映画感想 太陽の王子ホルス
アニメ史上における“最初の”名作。
太陽の王子ホルス 制作が始まるまで
『太陽の王子ホルス』は日本アニメ史における黎明期時代の作品。当時の事情、制作が始まった経緯まで、大雑把に話しておこう。
もともとアニメーション制作を担当する「東映動画」は、東映内の「教育映画活動」と呼ばれる小さな部門であった。そこで短編アニメを制作し、当時は映画館のない地方も多かったことから、農村や漁村を巡る巡回上映などを実施していた。戦後はまだ映画は俗悪で「教育によろしくない」と考えられていた時期で、そうした偏見を持つ人にも抵抗感が少なく、制作費を安く抑えられるアニメ制作は社内でも注目されるようになっていった。
1955年、アニメーション制作の専門の会社だった日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映を訪ね、「自分たちは日動というアニメ会社を24、5人でやっているのだが、どうも難しい、協力してもらえないだろうか」と相談する。この相談を受けた今田智憲営業課長は東映社長である大川博に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言。こうして東映は日動動画を買収し、1956年に「東映動画株式会社」が発足した。所属アニメーターは35名。ほとんど日動動画のアニメーターで構成されていた。
この頃、大川博本人が登場し、「日本でもディズニーのようなアニメを作る!」と宣言し、アニメーターを募集する宣伝映画が上映される。
当時のアニメ映画の制作実績は、戦時中の国策映画である『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』の2作しかなく、全編フルカラーで2時間スケールのアニメ制作のノウハウなどはまったくなかった。元・日動動画のベテランを中心に、新しく集まってきた新人アニメーターたちの教育しつつ、どうやって制作するか試行錯誤をしながらの制作進行だった。
こうして完成したアニメーション映画が1958年の『白蛇伝』。我が国最初のフルカラーアニメ映画である。この時に新人採用されたアニメーター42名。制作期間7ヶ月。制作費4047万円。総作画枚数6万5213枚となる作品だった。
ここから東映動画は年1本の映画制作を続けていくことになるのだが、そこにライバル・手塚治虫による『虫プロダクション』が発足。1961年のできごとである。虫プロダクションの発足により、東映動画のアニメーターがごっそり引き抜かれ、虫プロダクション内に東映動画の一部がそのまま移される……というような事態になっていた。
実は東映動画2本目の映画が手塚治虫原作の『西遊記』だった。手塚治虫はここでアニメーション制作のノウハウを学び、その後、自ら会社を立ち上げて、東映動画のアニメーターたちを引き抜いた……ということになる。
1963年、明治製菓提供によるテレビ漫画・『鉄腕アトム』が放映される。これを切っ掛けに「東映VS虫プロ」による競争が始まる。手塚治虫という当時最大の人気を誇る漫画家によるアニメ進出、しかも東映が手を付けていなかったテレビ放送。強力なライバル出現に危機感を憶えた東映は、慌ただしくテレビアニメ事業をスタートするのだった。
当時、アニメーターは国内に数十人しかいないような状態で、作品制作にはかなり無理を重ねていた。そんな状態でテレビアニメ事業をスタートしてしまったので、劇場制作はいったん休眠状態となる。それだけではなく、『白蛇伝』の頃からあまりにも無茶な過酷労働が続き、社内に労働組合が結成され、会社側と対立していた。東映動画側も「場合によってはスタジオを閉める」という圧力を加え、一進一退の攻防が繰り広げられてきた。
アニメーション制作はもともとは「単価が安く、集客できる」という旨味があった事業だったが、フルカラー長編となった途端、大予算を使うことになり、赤字事業になっていた。会社側としてもアニメ事業をこのまま存続させるべきか、解散すべきか……という話にもなっていた。
こうした労働組合と会社側が対立して大騒ぎになっている1963年頃に入社してきたのが宮崎駿であった。宮崎駿は労働組合の書記長に就任し、この頃、高畑勲と出会ったされている。宮崎駿と高畑勲の運命的な出会いは「作品」を通じてではなく、「運動」を通じてであった。
