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読書感想文 銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイアモンド


イントロダクション 問いーなぜ地域による文明の格差は起きたのか?


 はじまりは1972年7月のことだった。この当時、鳥好きおじさんで知られるジャレド・ダイアモンドは鳥類研究のフィールドワークとしてニューギニアを訪れていた。そこで仲良くなった地元の人たちとこんな話をした。
 ニューギニアの人々がヨーロッパ人に発見されたのは、20世紀はじめ頃のことだった。その頃までニューギニアは石器での生活を続けていた。小規模血縁集団(バンド)という小さいコミュニティしかなく、「政治体制」と呼べるものもなかった。しかし“外の世界”では石器から鉄器に移り変わり、集権的政治組織を作り上げて、様々な文明・文化を発展させて産業革命を起こし、今日に至っている。
 好奇心旺盛なニューギニア人は、「なぜこんな違いが生まれたのか?」とジャレド・ダイアモンドに尋ねたわけである。
 なぜ?
 地域によってここまで文明の格差が生まれた理由はなぜなのか? なにか理由があるのだろうか?
 ジャレド・ダイアモンドはこの問いに答えることができなかった。そのかわりにこの問いを25年間考え続け、その末にとうとう書き上げたのがこの大著『銃・病原菌・鉄』だった。なぜこの本を書いたのか――それはニューギニアの友人の問いに答えるため。25年来の疑問に決着を付けるためであった。

 “世界の富と権力”と呼ばれるものはおおむね欧米の白人社会が独占している。それ以外の地域はある意味彼らの植民地として働き、収穫物を捧げるために機能している。かつてのような支配国と植民地という関係性はないにしても、どこか精神的に服従している感覚だけは残ってしまっている。
 それでは、そもそもどうしてこんな社会の不均衡が生まれたのか。なぜ世界の富と権力は現在のように一部の人にしか分配されないのか。どうしてその他の多くの人々は切り捨てられてしまったのか。
 それを掘り下げていこう。

遺伝子的な優劣は存在しない


 こうした問いに対する答えとして、犯しがちな“間違い”をあらかじめ取り上げておきたい。それは「欧米白人が人類の中で特別優秀だったから、現代のような格差が生まれたのだ」――という答えだ。これははっきりと誤りである。
 私たちは石器に留まっている人たちを見て、「彼らは私たちとなにかが違うのだ」と思い込む。「何か」というのはつまり「遺伝子」的な優劣というものがあって、文明人は遺伝子的に優秀で、石器文明の人々は遺伝子的に劣っている……という考えに陥りがちだ。
 しかし欧米白人とニューギニア人の身体を詳しく調査しても、そこに差異などは見当たらない。“遺伝子的な格差”というものは存在しない。というか、人類、つまりホモ・サピエンスが地上に現れたのは40万年前の話で、その時代から比較しても石器時代の人々と私たちとは人体の構造は変わっていない。いや、むしろ劣化したと言われるくらいだ。1万2000年前、農耕が始まったのだが、この時代以後と以前の人類を比較すると、体は小さくなり、脳も小さくなったと言われる。どうしてそんな変化が生じたのか……というと狩猟採取時代のような危険はなくなり、毎日同じ生活を繰り返し続けるようになったからだ。さらに産業革命の時代を経て、人類の肉体と頭脳は逆にかなり弱くなっている。

 文明人は、文明人と原始人の違いは「遺伝子的な格差」がそこにあるとまず思い込むが、それはない。石器人のなかにも聡明な人というのはいくらでもいるし、文明人の中にもバカな人はいくらでもいる。肉体的な格差などまったくないのだから、もしも幼い時点で環境を入れ替えると、石器人は文明人の暮らしを難なく受け入れられるし、文明人は石器人の暮らしを疑問なく過ごせるようになる。肉体的な差異はなく、環境的な差異しかないからだ。
 飛躍した理論として、40万年前の人類に現代のような文明を与えたとしても、問題なく受け入れることができる。実際の例として、オーストラリアでは4万年にわたり石器時代の暮らしをしていた。それが白人が入ってきて、わずか100年のうちに文字文化を持ち、産業化された都市を築き上げることができた。
 ニューギニアにしてもそうだ。ニューギニアが発見されたのは20世紀はじめ頃のことだが、その50年後には文明化された街が作られ、空港が作られた。ところによっては「人類数万年の文明の変遷」を数世代のうちに駆け抜けていった……というところがあって、それで生活の上での問題なんて起きてない。
 認知心理学者は何十年もかけて、白人が優秀であること、石器人が劣っていることを証明しようとした。しかし結論はそこに何もなかった。確かにIQテストでの格差はある。しかしそれは“生まれの環境”によって生じたものであって、“生まれつきの特性”を測定するものではなかった。学者達は白人が他のすべての人種よりも優秀であることを科学的に証明しようとしたが、その試みは現代に至るもすべて失敗している(それどころかIQのみを根拠にしてしまうと、日本を含む東アジアの人々がもっとも知能面で優秀……ということになってしまう)。
 人種が優劣の根拠にならないとしたら、文明の格差が生まれたのはなぜか? その答えを探さなければならない。

スタート地点は1万3000年前


 この問いを考えるにあたり、1万3000年前から考えるといいだろう。なぜ1万3000年前なのか、というとちょうどこの頃、人類が地球上のあらゆる地域に拡散していき、最終氷河期が終わった。アメリカ大陸に人が移住したのもこの時期だ。この頃であれば地球上の人類はほぼ同じくらいの文明レベルで過ごしていた。スタートラインを1万3000年前に設定するとよいだろう。

