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6月19日 政治は遊びだってさ

〈引用〉

 文化現象としての現代政治の内容について説明を試みようとするときには、とくにそうである。さして遠からぬ過去には、民主的議会主義形式による表向きの政治生活は、見まがうべくもなくさまざまの遊びの要素に充たされていたものだった。
(中略)
 それはいつも変わりなく、個人的な競争という契機に支配されたものなのである。相手を一敗地に塗れさせてやろうと、実力者たちのあいだではたえず「果し合い(マッチ)」が行われている。しかしそれは、彼らが全き真摯の精神のうちに奉仕する国家の利害関係とは何の関わりもないものなのだ。英国の議会生活の気分、慣習は、あくまでもスポーツ的なものだった。このことは英国を範としている国々の場合も、ある程度同じである。友誼の精神は、たとえいかに激しい討論の応酬の後でも、論敵と親しく冗談歓語をかわすことをゆるすものである。

〈引用元・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』418ページ〉

 ……だってさ。

 実際、日本の国会で交わされている大半の内容は“特に意味のないこと”だものねぇ……。特に意味のない質問に、特に意味のない野次のやり合い。その中でみんなとにかく“印象的なワンワード”を言おうと躍起になっている。なぜならそのワンワードを新聞、テレビのマスコミが取り上げ、マスコミが取り上げるとその後ろにいる大衆を大騒ぎさせられるからだ。野党などはこの仕組みをよく理解しているから、特に意味のないところで意味のない言葉を挙げることだけに力を注いでいる。

 その様相は、『ホモ・ルーデンス』で言うところの「悪口比べ」というポトラッチ状態で、とっくに本題がどうとか誰も興味がなく、誰がうまく、鮮やかに悪口を言うかが全てになっている。
 野党なんて実のある批判なんてほぼやらないんだもの。引っかき回すだけ。彼らの本質は、いかに「悪口」を言うかが全てになっている(そしてその大半は失敗に終わる)。

 いやいや、きっと国会でも“実のある対話”はあるんだと思うよ。“遊び”ではない部分はあるんだろうけど、そういう中身ある議論の内容がちっとも国民のところに下りてこない。だから知らん間に重要な法案が決定事項直前まで進んでいたりする。
 と、こういう話をすると「そういうのは自分で調べろ」と言う輩が現れるのだけど、いやいや……そんなもん調べてるのは、それ専門で追いかけている人か、暇人だけだよ。ごく普通に暮らしている人は、色んなことで忙しいから、そんなこと調べている余裕なんかない。
 まず新聞に載らないもの。よくよく探せば載っているかもしれないけど、一般人の多くは仕事で忙しいからそこまで読んでいる暇はない(くまなく読んでも何も書いていないことのほうが多いし)。NHKの国会中継をずーっと見続けるのも手かもしれないけど、それこそ暇人しかできないこと。

 一般人が空いている時間に見られるものはだいたいニュースショーで、そのニュースショーでは切り取られた断片しか見ることができない。で、その内容はだいたい本題とは関係のない、どうでもいい瞬間ばかりだったりする。

 どうしてそういう状況になっているかというと、マスコミも政治を遊びだと認識しているから。「悪口比べ」のところしか切り取らない。政治の遊びではない部分についてマスコミは興味を持っていないし、もっというとマスコミは一般大衆が遊びではないところに興味を持っていると思っていない。
 あと「悪口比べ」の部分を切り取って針小棒大に報じると、いかにも真面目で重大なことを言い合っているような空気を作り出せる。“雰囲気”だけを報じているだけ。その雰囲気だけのもので意外に見ている人を騙せてしまう。

 民主党(今はなんて言うんだったかな?)なんかは基本的に意味のあることは一切しない。ありとあらゆる行動が無意味。意味があったことなどはただの一度もない。民主党はただただ騒ぐだけの集まりだ。
 これで恐るべきことは、そんな烏合の衆に毎回そこそこの票を入れる人がいるという事実だ。“なんとなくの気分”のものと重要な身の部分との区別が付けられない人がそれだけいる、という話だ。

 と、こういう話が1938年の本に書いていた、ということは政治が遊び、大半が意味のない悪口合戦になっている、というのはどこの国でも同じような状況だったんだろうね。
 いや、現代でもどこの国でも同じような環境なのかもしれない。


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