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2023年春アニメ感想 水星の魔女 後編

 今シーズンアニメの中でも突出した存在感を発揮した『水星の魔女』。『ガンダム』シリーズがこんなふうに話題の中心になるのはいつぶりの話だろうか……。カジュアルなアニメファンの人気を獲得しつつ、『ガンダム』らしい奥行き感をしっかり備える。よくもこんな複雑な仕事をこなしたな……と素直に感心する。
 私としてもテレビシリーズの『ガンダム』を見たのは実は十年ぶりくらい。ガンダムはなんだかよくわからない。むやみに複雑で、情緒でわかるようなシーンが少ない。要するにドラマが弱い。40年前に生み出されたイメージの繰り返し、さらにそのイメージを絶対的なものとしてしまっているので新しさを打ち出せない――つまり古くさい。いつまで1年戦争を描き続けるの。……ガンダムにはそんなマイナスイメージがたくさんあったのだけど、今回の『水星の魔女』で見事に「新世代のガンダム」が提唱された。実際に見ても、俯瞰しても「よくできているな」と感心の1本だった。
(『ガンダム』の歴史も様々で、ひたすらに荒唐無稽な『Gガンダム』、文明崩壊後で「モビルスーツ」の存在を忘れてしまっていた『ターンエーガンダム』……実はわりと冒険的な作品はあったりする)

 今回のメイン舞台となるのは学校。アスティカシア“ツンデレ”高等専門学校……ツンデレが集まる兵隊学校だ。その対比として描かれているのが、ソフィとレノアのいる地球。
 第1シーズンを見ていたとき、私は気付いてなかったのだが、ソフィとレノアがいた場所も学校。つまり文化と物資の豊かなアスティカシア学校と対比となっている。

 スペースコロニーの中に作られたアスティカシア学園は物質に満たされて、理想的な環境にコントロールされた楽園的な場所だ。しかしそれは地球を踏み台にしたうえでの豊かさだった。
 つまりこれは、現代の後進国・先進国の対比を地球と宇宙に置き換えた構図だ。先進国は物質豊かな暮らしを送っているが、それは後進国を踏み台にした結果。そのことを気付かず、脳天気に物質を消費し、それどころか後進国の人々を見下したりする……という我々の姿をスペーシアンの姿に投影している。
 私たちは忘れがちだが、私たちの“豊かな生活”は誰かの犠牲の上に成り立っている。地球の裏側にいる人たちに理不尽を押しつけて、かりそめの豊かさを貪っている。それも薄氷の上の産物でしかなく、いつ壊れるものかわからない。そういう危うい上に立っていることに気付かず、私たちは日々身につかないような流行に振り回され続ける。私たちは束の間の“夢”でも見ているようなものである。
 そんな夢でしかない現実に気付いていて、そこに後ろめたさを感じているからなのか、本当にただバカで気付かないからなのか、私たちのほとんどは田舎や後進国……つまり“生産の場”にいる人々を哀れんでいるか見下している。都会の人々は田舎暮らしの人々を見下すが、しかしあなた方の食べているもの、身につけているものの大半は田舎で生産されたもの。自分の足元がどんなもので成り立っているのか知らず、興味がなく、その瞬間の地位・ステータスにしか興味がない――それが都会の人々の意識だ。

 『水星の魔女』ではスペーシアン達は生産の苦労なく好きなだけご飯を食べて、オママゴトのような“決闘ごっこ”をやっている(地球では殺し合いやってるんだぞ)。大人達は地球から搾取の体制を維持するために、企業活動に邁進し続ける。そんなスペーシアン達は地球からやってきたアーシアンを見下している。
 そんな欺瞞がいつまで通用すると思っているのだろうか。
 もちろん許されるわけがない。アーシアンが溜め込んできた猛烈な怒りと恨みはやがてスペーシアンに向けられる。「知らなかった」では済まされない。食べ物に苦労しない生活を送っている時点で、全員罪人なのだ。

 シーズン1が描いていたのは、虚構のような宇宙での暮らし。何もかもが嘘くさく、オママゴトのような世界観。しかしシーズン1の後半に向かって、宇宙生活の虚構感が崩壊する。
 企業同士の闘争を、子供たちの決闘という形で“代理戦争”をやらせる……という構図。代理戦争なんて欺瞞やめて、本当に殺し合いやろうぜ――という感じでスペーシアンたちの平和は打ち砕かれていく。

 シーズン2。
 箝口令を敷いて、表向きには殺戮もなかったことにしよう――なんて欺瞞、許されるわけがない。オママゴトのような決闘に、ソフィとレノアが本物の戦闘機持ち込んで殺し合いをはじめる。今まで「この世界のどこか」に押し込めていた現実がスペーシアン達を襲う。