 今から7万年前、我らホモ・サピエンスはアフリカを脱出し、世界に進出していった。そこから6万年かけて世界中に拡散していき、それぞれで居を構える場所を見出していった。
 普通に考えれば、アフリカに留まった人たちが文明を築き上げるためのスタートを最初に切れるということになる。なにしろ人類は6万年かけて世界中に自分の居場所を求めて彷徨っていたわけだが、アフリカに留まった人たちはずっとアフリカにいて、文化や文明を育むことができたはずだ。時間にして6万年分リードしていたということになる。ところがそうはならなかった。
 例えばニュージーランドに到着したマオリ族は、生活の資源となる石を発見するのに、100年かかっていない。さらに数百年のうちにモア鳥を絶滅に追い込んでいる。100年くらいあれば、人類の知能面でのポテンシャルは現代人と変わらないのだから、それなりの文明を築き上げられるはずである。
 ところがアフリカでは文明の発展はぜんぜん進まなかった。1万1000年前の時点で、入植が始まったばかりのアメリカ先住民と比較しても、アフリカの文明は劣っていたと考えられる。
 ユーラシア大陸と比較すると、その差は歴然だ。アフリカ大陸とユーラシア大陸はいわば「お隣さん」であるのだが、1万2000年頃の時点でユーラシア大陸ではすでに複雑な道具を作り、工芸品も生んでいた。
 地図上のもっとも僻地といえるオーストラリア・ニューギニアはどうだろうか。オーストラリアは大きな大陸ではあるが、周辺から孤立し、土地のほとんどが砂漠だ。しかしどうやらオーストラリア・ニューギニアは人類でもっとも早く舟を発明していた。洞窟の壁画もヨーロッパのクロマニヨン人と同じくらいに早い。ある段階においては、実はオーストラリアは世界でもっとも文明が発達した地域でもあった。
 1万1000年前の時点を見ると、最終的に文明をもっとも繁栄させるであろう地域を特定するのはかなり難しい。もっとも歴史の長いアフリカか、それともすでに工芸品を発明していたユーラシア大陸が、それとも人類最初の舟を発明していたオーストラリア人か……。この時点ではスタートラインはほぼ一緒だった。
 ところがこの後、人類文明は大きな変遷を辿ることになる。その中心地にあるのはユーラシア大陸であった。なぜそうなったのか、理由を深掘りして行こう。

ニュージーランドの悲劇


 こんなお話しから始めよう。
 1835年11月19日、ニュージーランドの東500マイル(800キロ)のところにあるチャタム諸島に、鉄や棍棒、斧で武装したマオリ族500人が突如、舟で侵入した。12月5日には後続隊400人が侵略。マオリ族達は「モリオリ族は我々の奴隷だ! 抵抗する者は殺す!」と言いながら島の人々を殺し回った。
 モリオリ族の方が人数面では優位だった。モリオリ族は1800人ほど。しかしモリオリ族は「もめ事は会合で解決する」という伝統に則ってマオリ族を招き、友好関係を築こうとした。
 が、マオリ族はモリオリ族の申し出を聞く前に、彼らを襲撃し、数日のうちに数百人を殺戮した。生存者は奴隷にされたが、数年後にはほとんどが殺されてしまう。チャタム諸島で数世紀にわたり発展したモリオリ族の独立は、1835年12月、暴力によって突如終わりを告げる。
 どうしてこうなったのか?
 生活と武力の面で見てみよう。モリオリ族は小さな孤立した狩猟採取民のグループで、たいした技術も持っていなかった。武器と呼べるものもほとんどもっておらず、戦争は未経験だった。
 一方ニュージーランド北東に住んでいたマオリ族は人口の稠密なところに住んでいた農耕民で、残虐な戦争にも慣れていた。当然ながら武器も優れたものを持っていた。
 一般的には「狩猟採取民は好戦的」「農耕民は性格が穏やか」と言われがちだが、実際はその逆だ。狩猟採取民のあいだで戦争なんてものはほぼ起こらない。まず戦争をする必要がないからだ。一方、農耕民は好戦的だ。その理由は後ほど触れよう。
 今回の虐殺の悲劇に話を戻すと、実はマオリ族もモリオリ族もその1000年前まで遡ると同じポリネシア民族であった。現代のマオリ族は西暦1000年頃にニュージーランドに植民してきたポリネシア農耕民の子孫だ。その後、マオリ族の一部がチャタム諸島に植民し、モリオリ族となった。
 その後の数百年で、マオリ族とモリオリ族はまったく違う系統に進化していく。マオリ族は文明を発達させ高度な政治機構と文明を獲得するに至った。一方のモリオリ族は農耕民であったはずなのに狩猟採取民に逆戻りし、政治機構を単純化し、文明も発達させなかった。
 わずか数百年の間に、この格差が生まれていったわけである。なぜだろうか?

 この事件は環境が文明社会におよぼす影響についてを物語っている。
 まずこの事象を考えるにあたり、ポリネシアの島々がどういう環境であるかを見ていこう。
 ニューギニアとメラネシア以遠の太平洋には何千もの島が点在している。これらの島々は、広さ、隔絶度、海抜、気候、生産性、鉱物資源、生物資源の豊かさにバラツキがある。さらに距離があるので、舟を発明していたとはいえ、気軽に行き来できるような環境ではない。
 紀元前1200年頃、ニューギニア北部のビスマーク諸島に最初の農耕漁労民がやってきた。それから西暦500年頃までには、ほぼすべての島に人間が移り住んだ。まずスタート地点は「同じポリネシア人だった」ということを了解していただきたい。だから同じ文化・言語・技術を持ち、育てていた同植物も同じだった。しかし自然の環境が違ったため、それぞれで違う文化・文明を築き上げていくことになる。

