残が見て取れる。
 武藤歩の弟、剛は引きこもってのゲーム。一応、夢はeスポーツでのオリンピック出場。このあたりはまあ現代的かな……。eスポーツのオリンピック採用はまだまだ当分先だとは思うけど。
 母親のマリはちょうど飛行機に乗って日本を目指していた。窓の外にはすでに日本の大地が見えていた頃だ。
 父親航一郞は舞台照明の仕事で、まさに仕事中であった。
 そんな最中、最初の地震が起きる。はじめは予兆のように静かに。でもスマートフォンに流れてくるニュースはどこかで大地震があったという報告と、さらなる地震警報。さっきの余震だろうか――。いや違った。その次こそが日常を一気に粉砕する、大地震だった。

 一度の地震で日常が崩壊する恐怖。日本はいくつものプレートが折り重なる地震災害国で、その被害は遙か昔から、現代まで抱え続けている普遍的な問題である。ごく最近でも東日本大震災で体験したばかりだ。
 映像の世界で地震の恐怖を拡大して描かれる『日本沈没』は非常にリアルな体験だ。「日本沈没」なんて、字面で見るとあり得ないように思えるが、一方であり得るかも知れない可能性も同時にはらむ。その日本という国がいかにして崩壊して海に没していくのか、一つの家族の視点を通して描かれていくのが本作だ。

 しかし残念ながら、『日本沈没2020』はリアルな震災を追体験できるような迫力や映像の凄みは全くない。というのも、まず言って出てくる映像がみんなどこかで見たような画ばかり。
 どこかで見た、というのは直近でいうところの東日本大震災のニュース映像や写真などだ。あの映像をヒントにお手本に作られているのだな、というのが見ていてわかるのだが、しかしそれを越える映像というのがまったく出てこない。
 『日本沈没2020』は文字通りの「日本が沈没していく」過程が描かれる作品だ。だから現実の怖さを越えなければ、映像作品として成立しない。だがアニメ『日本沈没2020』はこのあたりが全く描かれない。出てくるのは潰れた家や燃え上がる街、崩れた高速道路などで……これらの画像はどれもニュース映像で見たものばかりで、それを越えてくる画像がまったく出てこない。はっきりいえば現実の災害画像のトレースしただけに過ぎない。
 災害映像を見ると大変だな、というのは現実の体験でよくよく知っているからわかるが、その現実を越えてくる“怖さ”が『日本沈没2020』の映像の中にない。

 それに「災害映像」というのが多くが単純な“止め絵”で表現されているところに弱さを感じる。
 例えば宮崎駿監督『風立ちぬ』における関東大震災の映像は、Bookを使って建物が次々と跳ね上がっていく光景が描かれた。実際の大地震であんなふうに建物が跳ね上がるということはないのだが、しかし映像として建物がドンドンドンと跳ね上がる映像が出てきた時のインパクトとショックは相当に大きなものだった。『風立ちぬ』では地震の起きる瞬間を、“動的”な映像としてまざまざと描いて見せた。
(このあたりで“リアルなシミュレーター”としてのアニメーションではなく、体感や印象を重視する宮崎駿らしさが出ている)
 対する『日本沈没2020』はどの画を見ても止め絵でしか表現されていない。ここに映像としての弱さを感じる。最初の大地震が起きる瞬間でも、止め絵の縦PANに振動を足しただけのものに過ぎない。
 その次の瞬間にはもう全てが終わった後、という描かれ方だった。武藤歩がいた控え室はロッカーがすべてなぎ倒され、天井が崩落して、女の子が押しつぶされて死んでいる。足下には血が広がっている。この光景も阿鼻叫喚といえばそうなのだが、どれも止め絵だ。“地震が起きた!”という瞬間の恐怖は何一つ描かれていない。ロッカーが倒れ、天井が崩れて、人が死ぬ瞬間を目の当たりにする恐怖、状況が刻一刻と動いている恐怖が何一つ描かれていない。