 そういえば決闘フィールドに描かれる空も映像。スペースコロニーの世界は何もかもが虚構・オママゴトでしかない。今まで地球に押しつけていた「理不尽」をいきなり目の前にして、スペーシアンの人々は愕然とする。今までずっと虚構の世界にいたのだから、いきなり“現実”を突き付けられても頭の処理が追いつかない……といった感じだ。目を醒ました直後、「あれ? 夢だったのか」……と気付くような感じ。

 突然の現実に茫然とするスペーシアンたちの精神的な支えになるのが、ミオリネ(とスレッタ)が作っていたトマト。あれを食べたとき、スペーシアンたちはやっと現実的な“生”に目覚めたことだろう。結局は人間は生理に基づいて生きている。地位やステータスなんてものは虚飾。現実に足付けて生きていかねばならない……という話は「大地」から遠く離れた宇宙の人々にはなかなか届かない話だけど。

プロスペラ。この名前を聞いたとき、「どっかで聞いた。なんだったけ」とずーっと思い続けていたが、やっとシェイクスピア『テンペスト』に出てくる魔術師プロスペローが元ネタだったと気付いた。

 忘れてはならない。『水星の魔女』は“魔女の呪い”がメインテーマ。その呪いの中心地:プロスペラは自らの目的のためにミオリネを騙し、地球へ降り立ち、テロを仕掛ける。さらに巨大要塞クワイエット・ゼロが出てくる。

やっぱり“ガンダムの中”にいたエリィ。しかも複数。これだけの数でいるから、無数のガンビットを操作できたわけだ。

 『水星の魔女』はきっちりSFなので、すべての現象に説明が付くようにできている。でもエリィの登場シーンを見ると、「幽霊的」な表現で描かれている。SFという裏打ちをしながら、表現はオカルト……というところが面白い。
 シリーズのクライマックスにはクワイエット・ゼロが登場してくる。ガンダム一機であれだけ巨大なものがコントロールされる。やはりSF的な裏打ちはあるのだけど、“魔術的”に感じられるように表現されている。最終的にガンダムもろとも消滅するのだけど、その消滅の仕方まで魔術的。うまく表現されていて面白い。

 最終的にミオリネが下した決断は、宇宙の冨を放棄すること。ベネリットグループを解散させ、資産を地球に委譲。
 宇宙と地球がもたらした格差と分断は、宇宙側が冨を手放さないと解消されない。地位もステータスも捨てる。全部捨てる覚悟がある人だけが、名誉を得る資格が得られる。ミオリネは最後の最後で、主人公らしい行動をしてみせたわけだ。
 宇宙で贅沢暮らししていた人々には「ざまぁ見ろ」な話。それで地球人が救われたというわけではないけど。

 『水星の魔女』は一見すると、アニメ界隈に氾濫している「学園もの」「百合アニメ」をなぞったかのように見える。でもそれは表面的なものでしかなく、その薄い表皮を剥がすと出てくるのは理不尽と暴力の世界。虚構世界としての鉄壁さを持ちながら、どこか私たちの世界を暗喩している。スペーシアン達の浮世離れした暮らしは、現実的な生産を忘れて、その場その場の地位やステータスに追い回される現代の私たちとよく似ている。そして私たちのそんな暮らしは、地球の裏側にある理不尽の上に成り立っている。地球と宇宙の対比は、私たち世界を引き写しになっている。
 そんなテーマ的な裏読みもできる作品だが、その一方でエンタメ作品として一級のクオリティ。何も考えなくても、その世界観の中で起きていることをただただ楽しんでいられる。“ホイップクリーム”を舐めるだけのユーザーでも楽しめるように、『水星の魔女』には楽しい要素が一杯だ。

強面キャラ……かと思ったらオモシロキャラだったチュチュ。シーズン2キービジュアルでは完全にスタッフから遊ばれていた。
もはや「遊んでください」と……。
キャラクターの成長物語も見所。シーズン1ではジャイアン的存在だったグエル兄さん。“盲目の王”のごとく知らず父親を殺すことになり、放浪の旅の末、立派な男になって宇宙に戻ってくる。
夢見がちな少女……も、こんな時もある。どうあっても面白くしよう……という作り手の意思を感じる。
“生”の実感は“食う”ことから始まる。スペーシアンはこの基本を忘れがち。中途半端に飽食の時代を生きているから、生きることの基本を忘れる。

 『水星の魔女』はいろんな角度から見ても「よくできている」といえる作品。単に一過性の流行もので終わる作品ではなく、間違いなく将来のアニメファンを楽しませ、考えさせる作品になっている。もしかしたら繰り返し引用される名作に名を連ねるかも知れない。


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