 今回の例の場合、チャタム諸島に入っていった元・マオリ族はもともと農耕民であった。ところがチャタム諸島はやや気候が寒冷であったため、持ち込んだ作物はうまく育たなかった。そのために、チャタム諸島のモリオリ族は狩猟採取民に戻らねばならなかった。
 狩猟採取民と農耕民の違いはまず食糧の貯蔵するだけの「余剰ぶん」がないこと。その余剰分がないということは非食料生産人口を養うことができない。非食料生産人口というのは職人、軍人、役人、族長といった人たちである。すると人口もある程度以上増えることはなく、モリオリ族は最大でも2000人が人口の上限であった。モリオリ族は島の外に出ることもできなかったので、同じ島の住人同士仲良くする習慣が身についてくる。すると武器を放棄し、戦争もしなくなっていく。もめ事が起きても会合で解決する……という考え方になっていった。
 一方のニュージーランド北の島は、気候的に温暖だったため、農耕に適していた。食料生産が可能なため、人口は10万人を越え、余剰分を貯蔵できるようになるから、非食料生産人口を養うことができるようになった。職人、軍人、族長……マオリ族は文化を発達させ、様々な道具とともに武器も作り出し、戦闘のための砦も築いていた。そうなっていったのは、人口が増えていったために衝突も頻繁に起きるようになっていったからだった。
 農耕は食料生産が可能だから、どんどん人を増やすことができる。人が増えるとさらなる食料生産が必要で森を開拓していくことになる。しかしそれも限界に達すると、お互いの土地を奪い合おうと戦いになっていく。そうした歴史を経てきたから、好戦的な性格になり、戦いの技術が身についていく。農耕民はこうやって好戦的な性格になっていく。
 そんな感じにマオリ族は増えていったが、それもいつしか限界まで来ていた。ニュージーランドに留まっていたら、食糧確保が難しい。島の外に進出しなければならない。そこで近くの島に自然豊かで、しかも住民たちが武器を持っていないという場所がある……と噂として入ってくる。そうして900人のマオリ族の戦士が舟に乗り、チャタム諸島に進撃し、無防備な人々を殺戮して回るという悲劇が起きたというわけだった。

アメリカ先住民の悲劇


フランシスコ・ピサロ将軍 1470~1541

 アメリカ先住民とヨーロッパ人の接触は西暦986年から古代スカンジナビア人がグリーンランドに住み着いた……という話は残っているが、それが大きなインパクトをもたらすことはなかった。やはり1492年のクリストファー・コロンブスによる新大陸発見が大きな事件だった。
 その後の事件として注目したいのは、1531年11月16日に起きた、スペイン征服者ピサロとインカ皇帝アタワルパが、ペルー北部の高地カハマルカで遭遇した事例だ。
 アタワルパは当時のアメリカ大陸でもっとも発展した国家の絶対君主であった。対するピサロは、ヨーロッパ最強の君主であった神聖ローマ帝国カール5世を代表していた。が、この時ピサロが率いていたのはわずか168人の小部隊でしかなく、しかもいわゆるな“ならず者部隊”だった。ピサロは新大陸の地理がわからなかったし、地域住民のこともわかってなかった。ピサロはスペイン人居留地(パナマ)から南方1000マイル(1600キロ)の地点にいて、援軍を求めることもできなかった。対するアタワルパは何百万という臣民のいる帝国の中心にいた。職業兵士の数は実に8万人である。
 さて、この戦いはどうなったのか? どう戦えばピサロ側に勝ち筋があるのか? 168人対8万人……あまりにも不利に思えたが……。
 この時の記録は文字として残されているので見てみよう。

インカ帝国の場所

 1531年11月16日。将軍ピサロは現地住人を捉えて拷問にかけ、帝王アタワルパがカハマルカで待ち受けていると聞き出した。将軍は間もなく盆地のふもとにアタワルパの陣営があるのを確認した。テントで作られた街で、その数は圧倒的に思えた。自分たちの軍団はわずか168人……勝ち目がないように思えた。
 そこで将軍ピサロはアタワルパに使者を送った。
「いつでもご都合のいい時においでください。どんな侮辱も危害も加えるつもりはない」
 もちろん嘘だ。会合場所は銃で武装したピサロ兵が取り囲んでいる……という罠だった。しかしこんな見え透いた罠に、引っ掛かる奴などいるのか?
 翌日の昼になると、アタワルパが家来を連れてやってきた。ピサロは神父を遣わし、アタワルパにイエス・キリストの教えに従い、スペイン王に仕えることを要求した。
 アタワルパは聖書を見せるように命じた。しかしアタワルパはどうやって本を開くことができるのかわからなかった。神父が開けてやろうと手を伸ばすと、アタワルパが激怒し、聖書を投げ出した。
 神父はピサロのところに引き返し、叫んだ。
「クリスチャン達よ出てくるのだ! あの暴君は私の、聖なる教えの本を地面に投げ捨てた。出てきて戦うことを私が許す!」
 ピサロは隠れていた仲間達に指示を出した。歩兵達が一斉に銃弾を放つ。アタワルパの家来達は突然の襲撃に逃げだそうとした。ピサロの歩兵達が突撃し、アタワルパの家臣達を次々に刺し殺す。
 アタワルパ自身も逃げだそうとしたが、ピサロの騎兵達が追いすがり、その仲間達を殺してアタワルパを取り囲んだ。こうしてアタワルパを捕らえたのだった。

 この戦いでピサロのならず者部隊はアタワルパの兵士を7000人も殺し、一方ピサロ軍側の犠牲者は0人だった。アタワルパを捕虜として捕らえて身代金を要求し、歴史的にも世界最高額の身代金を獲得した。この時、「アタワルパには手出ししない」という約束だったが、身代金を手にすると約束を反故にして、アタワルパを処刑している。
 しかし変な話ではないか。どうしてアタワルパは見え透いた罠にノコノコとやってきたのか? 確かにピサロは最新鋭の鉄の鎧に銃で武装していたとはいえ、なぜここまで圧倒的な成果を叩き出すことができたのか? そもそもアタワルパはなぜ安全な帝国におらず、わざわざ家臣達を連れて街の外に出てテントを作っていたのか? この戦いはおかしなところだらけで、あたかも将軍ピサロにお膳立てしていたかのように見える。
 すべてキリスト教徒のいう「神の思し召し」だったのか? それとも別のなにかがあったのか。だとしたらそれはなんだったのか……を見ていこう。