 第2話ではネット投稿動画として沖縄の沈没シーンが描かれるが、これがひどいもので、画面を振動させた後、島全体が煙に包まれて、その次の瞬間には「沈んでいました」と、海だけになった場面が描かれている。これのどこが島が沈没する瞬間だというのか。こんな動画がネット上で上がっているのを見たら、私ははっきり「フェイクだ、こんなもの」と言う。
 一つの島がどのように沈没していくのか、その光景が描かれていないし、描かれていないということは克明に想像ができていないということだ。この想像力のなさが『日本沈没2020』の致命的な弱点だし、この想像が絵として提示されないまま制作を始めてしまったことがこの作品の大いなる失敗だ。

 『日本沈没2020』は空間表現が非常に中途半端。どのシーンもパースが狂っているし、奥行き感も感じない。空間表現が滅茶苦茶だ。
 湯浅政明監督はそれまでの作品『デビルマン』でも『ピンポン』でも空間表現は狂っていたが、しかしそれは意図的なものを感じていたし、作品の主題と合致しているようにも感じたので特に違和感は感じなかった。というより、むしろそのほうが絵としてハマっているとすら感じた。
 しかし『日本沈没2020』では同じように空間を歪ませたり、潰したりして成立するような作品ではない。なぜならこの作品は大地震で日本の街が一気呵成に崩壊していく状況や光景そのものを描かなくてはならない。その空間表現があやふやだとその迫力や真実味が欠けてしまう。
 これは湯浅監督に空間を描く能力がないのか、いつもの手癖が出てしまったのか。作家の個性と作品の方向性が不一致さゆえに起きた問題だ。

 作画については……湯浅監督といえば今時のアニメーションにありがちな線の美しさを捨ててでも動的な快感のほうを優先させる作家だ。この快楽のためにはキャラ表に書かれたキャラクターが崩れ去ることを恐れない。
 なのだが、『日本沈没2020』の作画ははっきりと出来が悪い。いっそ「崩壊している」と言っていいくらいだ。
 作画がはっきり怪しくなるのは、第3話、カイトが登場してくるあたりだ。富士山が望める山道が描かれるのだが、まず空間がぐちゃぐちゃ。登場人物達がどの位置に立っているのか、奥の風景までどれくらいの距離があるのか、絵を見ていてまったくわからない。空間表現の基礎ができている人が描いた絵とは思えない。
 武藤一家と同行することを決めたカイトがパラシュートを捨てるのだが、捨てた直後から明らかにサイズが小さくなる。縮尺が滅茶苦茶。パラシュートが置かれている位置も空間があやふやだから判然としない。画として気持ち悪いものになっていた。

 作画の問題は第3話はまだいいくらいで、その後はひたすら崩壊し続ける。後半に入ると「誰だ?」というくらいにキャラ絵が変わってしまう。後半の展開になると、もはや制作スタッフにキャラ作画を維持し続けるだけのポテンシャルが残っていなかったことがわかる。
 問題は作画だけではなく、作劇のほうにもかかってきている。
 例えば第2話、武藤一家はそれまで一緒に歩いていた集団と別れることになるのだが、その集団を見送り、最後の一人が別れ道の向こうへ立ち去りかけたところで、
「記念に写真を撮りましょう」
 とマリが声を掛ける。すると立ち去ったはずの人たちが次のカットで戻ってきて、全員揃っての記念写真を撮り始める。
 カットの流れが明らかに不自然だ。前後の連なりを無視してしまっている。この流れを描くなら、「じゃあ別れましょう」という話をしたあたりで「それなら記念写真を撮りましょう」という話にしなければ駄目だろう。
 まるでカットをねじ込むかのような不自然さでわざわざ記念写真を撮ったのに、この写真が何かしらの伏線としてどこか登場するのかというとそんなことはなく。後半、一回だけこの時の写真が再び登場するが、特にドラマとしての引っ掛かりになっていない。展開として無駄過ぎだ。
 第2話から早くも作劇が崩壊していくのだが、これもまだ良い方で、この先どんどん崩壊し続ける。映像の順序が何かおかしくないか、距離感がおかしくないか、情動の流れがおかしくないか、そんな引っ掛かりだらけの映像が待ち受けている。何か奇妙なドラッグを決めたような不自然で奇妙な映像がずーっと流れることになる。

