2021年冬期アニメ感想 進撃の巨人 ファイナルシーズン
まずはオープニングの話。
オープニング楽曲は「神聖かまってちゃん」が担当している。「神聖かまってちゃん」が『進撃の巨人』楽曲を手がけたのは第2期エンディング以来。これまでの『進撃の巨人』エンディングの中でももっとも謎めいた歴史について描いたエンディングだった。その「神聖かまってちゃん」がオープニングを担当するということは、ある意味、あのエンディングの向こう側へページが進みましたよ……というような意味があるように感じる。
その第4期オープニングアニメーション。歌詞についてはまったく聞き取れないので、さておくとする。
オープニングの絵を見ると、ついにキャラクターが描かれなくなってしまった。人物が描かれているが、すべて象徴化して描かれている。“人物を象徴化して描く”というのは基本構成が絵であるアニメのほとんど特権のようなもので、人物が描かれていてもそれが特定の“誰”というのではなく“誰か”にしてしまえる。人物らしい人物は行進のシーンで描かれているが、これも意味ある個人を描写していない。ただの軍人であり、戦争の歴史を描くための手段でしかない。
描かれているのは戦争の光景ばかりで、同じ絵が何度か繰り返され、それから次のカットへ進む……という構成になっている。これは要するに、戦争の歴史がひたすら延々繰り返されてますよ……という意味。時代、場所を変えて、ひたすら戦争。繰り返される爆破は殺戮の象徴。死体は描かないかわりに、大量の死体を作ったであろう爆発だけを何度も繰り返す。
その爆発のカットを越えて、死んだ無数の鳥が落下する場面が描かれる。そこから少し飛んで、同じ構図で巨人が落下する場面が描かれている。これには複数の意味が込められているように思われる。巨人達が兵器としての価値がもうほとんどなく、時代の端境になって投げ捨てられている、ということ。あるいは率直に巨人達が死をもたらす兵器、ということ。
その巨人達の落下描写の後、猛烈な爆発カットが連発する。巨人達こそこの世界における究極兵器である……ということが示されている。この世界におけるもっとも凄惨な殺戮が巨人によって行われてきたのだ。爆発描写で彫像として描かれる人物や、調査兵団と思われる人々も木っ端みじんに吹っ飛ぶ。
次に現れるのは巨人の手に降り注ぐ粉のような何か。この流れだと先のカットで木っ端みじんに吹っ飛んだ彫像だと思われるが、それが後になって降ってくるということは、その魂を掌で受けようとしているのだろうか。
殺戮の後、何もかもが崩壊した瓦礫の中から巨人達が手を伸ばしている。その先にあるのは――硬質化した進撃の巨人だ。
さて、進撃の巨人がもたらすのは救いなのか地獄なのか――。
ファイナルシーズン冒頭は、マーレに戻ったライナーたちの視点でお話が始まる。
とあるアニメコミュニティでこの「展開がよくわからない」という意見があるのを見かけた。実は私も原作23巻を読み始めてしばらく「?」だった。あれから4年が過ぎている……といわれてもピンと来ず、24巻の最後にようやくエレンが登場して、そこで話を遡って「ああ、そういうことか」と理解できた。
アニメを見ると、声優で傷痍兵の中にエレンがいる……ということはわかるし、途中に出てくるとある兵士が斎賀みつき(イェレナ)ということで「ただ者ではない」とピンとくるのだが、原作を読んでいるとこの辺りが本当にわからなかった。読み返してようやく気付く……という感じだった。原作だと重要なキャラクターがどこにいるのかが初見だとわからない作りになっていた。
原作を読んでもわかりにくい場面なので、アニメから見始めている人たちは66話か67話あたりまで進んだところで、もう一度60話に戻って見て欲しい。そうすると「ああ、そうか」と納得できるはずだから。
(病院にいるエレンの傍らに野球のグローブが置かれている意味もわかるはずだ)
ファイナルシーズンは始まってしばらくお話がわかりにくいのは、主人公であるエレンが何をしたいのかよくわからないから。これまではずっとエレンが何をするか、エレンが何を感じたか、それを体感的に感じていけばお話を追って行けたのだが、ファイナルシーズンに入ってエレンは自身の目的がなんなのか、一切語らなくなってしまった。
でもエレンの真意は第3期のラストシーンできっちり語られている。
「……なあ。向こうにいる敵、全部殺せば……。俺たち、自由になれるのか?」
あの海辺のシーンでエレンはこう語る。この時にエレンの意思はすでに固まっていた。
『進撃の巨人』の物語が始まった最初の方、海というのは外の世界の象徴、自由の象徴だった……。しかしその海の向こうにあるのは敵。海もまた巨大な“壁”に過ぎず、壁を越えた向こうにさらにもう一つ巨大な壁があって、その向こうにやはり敵がいた。それがシーズン3のラストだった。