 話は1492年、コロンブス新大陸発見のその時から始まる。実はこの時、コロンブスは新大陸に疫病である「天然痘」を持ち込んでいた。この天然痘によって1492年から1600年代までにアメリカ大陸にいた先住民の95%を死に追いやっている。アメリカ大陸にはもともと多くの先住民がいたのだが、そのほとんどが天然痘によって死に絶えてしまっていた。
 天然痘は南米帝国にも及び、人が大量に死んだというだけではなく、内乱を引き起こす原因にもなっていた。
 1526年インカ皇帝ワイナ・カパックが天然痘で死亡するが、後任のニナン・クヨチもすぐに死んでしまう。これを切っ掛けに、誰が王座に就くかで内乱が起きてしまった。王位候補であったアタワルパは異母兄弟のワスカルと戦うために帝国を出て遠征していた。そんな最中にピサロと遭遇したのだった。
 実はピサロもインカ帝国の惨状や、内戦状態だったことを知っていた。だからわずか168人という小部隊で「行けるかも……」と乗り込んでいったわけである。しかし行ってみるとそこには8万の軍勢がいて「あ、やべっ」と思い、そこで簡単な罠を仕掛け、招待してみた。そこにアタワルパがノコノコやってきた……ということだった。
 つまりインカ帝国はすでに天然痘によって崩壊寸前だった。しかも激しい内戦があって兵士達は消耗していた。疲れ切っているところにアタワルパはピサロに和平を持ちかけられて、まんまと騙されたのだった。
 疫病でボロボロだった上に、装備の差が効果を発揮した。ピサロの軍は鉄の甲冑と銃器、馬で武装していた。対するアタワルパは木・石・青銅の棍棒、刺し子の鎧だった(斧や矛はあったが、まだ剣を発明していなかった)。インカ帝国は人を乗せる動物も持っておらず、車輪すら発明していなかった。いや、正確には子供の玩具に車輪はあったのだが、それを人間や荷物を運ぶために利用しようとは思いつかなかった。
 この兵器の差でピサロ側の犠牲者は1人も出さず、1人につき42人撃破し、トータルで7000人も刺し殺すという戦果を出している。
 その後もスペイン軍は何度も南米に進出し、いずれも少数の軍勢で数千から数万人の先住民に勝利し、彼らの国を崩壊に追いやった。

 この時、ピサロが勝利できたのは「銃・病原菌・鉄」という3つの武器によるものだった。この事例にかかわらず、ヨーロッパ人が他の大陸を征服できたのは、銃・病原菌、鉄の3要素があったからだった。
 それでは次なる疑問を解かねばならない。なぜヨーロッパ人は銃や鉄剣を発明することができたのか。なぜインカ帝国は巨大な国家を持ちながら銃と鉄剣を発明することができなかったのか。なぜ馬のような人を乗せる獣を持たなかったのか。なぜ文字を発明しなかったのか。
 やはりそこに遺伝子的な優劣があって、ヨーロッパ人が特別優秀であったから、彼らは文明を発達させ武器を生み出し、その結果戦争に勝利することができたということなのか? もしもそれ以外の理由があるとしたらなんだったのか――それを追求していこう。

本の感想 ~ヨーロッパ人が世界征服を達成できた理由


 はい、ここまで。
 ここまでで本書第1部の全体像をサクッとまとめてみたけれど……実はまだ本書のプロローグ部分。第1部は世界で起きたいくつかの事例を示しただけであって、ここから「本題」に入っていく。
 ここで切っちゃうとこの本で何を論じたいのかよくわからないと思うので、この後の展開もサクッとまとめておこう。

 もう一度1万3000年前まで話を戻し、ここから世界各地に分散していった人類に何が起きたかを見ていこう。
 最終氷河期が終わった後、温暖な時代がやってきて、世界でぽつぽつと「農耕」が始まるようになってくる。ただしこの時代には現代のような作物はなく、野生の植物をどうにか栽培化する……という方法が採られていた。そんなふうに食料生産が始まった地域というのは、メソポタミア文明を生んだ肥沃三日月地帯、南中国、中米、南米のアンデス地帯、合衆国東部の5箇所である。

 それぞれで栽培されはじめた作物をまとめておこう。
南西アジア
  小麦、エンドウ、オリーブ
    …紀元前8500年
南中国
  米、雑穀
    …紀元前7500年
中央アメリカ
  トウモロコシ、インゲン、カボチャなど
    …紀元前3500年
アンデスおよびアマゾン川流域
  ジャガイモ、キャッサバ
    …紀元前3500年
アメリカ合衆国東部
  ヒマワリ、アカザ
    …紀元前2500年

 今から1万2000年前頃、農耕を発見したと言われるが、すぐさま狩猟採取民が農耕民となったわけではない。
 例えばニューギニアのレイク平野に住む部族は、現在でも密林を移動しながら農耕を行っている。そのやり方というのは、密林の中にバナナやパパイアの木の実を植えて、その後はまた狩猟採取の生活に戻り、数ヶ月後、実っているかどうか確認に戻ってくる。これも農耕と言えば農耕だ。おそらくはこんなふうに、数千年の時間をかけてじわじわと狩猟採取の生活から農耕へとシフトしていった……のだと考えられる。
 それに「野生種」というのはさほど実を付けるものではない。現在のように実がどっさり……というのは品種改良されたものだ。こうなるには時間をかけてたまたま実を多くつけた作物同士を掛け合わせて……というプロセスが必要で、この手間だけで1000年や2000年の時間を要したと思われている。
 それに、「食べられるようになる」には「突然変異」もしなければならなかった。
 例えばアーモンドは本来の野生種は有毒。アミグダリンという物質が入っており、これはシアン系毒物である。食べたら人間は死ぬ。
 しかし時々、野生種のアーモンドに毒の入っていない種ができる場合がある。古代人が「毒の入っていないアーモンド」をどうやって見分けたかわからないが、とにかくもたまたま毒の入っていないアーモンドを選別し、栽培するようになった。
 それが具体的にいつ頃だったのかというと紀元前8000年頃。ギリシアの遺跡からアーモンドが出土している。紀元前3000年頃には地中海地方東部で栽培されるようになった。現在では毒の入ったアーモンドのほうが地上に存在しないような状態になっている。
 こんなふうに野生の中でも時々発生する「変異種」を古代人はめざとく見付けて、それのみを選別して掛け合わせて……というのを繰り返していった。そうやって野生種は、少しずつ現代見られるような作物になっていった。
 現代のスーパーマーケットで手に入るリンゴは直径7.5センチくらいだが、野生のリンゴは2.5センチ。トウモロコシは穂軸の長さ45センチもあるが、もともとの野生種は1.3センチほどだった。メキシコ先住民が育てていたトウモロコシは15センチほど。現代のトウモロコシの大きさは、たまたま大きく育った変異種同士を掛け合わせて作ったものだった。