 さて第4話に入ると、武藤一家は「シャンシティ」というコミュニティに歓待を受けることになる。
 旅物語には必ず描かれる二つのシーンがある。それが「楽園」と「逃避/回想」だ。旅物語の主人公はこの2つを経て、それでもとどまることなく歩み進め、乗り越えるからこそ物語に感動が生まれる。「シャンシティ」はこの旅物語の法則でいうところの「楽園」に相当する場所だ。
 だが『日本沈没』という作品において「シャンシティ」ははっきり余計、邪魔な場所だ。なぜならシャンシティに入ってからはしばらく続いていた地震と崩壊の物語が後退し、まったく別なお話が始まってしまう。ここに入ると「日本沈没?」という感じだ。
 仮にも『日本沈没』をタイトルとして掲げている限り、その過程を待ったなしのものとして描くべきだ。日本が沈没していく映像の怖さがなければならない。だがシャンシティのエピソードを挟み込むことで「日本沈没どこへいった?」とメインテーマが後ろに追いやられてしまう。
 しかもシャンシティはイタコを頂点とする新興宗教で、その内部で大麻が栽培されていることがわかってくる。大丈夫か、ここ……。しかし主人公達はこの胡散臭さマックスのシャンシティを告発するわけでもなく。シャンシティで憩いの日々を過ごし、やがて崩壊していく過程をたっぷり第4話から6話まで使って描き込む。

 その次として出てくるのが「日本人だけを救うんだ! 日本人の血を守れ!」とわめき散らす右翼集団だ。武藤一家は母親マリがフィリピン人で、歩と剛はそのハーフだ。それで右翼集団の船に乗せてもらえず、陸に置き去りにされてしまう。
 これも『日本沈没』という物語の中において、はっきり不要なものだ。なぜならこういったものを描こうとすると、主人公達が向き合うのが「災害」ではなく「人間」になってしまうからだ。『ウォーキングデッド』が「ゾンビ」ではなく「人間」と向き合う物語に陥ってゾンビの恐怖が後ろへ後ろへ遠ざかってしまった現象と同じだ。『日本沈没』は待ったなしで日本が次々と崩壊していく過程が描かれなければならない。しかし人間をクローズアップさせすぎると、どんどん「日本沈没?」になってしまう。この作品で描くべきものはそれじゃないんじゃ? ……というもどかしいような気持ちになってしまう。
 しかもこの右翼集団、主人公達を拒否した次の瞬間には謎の火災が発生して海中に沈んでしまう。ギャグか!

 もしかしたら「分断」を描きたかったのかも知れない。日本が本当の危機に直面する。そうした最中に日本人は団結できるのか。特に「現代の日本」は。冒頭にオリンピックの話題を持ってきたのも、そういうテーマと連なっているのかも知れない。
 だとしても『日本沈没』という物語の中でそんなテーマを持ち込むことは余計だ。なぜならこれを描けば描くほど「日本沈没」の怖さや光景が後ろに遠ざかっていき、「人間」の物語になってしまう。どこにでもあるような平凡なストーリーに陥ってしまう。私が見たかったのは『日本沈没』だったはずなのに、「日本沈没?」になってしまう。
 それに、だったら右翼は駄目で新興宗教はいいのか? という話にもなる。大麻を栽培する新興宗教が正義で右翼は悪というのはいかがなものだろう。シャンシティで滞在している間、引きこもりで母親の死を直面して自閉症に陥っていた古賀春生が自己と社会性を取り戻していく、という重要な過程が描かれていく。しかも大麻を栽培する過程でだ! 新興宗教をここまで肯定的に描く理由はなんなのか、と問いたくなる。
 災害の物語に右翼を描くことはノイズでしかない。先の大災害である東日本大震災の時に、人を救助するのに「お前は日本人か?」と聞いて回っていた集団や人がいた……なんて話はまったく聞いたことがない。あの大災害……大津波がすぐそこに迫ってきている状況下でそんなこと言っている場合じゃないだろう。国籍がどうとかではなく、みんな助け合っていたはずだ。
 その後にはラップで「日本人がどうだらこうたら」というバトルを始めるのだが、いや、もうそんなことしている場合か。日本人がどうこうじゃなくて、「日本沈没」を描いて欲しかったのに。どうしてそこまで日本人を悪として責め立てたいのか。