ここで「エレンの物語」はもう終わってしまっている。エレンは作品の主役ですらなくなってしまったのだ。
それでお話の中心はしばらくライナーと、エルディア人新兵であるファルコやガビに移る。
65話、66話でタイバー家が演説している中、アルミン=超大型巨人の出現により、マーレは壊滅的なダメージを負うことになる。ファルコとガビはその中でどうにか生存するが、共に切磋琢磨した戦友を混乱の只中喪ってしまい、さらに凄惨な殺戮を目撃し、以降ガビは島のエルディア人たちを猛烈に憎むことになる。
このガビは、かつてのエレンだ。「巨人を一匹残らず駆逐してやる!」と怒りに狂っていた頃のエレンだ。何も知らず、ただ相手を憎み、攻撃すれば解決すると思っていたあの頃のエレンと対応するように描かれている。
あの襲撃の場面にわざわざアルミンが登場してきたのは、視点を逆にして、同じ物語を展開させるためだ。あの襲撃を通して、アルミンはベルトルトの気持ちを知り、ガビはかつてのエレンと同じく猛烈な憎しみを行動原理とするのである。
ライナーはというと、パラディ島に潜入したグリシャ・イエーガーに相当する。パラディ島に潜入し、そこでの内情を知り、その人々と友情を育み、その友人達を裏切るという心の傷を負って戻ってきた。
ライナーは私個人的に興味深いキャラクターで、第3期のある辺りから「調査兵団としてのライナー」と「パラディ島に潜入してきた戦士としてのライナー」との間で人格が分裂し始めていた。どちらが自分の本心なのかわかならくなり、混乱し、後ろめたさを引きずって、マーレの軍人として戻ってきた。マーレの軍人に戻ったが、気持ちは調査兵団のままなのだ。その後ろめたさに耐えがたく、真実を話せないことに苦しみ、自殺を図ろうとするライナーの描写がなんとも痛ましい。
要するに壁の外側にももう一つ壁があって、その壁の中でも同じお話がリファレンスしていますよ……という話。おそらくは同じようなお話は『進撃の巨人』の歴史の中で何度も何度も繰り返された来たんじゃないかと思われる。エレンの物語から遡って、ライナーの物語が描かれ、グリシャの物語が描かれ、さらにその前もやはり同じ――。ずっと遡っても出てくるのは似たような歴史の繰り返しだ。
そういう不毛な戦争の歴史を繰り返していますよ……ということで一旦お話はライナー側に移って、掘り下げられていく。
それでなのかおよそ100年前、パラディ島に雲隠れしたフリッツ王家は「不戦の誓い」を立ててしまった。フリッツ王なりのこの不毛なる繰り返しを終わらせるため……だったのかも知れない。ということはあの壁の中での「家畜の安寧 虚偽の繁栄」こそが一番の平和だったわけだ。
フリッツ王が去った後、マーレは無力化したエルディア人たちを主に「戦争の道具」として活用してきた。エルディア人たちに「罪深き民」という記憶と罪悪感を刷り込ませ、「マーレのために戦うことが正しいこと」と思い込ませ、自分たちに利用しやすい状況を作った。あのフェンスの中は、マーレ人にとって「兵器工場」みたいなものだった。これでマーレはどうやらあっちこっちに戦争を仕掛けまくったようである。都合が悪くなったら巨人をちらつかせて自分の有利なように外交を進めることができる。無敵の兵器である巨人さえあれば、マーレ優位が崩されることはないから、永久に安定……。
しかしそんなわけにもいかず、科学技術と航空技術の発展により、「巨人絶対優位」の状況は打ち破られてしまった……。
「しかしこのまま航空技術が発展していけば、いずれは何百キロもある爆弾が雨のように降り注ぐと言われています。その時には戦争の主戦場は空へと移り、大地の悪魔たる巨人はただ空を見上げ続けるほか無くなるでしょう」
61話ではこのように語られる。
巨人は間もなく最強兵器の座から転落する。するとマーレ優位の状況が崩される。その時、これまでマーレに一方的な攻撃を受け、搾取を受けてきた世界中の国々はどう反応するか……。マーレは巨人を兵器として使うという誘惑に抗えなかった。しかし力での支配はやがて同じ力で反発を喰らう。そんな状況を目前としていた。
おそらく文明のレベルは第1次世界大戦前後といったところ。馬を引いた戦車が舞台を去り、鋼鉄の戦車が現れる直前(ただしその戦車がレール上を走っていたので、まだ自走して塹壕を通り抜けていこうという発想がない、あるいはそれを実現する動力が無い……くらいの文明度)。近代兵器と航空技術によって戦争の形が根本から変わろうとしていた時代。
“巨人爆撃”を飛行船で行っていた辺り、まだ高速で敵戦場の只中に飛んでいって爆弾を落として帰還するような機動力のある航空機の発明には至ってないのだろう。爆撃の威力も、巨人爆撃よりもまだ弱いのだろう、と推測できる。
(戦車がレールの上を走り、航空機がヘリウムガスで飛んでいる……ということは動力が未発達なのかも知れない。石油がまだ発見されていないのかも?)