 こんなふうに数千年の時間をかけて狩猟採取民から農耕民へと変わっていったのだが、自然が豊かだった頃、というのは森に入れば無限に食料が手に入るわけで、積極的に農耕民になる必要はなかった。
 おそらくは自然の変化が狩猟採取から農耕へと変化させていったのだろう。森から食料となる野生動物がいなくなり、狩猟採取の生活を維持するのが難しくなった。そこでようやく農耕だ……ということになったのだろう。

肥沃な三日月地帯。この地域にメソポタミア文明は生まれた。

 そんな感じに「野生の作物を自ら育てる」という思いつきが始まったのが1万2000年前だが、生活が農耕を主軸とするようになったのは紀元前8500年頃。その最前線に立っていたのが南西アジア、つまりメソポタミア文明を生み出した肥沃三日月地帯だ。
 ではなぜこの地域が世界でもっとも早く、進歩的な農耕が始まる切っ掛けとなったのか?
 まずこの地域は農耕に適した地中海性気候だった。穏やかで湿潤な冬と、長くて暑い乾燥した夏という気候だ。作物は夏の乾燥した時期を生きのび、雨季がくるタイミングで一気に生育する。
 農作物の多くは1年草の植物となっている。もともとの野生種には1年草作物なんてものはなく、人類がそのように作り替えたわけだが、1年草作物は1年という寿命の中で生育し、種子をより多く残そうとする。そこで乾期と雨季というメリハリのある自然は、作物の生長にも都合がいい。1年草作物は人間が食べられないような樹皮や繊維質を育む幹や茎にエネルギーを使わず、ただ実を多く、大きく育てることだけに集中する。
 肥沃三日月地帯が優位であった条件の2つめが、農作物として適性のある野生種がこの地域には豊富にあったこと。この世界には人間にとって都合のよいイネ科の植物がぜんぶで56種あるわけだが、肥沃三日月地帯にはそのうち32種もあった。この種類の多さは、狩猟採取の生活から農耕に切り替えようと決断させるに充分な数字である。農耕に切り替えても種類豊富な食べ物にありつけることができて、栄養が偏ることはない。

 それに家畜化するのに都合のよい動物種もこの地域に集中していた。ヤギ、羊、豚、牛……これらも肥沃三日月地帯ではじめに家畜化している。
 本書が「由緒ある家畜」と呼んでいる動物たちがいる。その由緒ある家畜の中からさらに「メジャーな5種」と「マイナーな9種」に分けている。まとめると以下のようになる。
 メジャーな5種
   羊、ヤギ、牛、豚、馬
 マイナーな9種
   ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマおよびアルパカ、ロバ、トナカイ、水牛、ヤク、バリ牛、ガヤル
 人類が20世紀までに家畜化できた動物たちというのは以上の14種しかいない。どの動物たちも従順で繁殖させやすく、かつ「美味しく食べられる」部位が多い動物たちである。
 肥沃三日月地帯はメジャーな5種のうち4種がいた。農耕が始まった初期の頃にはこれらの動物を使役し、畑仕事を手伝わせ、ある程度の年齢に達すると食用としていた。

 それ以外の動物たちはなぜ家畜にならなかったのだろうか。
 考えられる理由は6つ。エサの問題。成長速度の問題。繁殖上の問題。気性の問題。パニックを起こしやすい性格。序列性のある集団を形成しない問題……などである。
 例えばクマは珍味として現在もその肉が珍重されている。しかしクマはまず気性が荒い。暴れ出すと人間には手に負えない。それにエサの問題だ。クマを食べられるサイズまで育てようと思ったら、大量のエサが必要となる。極めつけに繁殖の問題だ。牛や羊のように多産というわけではない。
 以上のような理由から、クマは家畜化して育てるにはあまりにも手間がかかりすぎる。ライオン、キリン、ゾウ……アフリカには大型動物が多く生息していて、歴史的にはこれらの動物が飼育された記録も多い。しかしどの動物たちも生育には大量のエサが必要で、大人になるまでの時間がかかり、容易に繁殖しない。それに、人間に従順ではない。人間と一緒に暮らせば、ある程度人間生活に順応はしてくれるが、ひとたび暴れ出すと人間など一瞬で殺せてしまう。動物種の中には唐突にパニックを起こす種もいて、こういう種は訳のわからないタイミングでパニックを起こし、まわりにいる生き物を片っ端から攻撃を始めてしまう。そんな気質を持った動物とともに暮らすのは危険すぎる。
 その一方で、メジャーな5種である羊、ヤギ、牛、豚、馬は人間に懐きやすく従順。人間にとって都合がいいから、この5種が人類の友となっていった。

 次に見ていきたいのは「伝播の方向」である。文化はその地域だけで自己完結するのではなく、次第に周囲の地域に伝播していく。この伝播していく方向性にも法則性があった。
 本書に書いてある内容を要約すると、東西に伝播しやすく、南北に伝播しにくい……となっている。
 なぜ東西方向に伝播しやすかったのか、というと緯度が同じであれば同じ文化を移植することが可能だったからだ。まず農耕はもともとあった気候と似通った気候でなければ育てることができない。同じ緯度であればある程度気候が同じであるので、同じ作物を育てることができる。しかし経度は少しずれると作物も家畜も育てるのが難しい。
 ユーラシア大陸、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸の形を比較すると、ユーラシア大陸は東西に長い。東西に長いということは地域を変えてもだいたい同じ作物を育てられる。
 例えば「小麦」は肥沃三日月地帯で栽培が始まり、シルクロードを通って紀元前2000年頃中国に入ってきた。それから8世紀頃日本に入ってきて、この時には小麦を粉にして麺を作る技術も同時に伝わっていたので、小麦が伝わってすぐにうどんが食べられるようになった。肥沃三日月地帯から日本まで直線にして1万キロの距離があるのにかかわらず、日本でも問題なく小麦の栽培が可能だった。これも緯度がほぼ一緒だったからだ。