 と、「日本沈没?」の物語が続いたと思ったら、日本は沈んでいた。「日本沈没?」から「日本沈没してた」へと状況が移り変わっていた。
 ここまでおざなりに描いてきていたから、当然、その瞬間は描かれない。日本の大地がどのように沈んでいったのか何もわからないまま。ボートに乗って漂流していたら気付けば日本はすでに沈没していた……で終わっていた。
 がんばって最後まで見ていたのだが、いったい何だったんだこの作品は、という感想だけが残る。
 まずずっと「日本沈没?」だったこと。とある一家の目線を通して日本が沈没していく過程が描かれていく、目撃していく……というコンセプトだと聞いたけど、実際には災害の画像はいくつかあっただけで崩壊の過程そのものはほぼ描かれていない。どこかで見た災害映像のトレースがあっただけ。崩壊や沈没がどこにあったのか。
 あったものは無用に誇張された日本人の悪いところだけ。これみよがしに出てくる日本人が「ヒャッハー!」世界の住人になっている。日本人に対して何かしらの悪意があるのか、と勘ぐってしまう。現実の大災害の中で日本人が暴れ回っていた……なんて話は実際にはほとんど聞かないのに。昔の関東大震災の頃には朝鮮人を虐殺していた? あれも後の時代に作られたデマ。その時代の新聞記事を見ても警察の記録を見てもそんな事実はなかった。日本人は日本人自身を悪として描きたがる習性があって、『日本沈没2020』もその悪癖が駄目な形で出てしまった作品。日本人はそんなことしないし、そんなことした例もない。でもそこばかりを描いてしまったから、テーマ不明の「日本沈没?」になってしまった。
 唯一の救いだったのが演者たちの芝居の良さ。主演の上田麗奈はリアルな女子中学生の不安と迷いを克明に演じてくれたし、脇を固める声優達もみんなうまい。このうまさがあったから、崩壊していく作画と物語を我慢して追い続けることができた。
 後半に入り、少しは感動できる場面もあるが、それも小手先のものばかりで、「日本沈没」という未曾有の危機に立ち向かう過程に出てきたシーンとは関係がない。マリの病気にしても、それはマリの個人的問題であって、日本沈没という現象とはまったく無関係。後半の展開で泣かせてやろうという、あざとい小手先の設定でしかない。
 武藤歩の足の怪我に関しては、なぜ治療しなかったのか、と疑問でしかない。それくらいの暇はいくらでもあっただろうに。足の怪我をひたすら放置しつづけた理由が不明。こういう意味のわからないところだらけ、というのも作劇崩壊である理由だ。

 『日本沈没2020』は全体を通して見てもずっと「日本沈没?」だったし、最終的には「日本沈没してた」に変わっていた作品だ。何を描きたかったかわからないし、何を見せられているのかもわからなかった。
 湯浅政明監督作品はこれまでずいぶん追いかけてきたけれども、いったいどうしちゃったんだ? というくらいの低質、低クオリティ。作画も作劇もテーマも最低。これだけ成熟したプロの作品だとは思えない。中学生が脚本書いたのかと、いうくらいの駄目さ加減。おまけに、湯浅監督のかなり残念な政治思想や日本人観も見えてしまった。Netflixアニメも大丈夫か……いや大丈夫なわけないか。
 見終えた後に出てきた感想はただ一言――「ひどいものを見た」だ。もちろん視聴はお勧めしない。


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