東映動画がテレビアニメ事業をスタートしたのが1965年。そちらに人員を持って行かれ、さらにテレビの影響で映画自体も集客が難しい時期になっていき、しばしオリジナルのアニメ映画の制作がストップしていた(完全に停滞していたわけではなく、漫画原作の『サイボーグ009』などは制作されていた)。そうした最中にありながら企画が進行していたのが『太陽の王子ホルス』であった。
ただこの企画は二転三転していて、最初の企画は『龍の子太郎』。予定では1965年公開、作画監督は大塚康生であった。さらに大塚康生の進言で『狼少年ケン』で演出を務めていた高畑勲が監督を務めることになった。
ところが『龍の子太郎』は「長編アニメとしてふさわしいスケール感に欠ける」という理由で没。次に出した企画がアイヌ文化を題材にした『春楡(チキサニ)の上に太陽』。『太陽の王子ホルス』に部分的にアイヌ文化が採り入れられていたのは、こういう経緯によるものだった。しかし『春楡の上に太陽』も同じくアイヌ文化を題材にした東映映画『コタンの口笛』が興業不振であったために没。
その後、舞台を北欧に移したファンタジー大作『太陽の王子ホルス』の企画が採用となり、制作がスタートした。
その後も『太陽の王子ホルス』の制作には紆余曲折があった。深沢一夫による最終稿(第5稿)とキャラクター原案が完成したのは1966年3月。それからやっと絵コンテ制作がスタート。この時点ですでにスケジュールが遅れていた。
上映時間ももともとは会社側から期待されていなかった、ということもあって60分ほどの中編。制作費は7000万円と決められていた。しかしすぐにその予定通り進まないことが明らかになる。
スケジュールの遅れ、予算の超過……会社側が制作中断を宣告する一方、高畑勲、大塚康生は粘り強く会社側と交渉。その間も絵コンテ作業が水面下で進行していた。
1967年1月、ようやく公式に制作が再開し、1968年作品は完成した。制作費は1億3000万円。総作画枚数は4万9355枚。『白蛇伝』の頃と較べると表現は飛躍的に上昇し、アニメ映画史における新たな一局面を確実に切り拓く作品となった。
監督はすでに書いたように高畑勲。高畑勲監督第1作目となる(当時の名義は「演出)。
作画監督は『白蛇伝』の頃から活躍する大塚康生。宮崎駿のアニメーターとしての師であり、2021年に他界するまで現役のアニメーターであり続けた伝説的な絵描きだ。
場面設計・美術設定には宮崎駿。当時の宮崎駿は東映動画に入りたての新人。本格的なアニメーション制作はこれが初めてで、そういう立場でありながらいきなり設定制作、後の「レイアウト」である場面設計までを任されていた。
その他のアニメーターとして小田部洋一。小田部洋一の作品はアニメよりも『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説』シリーズのコンセプトアートで見たことがある……という人は多いだろう。
その妻である奥山玲子もアニメーター、キャラクターデザインとして参加する。奥山玲子は2019年NHKドラマ『なつぞら』の主人公のモチーフとなった人なので、そこで知ったという人も多かろう。
もう一人、気になったスタッフは「トレース」を担当した黒澤和子。トレースというのはアニメーターが動画用紙に書いた絵を、セル画に転写するスタッフのことである。「黒澤和子」の名前を見かけて「同姓同名の別人だろう……」と思ったのだが、どうやらご本人らしい。日本映画界の巨匠・黒澤明の長女である。
今となってはアニメ映画界を代表する偉人たち、あるいはもはや歴史人物ともいえるような人たちが関わって制作されたアニメーション大作にしてアニメ史における最初の名作であるが、しかし劇場公開当時、まったく人が入らず大赤字だった。子供たちもすぐに飽きてしまって、映画館内を歩き回って誰も作品に集中しない。
というのも、『太陽の王子ホルス』は明らかに年齢が上の世代向けのアニメ。子供には難しい作品だった。現代の視点で見ると、『太陽の王子ホルス』のようなファンタジーはそれこそ山ほど作られているので不思議な感じがするのだが、当時はその年代にアニメを見る人はいなかった。