肥沃三日月地帯と日本。緯度がほぼ一緒なので、同じものが栽培可能だった。

 肥沃三日月地帯発祥の作物がどれくらいの時期にヨーロッパに拡散したかを調査した地図だ。遺跡に残っていた食料をしらみつぶしに炭素年代測定法にかけてようやく作り上げた、なかなかの労作である。作成者は遺伝学者のダニエル・ゾウハリー、植物学者のマリア・ホフの2人。
 紀元前8000年頃、肥沃三日月地帯で本格的に農耕が始まり、紀元前5400年頃には中央ヨーロッパに、紀元前3500年頃にはイギリスにまで到達している。ただし、北部へ行くほど農耕の厳しい土地になっていき、イギリスまでいくとジャガイモ栽培と羊毛産業しかない……という状態になっていく。経度が変わると農産物も家畜もなかなか育たないのだ。

 しかしアフリカ大陸や南北アメリカ大陸は南北に長いために、特定の地域で発達した文化が伝播しにくい。おまけにアメリカ大陸もアフリカ大陸も地形的な要害が多く、普通に交流するのも難しい。
 アフリカ北部は緯度を見ると肥沃三日月地帯と同じであるので作物や家畜が伝播したが、そこから南へはなかなか広がらなかった。気候の変化があまりにも大きく、しかも伝染病もあったため、ケニアの辺りで留まってしまった。南アフリカまで作物と家畜が伝わったのは西暦200年に入ってようやくだったが、しかし気候があまりにも違いすぎるのでそれで農耕が始まることはなかった。南アフリカで本格的に農耕が始まったのは1652年以降のことだった。

 アメリカ大陸も同じく、ある地域で生まれた作物や家畜はなかなか周辺地域へと伝わらなかった。例えばメキシコでトウモロコシやカボチャ、インゲン豆の栽培が始まったが、わずか1000キロ北へその作物を伝えるのに数千年の時間を要した。伝わっても気候が違っていたので、「自分のところでもトウモロコシを作ろう」とはならなかった。

 次に技術や発明品の伝播も見ていこう。技術や発明品の伝播も、東西方向に伝播しやすい特徴があった。
 まずは「車輪」。車輪が発明されたのは紀元前3000年頃の西南アジア。これは瞬く間にユーラシア大陸中に広がった。
 次に文字。アルファベットは紀元前1500年頃、肥沃三日月地帯で使われるようになり、1000年ほどで西はアフリカ大陸北岸のカルタゴ、東はインド亜大陸まで伝わった。
 鉄の生産はおそらく紀元前1400年頃のヒッタイト。この頃、ヒッタイトは鉄を生産し、当時世界最強の武器と防具を作り出すことに成功し、周辺国を領土にしている。しかし鉄は秘伝の技術だったため、この技術が周囲に拡散するのはヒッタイト滅亡後以降(紀元前1200年頃)だった。
 中国はある時期まで世界で最も優れた科学技術を持った国だった。まず3世紀に木版印刷を発明。9世紀に火薬を発明。11世紀に羅針盤を発明。
 これらの技術も東西方向に伝播していき、火薬が西洋で使われはじめたのは13世紀頃。羅針盤の13世紀に入り西洋に伝わり、これが改良されたことによって大航海時代が始まった。
 一方、アメリカ大陸ではメキシコで車輪が発明されたものの、この技術は南米に伝わることはなかった。文字文化もどうやら原始的な文字はあったとされるが、それらが広まって発展することはなかった。

 最後の要素である「疫病」はどうだろうか?
 狩猟採取民時代には実は疫病なるものはほとんどなかった。疫病が人類の間に流行するようになったのは、家畜とともに暮らすようになってから。人類が天然痘にかかるようになったのは紀元前1600年頃。おたふく風邪は紀元前400年頃。マラリアもおそらく紀元前400年頃。ハンセン病は紀元前200年頃。ペストは何度も流行しているが、最初のパンデミックは西暦541年。ポリオ(小児麻痺)は1840年頃。エイズは1959年初めて患者が確認された。
 実は人類史から見ると疫病の歴史は浅い。農耕での生活が完全に広まって以降、やっと現れたものだった。
 現代ではすでに治療薬があり、たいした病と見なされていないインフルエンザも、最初のパンデミックが起きた第1次世界大戦直後の時代、世界で2000万人を死に追いやっている。1346年から1352年にかけてパンデミックを起こした黒死病(腺ペスト)は当時のヨーロッパの4分の1である2000万人から3000万人を死に追いやった(正確な統計はないので推計)。
 しかしパンデミックはやがて収まるものである。どうしてこうなるのか、というと「遺伝子の選別」が起きるからだ。一つの疫病が広がると、その疫病に対し免疫力の弱い人から死んでいき、免疫力の強い人が生き残る。そうして世代が一つ移り変わるごとに免疫力の強い人々が生き残り、社会を作っていく。こうやって免疫に強い人々が多くなっていき、パンデミックも収まっていく。
 実は疫病のほうも生存するために自ら弱毒化する性質を持っている。例えば1495年、コロンブスが新大陸から持ち帰った「梅毒」は初期の頃、頭から膝まで膿疱で覆われ、顔から肉がそげ落ちて数ヶ月後には死亡する恐るべき病だった。現在では性器に炎症が起こり、放置すると死に至るのだが、それまでの期間は長い。
 最近はコロナウィルスの流行があったが、コロナウィルスは何度も変異を繰り返し、そのたびに弱毒化していった。コロナウイルスのパンデミックは2019年に始まったが、2023年現在、インフルエンザとさほど変わらない扱いになっている。
 天然痘はどうだったのだろうか。天然痘が最初に発見されたのはおそらく古代エジプト時代。その後、歴史を通じて天然痘は何度もパンデミックを起こしている。ヨーロッパでは西暦165年、12世紀十字軍遠征以降、パンデミックが起きている。その後は免疫力を持つ人々がヨーロッパに増えたので、天然痘は脅威の病ではなくなった。
 しかしアメリカ大陸の人々はどうだっただろうか。1492年、コロンブスがアメリカ大陸に天然痘を持ち込んだ。新大陸の人々にとっては天然痘は完全に未知の病で、免疫力を持つ人がまったくいなかった。そこで猛威を振るい、9割近い人々を死に至らしめた。アステカ、インカ帝国も天然痘によってほぼ壊滅状態になり、そこでスペイン軍がトドメを刺した。