しかし航空機の機動力も爆弾の威力もやがて巨人を上回り、巨人は戦争の主役ではなくなってしまう。そんな恐れがマーレにはあった。これまでマーレは、おそらく必要もなく世界中をつつき回っていたのだろう。科学兵器が巨人の力を越えた時、猛烈な反撃を喰らう可能性がある……。
それでマーレは、自分たちの力をより決定的な物にするために、あの壁の向こうに逃げたフリッツ王家の「巨人の力」を求めた――それがエレンの物語が始まるまでに起きた経緯である。
(「巨人が最強の兵器ではなくなる」という視点はなかなか面白い話で、例えばゴジラなどは「近代兵器は通用しない」という「設定」のまま、ずっと通してきている。しかしそういう設定が生まれた時代からよくよく考えれば兵器は進歩している。いつまでも「近代兵器が通用しない」という設定が説得力を持てるとは思えない。そこで『進撃の巨人』は近代兵器の発明と共に、最強兵器巨人の優位性が崩れる……という端境を描いている。「ファンタジー兵器」が絶対的な存在ではない。こういう着眼点は、そういえばなかなかない視点だ)
『進撃の巨人』が当初から提示しているメッセージの中に、「この世界は残酷だ」がある。シリーズが始まったごく初期の頃、カマキリが蝶を捕食する場面が描かれていた。これは巨人に食べられる人間を示唆した描写だった。
壁の外に出ればそんな残酷な世界が待っている。でも壁の中にいれば、一時であれ、平和が待っている……。しかしエレン達にとってみればそんな平和などまやかしに過ぎないんだ。人は壁の中へ行き、自分で自由を勝ち得なくてはならないんだ――そう語っていた。
実際壁の中の平和なんてものはせいぜい100年前にこしらえたものに過ぎず、その平和も間もなく終焉を迎えようとしていた。マーレの密偵(超大型巨人と鎧巨人)がパラディ島に潜り込み、その壁を打ち破ってしまった。「壁の中の平穏」の終焉だった。
これを切っ掛けに壁外へと飛び出していったエレン達は、長い旅の末、ついに海へと辿り着き、その向こうにはさらなる敵がいることを知る。高さ50メートルの壁を越えた向こうには、海という壁があり、その向こうにさらに残酷な世界と敵が待っている。同じモチーフがスケールを変えて、えんえん繰り返されている――これが『進撃の巨人』の構造だ。そんな世界に真の平和と安寧の場所などない。だからこちらから行って戦わねばならないのだ。
ミカサ「勝てなきゃ死ぬ。勝てば生きる」
エレン「戦わなければ勝てない。戦え……戦え……」
68話でミカサとエレンがこのように語る。
世界が残酷であるならば、力を身につけて戦わねばならない。そして勝って生きなければならない。それがこの世界における全てだからだ。
ファイナルシーズンにおいてエレンが何をしたいのか、何を最終目標として行動をしているのか……。それはすでに書いたこの台詞の中に現れている。
「……なあ。向こうにいる敵、全部殺せば……。俺たち、自由になれるのか?」
一方でエレンはこうも語る。
「お前らが大事だからだ。ほかの誰よりも。だから……長生きしてほしい」
69話の台詞だ。
エレンの意思は一貫して、戦うことに全てが向けられている。しかしだからこそエレンは自身の計画を、本当に大切な仲間達に一切語らなくなってしまう。エレンが考えている計画は、関わった人全員を犠牲にする危ないものだからだ。その後のエレンの台詞を注意深く見ているとわかるように、ミカサとアルミンを遠ざけようとしていることがわかるだろう。だからいったい何をしたいのか、語らないキャラクターになってしまう。語り手としての主人公から、あえてその座を退いてしまった。
エレンはイェレナたち自分を崇拝する派閥と手を組み、「イェーガー派」と呼ばれる組織を作り、調査兵団と対立する。物語の視点は、その調査兵団側へと移る。調査兵団側はミカサ、アルミン、ハンジたちが語り手になり、マーレ側はライナーとガビ、ファルコが語り手となって物語が掘り下げられていく。この通り主役が交代している……ということを了解すれば、ファイナルシーズンの物語も読み解きやすくなるだろう。
この感想文を書いている頃というのはまだ71話。この先の展開はおそらく……それで残り話数はあと……だろうと考えている。でも今の段階でそのすべてを書くわけにはいかないので、ここで感想文を終えようと思う。
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