大幅の予算超過とスケジュールの遅れ、しかも大赤字を出してしまったことにより、高畑勲はこの1作で東映動画において次の監督を務めるチャンスを完全に喪ってしまう。それが1971年Aプロダクションへと移る切っ掛けとなってしまう。この時の移籍には、宮崎駿と小田部洋一も一緒についてくるのだった。
作品本編の解説 前半
それでは作品本編の話に入っていこう。
冒頭からいきなりオオカミの群れとの闘い場面から始まる。この戦いが「早回しか?」というくらいスピーディでダイナミック。いったいどういう状況なのか、そもそもこのキャラクターは誰なのか――そういう説明も一切無視して、いきなり見せ場から始まる。こういうところからすでに「劇映画」っぽい。
しかも動画がフルコマ。当時はすでにテレビアニメがスタートして、そちらで「3コマ撮り」による「リミテッドアニメ」が採用されていた。東映出身のアニメーターはリミテッドアニメを快く思っておらず「あんなものは紙芝居だ」と語っていた。「アニメはアニメそのもので見せる!」その意地と技術を冒頭場面からいきなりぶつけてきている。
事前に1958年の『白蛇伝』を見たのだが、もはや別次元のクオリティ。10年間でアニメーターの腕がよくなってきた……というのもあるけど、特に構図が圧倒的によくなっている。『白蛇伝』の時はキャラクターを正面から撮った……という平凡な構図ばかりだったけど、『太陽の王子ホルス』では俯瞰・アオリ、カメラの引き寄せ……と実写的なカメラの使い方が実践されている。そのなかをキャラクターたちが猛烈な速度で駆け回る。圧倒されるようなすごい画面ができあがっている。
この作品から「演出主導」の制作体制が始まったとされている。もともとアニメには「演出」という部門がなく、それぞれのアニメーターが構図とともに動きも作る……という仕組みだった。しかし全てのアニメーターに「構図」の発想があるわけでもなく、クオリティにもバラツキが出やすい――というのが日動動画時代のアニメーションだった。東映動画が買収して以降は、「演出」という部門が作られて、その演出が中心になって構図を作るようになった。それをさらに推し進めたのが『太陽の王子ホルス』。「アニメーターがそれぞれで画面を作る」ではなく「演出が画面をコントロールする」。この転換があって、アニメは一気に劇映画らしくなった。
ところでこの場面のオオカミだが、天然自然のオオカミではなく、実は「魔物」。悪魔グリンワルドのしもべたちである。
アクションのクライマックス、ホルスが斧を失いピンチ……そこに大地から巨人が目覚める。
その巨人モーグの肩に突き刺さっていた大剣を引き抜いたホルス。巨人モーグはもしもその剣を鍛え直すことができたら、お前に従おう……と約束する。
この場面が何を示唆しているかといういと、後に英雄となるホルスが「神の啓示」を受けている。英雄は普通の人間とは違う。英雄は生まれも育ちも違うが、決定的に違うのは、神からのなにかしらの力を授かること。大地の巨人モーグは自然そのもの――すなわち神である。その神の肩から出たものを授けられる。
その剣を使いこなせるようになった瞬間、大地そのものがホルスを「王」として認める。つまり、ホルスが神を使役する立場となる。王とはそういう神からの直接の祝福を受けた者のことである。ホルスはその資格を得た……というわけだが、しかしその力をまだ使いこなすことができないでいる。
大剣を持って家へ戻ると、父が臨終の間際だった。父は語る……。父が住んでいたのは平和な村だったが、ある日悪魔がやってきた。その悪魔によって村の結束は崩壊し、同族殺しをするようになってしまった。「こんな村に、希望はない……」父は息子だけを連れて村を離れ、孤独に暮らしていくことを決意した。
英雄であることのもう一つの条件。それは出生に秘密を抱えていること。あるいは厳しい条件からの出発。
ホルスは人里離れた荒野で過ごし、オオカミたちとの戦いを経て、神の掲示を得た。英雄の条件が全て揃っている。
父の最期を看取り、その助言に従って出発する。
この展開からわかるように、このお話しは「貴種流離譚」。故郷を追放された王族が、各地を旅して力を身につけ、古里に戻っていくお話しである。やがてホルスが見付けることになる村は「太陽」をシンボルにしていて、ホルスの名前はエジプトの「太陽王」のこと。太陽のシンボルを背負う王……と最初から宿命づけられている。