 ここまでにしておきましょう。
 こういった本はどうしても回りくどく書かれるところがあるので、「テーマは何か?」ということを頭にしっかり置いて見なければならない。そこで昔から有効だと思われている読み方が、段落の最初と最後を先に読み、それから中を読む……という方法だ。この読み方は面倒くさいんだけど。とにかくも「テーマは何か?」これさえしっかり頭に置いておけば、話を見失うことはほぼないはずだ。
 この本におけるテーマは、「なぜ文明の格差は生まれたのか?」。最初の章にニューギニア先住民の友人に問いかけられた「謎」がテーマになっている。
 ここまでに書いてきた内容をざっくり要約してしまうと、地理的な幸運があったから。まず大前提において、すべての人類、つまりホモ・サピエンスは40万年前の時点で完成状態になっており、先進国と後進国を比較しても遺伝子上の優劣は存在しない。これはジャレド・ダイアモンドも肌感覚として感じているもので、ニューギニアの石器生活をしている人々は非常に冷静かつ賢明で、新しい知識や技術があればすぐに関心を持ち、貪欲に吸収していったという。一方、文明人はどうかというと知識も娯楽も受け身的に浴びるだけで、そこから何かを得よう、学ぼうという意識がまったくない。ただ一時的な快楽を求めるだけで、飽きたら次の娯楽……という感じだ。ひょっとすると、現代の文明人は「文明」という下駄を履かされているだけで、石器人のほうが頭が良かったのではないか……とすら思うほどだ。
 それでも「文明の格差」という点で見ると、いま世界の覇者は欧米白人となっている。どうしてそうなったのか……という経緯を1万3000年前をスタート地点として考えた、というのがこの本だ。

 もう一度書くが、文明を獲得する切っ掛けは地理的な幸運によるものだ。まず農耕が最初に発見されたのはメソポタミア文明を生み出した肥沃三日月地帯だ。どうしてこの地で最初に農耕を発達させられたのか、というとこの地に農耕に適した野生種がだいたい揃っていたから。また家畜となる動物もだいたいこの地にいた。そうした幸運があって、この地域で最初の「文明」が生まれた。
 ところが文明というのは一種の「罠」である。農耕が始まると、その畑の世話をするために労働者が必要となり、人口が増える。食料生産が始まると「余剰食糧」ができるので、人を増やすことが可能になる。人口が増えると、今度はその人口を食べさせるために自然を破壊し、農地を作り出さねばならない。するとまた人口が増えて農地が必要になり……それでいよいよ農地を広げる場所がない、となったら戦争だ。マオリ族がチャタム諸島を襲撃した悲劇がこれだ。
 昔から「農耕民は性格穏やか」で「狩猟採取民は攻撃的」と言われがちだが、事実は逆だ。狩猟採取民は滅多なことでは戦争をしない。農耕民のほうが戦争を起こす可能性は高く、また農耕文明は非食料生産人口を抱えることができるので、職業軍人を作り養うことができる。
 帝国主義はどうしてああも領土を広げ続けるのか……それは国民に食べさせるためである。文化が高度に発達して、非食料生産人口が増えてくると、この体制を維持するために、外部に食料を生産させる場所が必要になってくる。しかし人間はいつも手段と目的を入れ違えてしまう。例えば末期のロシア帝国は、領土を広げることこそが皇帝の務め……ということになっていた。それで無理して日露戦争を開戦し、敗北し、帝国崩壊の切っ掛けを作ってしまう。なぜ領土が必要だったのか……という根本がわからなくなると、崩壊が始まってしまう。
 ではなぜ人類は農耕なんてものを始めたのか? おそらくは環境の変化だったと考えられる。原始的な農耕は森の一角に種を植えて、その後数ヶ月放置……その間は狩猟採取民に戻る、というやり方だったと思われる。しかし間もなく狩猟採取での実入りが減っていき、農耕で得られる収穫が多くなってきた。そこで逆転現象が起きたのではないか……とされる。人類が農耕を発見したのが1万2000年前で本格的な農耕の始まりが1万年前だから、その移行期間が2000年近くもあったということになる。その間に野生種の作物は次第に品種改良されていき、農耕に適した植物になっていったのだろう。
 文明が大きくなっていくと、少しずつ「余剰人口」を抱えるようになっていく。するとこの余剰人口のなかからイノベーションが生まれる。道具を作るための専門職が生まれて道具の質が高くなり、それが一定値に達すると車輪や鉄器や文字文化というものが生まれるようになる。
 この発明は地理的な東西に伝播しやすく、南北には伝播しにくい。ユーラシア大陸は東西に長い地形なので、作物や文化や発明品はあまねく広がっていった。一方、アフリカ大陸は各地域で分断されているために発明品があってもそれが広まることはなかった。

 こうやってメソポタミア文明が現代の人類文明の基礎を作り出したのだが、やがて滅亡してしまう。滅亡したのは自然環境が崩壊したためであった。食料生産と文明を築くためには自然と取引しなければならない。自然を削って農地を作り、食料に変える。森を削って住宅を作る。文明と自然はトレードオフの関係にある。
 メソポタミア文明は文明が発達しすぎて人口増加が抑えられなくなり、とうとう自然環境を完全に崩壊させてしまった。その後はカタストロフがやってくる。現在、メソポタミア文明があったはずのイラク・クエート周辺は荒涼とした砂漠となっていて、情勢不安の地域となっている。古代文明時代のカタストロフから立ち直れていないのが、あの地域だ。
 メソポタミア文明に限らず、文明の崩壊は自然を消費し尽くすと終了になる。エジプト文明、ギリシア文明……いずれも同じ末路を辿った。自然を消費し尽くし、環境が変わってしまって文明も崩壊する。かつて文明が栄えた地域は今は砂漠のイメージしかないのは、そういう経緯だった。エジプトもギリシアも文明が栄えた時期は、自然豊かな環境だった。“サハラ”といったら現代は砂漠というイメージしかないが、あの地域ももともとは広大な草原地帯で、すぐれた文明が築かれていた。みんな自然を消費し尽くして砂漠になっていったのである。

 しかしヨーロッパは開拓された後も自然が崩壊することはなかった。なぜならあの地域は降雨量に恵まれており、容易には自然が崩壊しない環境だったからだ。
 ここまでの話を注意深く読んでいただければ気がつくと思うが、人類史初期の重要な発明品はヨーロッパからただの一つも生まれていない。鉄器、車輪、文字。さらに活版印刷、羅針盤、火薬。これらはいずれもメソポタミア文明か黄河文明の発明だった。しかしいずれも文明が崩壊し、これらの発明品を手放していくことになる。
 それを運良く獲得できた……というのがヨーロッパだった。つまり発明品のフリーライド(タダ乗り)だった。
 なぜヨーロッパがフリーライドできたかというと、やはり地理的な幸運だった。もともとヨーロッパには農耕に適した作物もなく、家畜に適した動物もほとんどいなかった。しかしそのどちらも引き受けやすい地理的な近さがあった。さらに文明を崩壊させてしまわないだけの豊かな自然環境もあった。
 といってもヨーロッパがメソポタミア文明やギリシア文明で生まれた技術や知識を引き受けるまでかなり長い時間がかかった。メソポタミア文明が崩壊し、ギリシア文明が崩壊し、ローマ帝国が崩壊し……それからやっとヨーロッパだった。それまでヨーロッパは迷信がはびこる地域で、なかなか理性的な知識に恵まれることはなかった。偉大なる先史文明が完全に崩壊し、それからやっとヨーロッパの時代がやってきて、1837年の産業革命に至る。
 ヨーロッパが世界の覇者になれたのは実はここ200年ほどの話でしかなく、その200年ほどの間に現代のような社会を作った……それが今である。

 これがジャレド・ダイアモンドによるニューギニアの友人に対する答えとなる。

 最初のほうにも書いたけれども、欧米白人が世界の覇者になれたのは、欧米白人が人類の中で特別優れた知能を持っていたからではない。単純なIQだけの話をすると、日本人、中国人、韓国人のほうが上。それでもなぜ白人が世界の先駆者になれたのかというと、地理的な優位性があったから。たまたまチャンスに恵まれていたから、欧米白人中心の今の社会が築かれていった。
 世の中の成功者達が勘違いしていることは、「自分たちは特別な能力に優れていた」という思い込みである。もしかしたら特別な能力を持っていたかも知れないが、それは全体として見ると“少々の差”程度でしかない。ほとんどの場合、「運」である。運が良かったから成功をつかみ取れた。幸運をつかみ取れる場所にいた(だいたい「どこにいたか?」で成功するかどうかは決まる)。その運という要素を度外視すると、将来の失敗に繋がる。文明という大きな視点で見てもそうだし、個人という小さな視点で見ても、だいたい要因は同じ、「運」である。
 欧米白人達は自分たちこそが世界でもっとも知性優れた人種だ……と思い込んでいる。世界の先駆者としての自負と独善性を持っている。しかし……正直なところ、200年続いた欧米白人の栄華もそろそろ限界かな……と私は感じている。
 世の中的には「欧米についていけば問題ない!」という意識が蔓延している。「欧米では今こうなっている! 欧米と同じように日本を変えるべきだ!」――日本のエリート層ほどこういう幻惑に騙されやすい。そういう実例を毎日のように見かける。エリート層になるほど、なぜか欧米を崇拝し、欧米で起きている些細な変化を賛美する性格が身についてしまうようである。
 現実はどうかというと、その欧米は文化の面でも社会の面でも限界に達している。治安は悪化し続けているし、教育レベルはどこまでも下がっていく。かつて美しかった文化も崩壊寸前。欧米社会全体が混乱している。そろそろ欧米についていけば大丈夫……感覚は危ないんじゃないか。私には欧米は巨大な泥船にしか見えないので、氷山に突っ込む前に途中下船したい。
 そろそろ「日本は日本で」という感覚に戻ってもいいのではないか。日本で自立した文化や生活を築いていく。もちろん「鎖国しろ」という話ではない。日本は戦後以来、ずっと欧米白人の子分状態に置かれていた。欧米白人が「こうしろ」と言われたら、日本人はありがたがってそれを受け入れていた。訳のわからない文化は入ってくるし、法律は書き換えられていくし……。そういう社会観だから、エリート層ほどそういう状況こそが「当たり前だ」と思い込んで、それを維持しようとする。そういう「欧米白人の子分意識」はやめて、自立した価値意識とものの考え方を持つべきではないか。
 もちろん右翼的な考えではない。「欧米白人の天下がそろそろ危なそうだから」、という話だ。メソポタミア文明が崩壊し、ギリシア文明が崩壊し、ローマ帝国が崩壊し……次に崩壊するのは欧米文明。もうすでに崩壊の兆しが見えている。日本はまだ自然が豊かだし、社会もそこまでは混乱していない。芽があるのは日本のほう。この流れで行くと、次なる文明の中心地は日本だ。
(次の覇者は中国? そんなわけないでしょ。中国もどう見ても崩壊寸前)。

 というのが、この本を読んだ後の結論。文明はいつか崩壊する。その切っ掛けはいつも自然。自然が崩壊すると文明も崩壊する。欧米白人の天下もそろそろ終了。その潮目を読み間違えると、いま世の中的に成功している人たちもまとめて没落していくでしょう。今のうちに乗るべき船を選んでおいたほうがいい。


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