ところで、古里で老いた父親と二人きりで過ごし、その父の死を切っ掛けに旅に出る……という展開。誰もが『未来少年コナン』を連想するはず。『もののけ姫』の冒頭場面にも似ている。
実は宮崎駿は高畑勲と一緒だったときに、後の映画の原型となるものを一杯獲得している。『パンダコパンダ』はキャラクターが『となりのトトロ』だし、作中の場面を見ると、屋根を猛スピードで駆け下りていくシーンは『カリオストロの城』に似ているし、水没した街を船で巡る場面は『崖の上のポニョ』を連想させる。「演出家としての宮崎は、高畑が育てた」……といってもそれは間違いではない。
間もなく陸を見付けて舟をあげる。そこでいきなり大ガラスに襲われる。大ガラスに導かれて、いきなり宿敵グリンワルドと遭遇する。
その場面がこれ。険しい雪山。命綱をしっかり持っているグリンワルド。従わねば落とすぞ……というシチュエーション。なかなかうまい構図だ。
グリンワルドはホルスに自分の「弟」になるように囁きかける。ホルスは「王」になる資質を備えている。普通の人間よりも優れた力・知性に恵まれている。悪魔グリンワルドからすれば、ホルスは将来脅威になる相手でもあるが、味方に付ければ強力なしもべになる……。ホルスは英雄への階段をのぼる切っ掛けを掴んでいたが、ダークサイドへの転落……という危機も抱えていた。
この「俺の弟になれ」という囁きかけは後の大きな伏線にもなっているので、憶えておこう。
結局ホルスは、グリンワルドの誘いかけを拒絶して、崖から突き落とされてしまう。
ホルスが次に目を醒ますと、そこは鍛冶工房。ホルスは村に行き着いたのだ。
ホルスはそこで「鉄を打って鍛える」ということを知る。ホルスはこれまでも鉄斧を使っていたのだけど、それがどうやって作り出されたものか知らなかった。ホルスは「鉄を作り出せる」という現場を目の当たりにして、ただただ感心するのだった。
こういう描写が高畑勲らしい。鉄の剣や鉄の斧が出てきたら、それがどうやって作り出されたものか提示する。村があったら、その村人が何を食べているのかを提示する。そういう「生産の場面」をしっかり提示するのが高畑勲らしい(この姿勢は『かぐや姫の物語』まで変わらなかった)。最近の若い人が描くファンタジー作品には見られない描写だ。
((これが高畑勲の思想だから、『風の谷のナウシカ』の時は風の谷の人々の「生産風景」が描かれていない……ということを批判的に語っていた)
それに、村の場面として最初に見せるのが「製鉄職人」。高畑勲も宮崎駿も「職人」というものが好き。そんな二人らしい場面作りだし、「鉄」というモチーフは後の『もののけ姫』にも連なる(「製鉄」というテーマを大きくしたのが『もののけ姫』だ)。この一作だけで後の宮崎駿作品の元素を一杯見いだせるので、そういう見方をしても興味深い。
しかし村は、「大カマス」という魔物の襲来を受けて、食糧不足という問題を抱えていた。その大カマスを退治にいった男たちが、死体となって戻ってきた……。村は哀しみに暮れる。
基本「止め絵」となるこの場面だけど、構図がばっちり決まっている。全体のトーンも青でまとめながら、フレップという少年だけやや赤味を差して描いている。場面説明・感情描写としても成立しているし、絵画的にも見栄えがいい。うまい絵の作りだ。宮崎駿っぽい構図だけど、担当アニメーターは誰だろう……?
哀しみにくれ、しかし大カマスへの恐怖で二の足を踏む村人たち。ホルスは使命感に燃えて、たった一人大カマス退治に乗り出すのだった。
その大カマスだけど、予想以上にでかい。しかも魔力を使う。ホルスは銛を持って地上からの撃破を狙うが、やがて水中に引きずり込まれてしまい……。ここのバトルシーンもよくできている。暴れる大カマス、飛び散る水しぶき、振り回されるホルス……すべてに圧倒される。
一人で大カマスを討伐したホルス。しかし村人たちはすぐには信じない。特に少年フレップは反発する。
「嘘だい! お前なんかにやっつけられるもんか! やっつけられるもんか! 僕がやるんだ。大きくなったら、僕が、お父ちゃんのかたき……」
父親を喪った幼い少年の怒り……。ホルスは大カマスを撃破してまず村人らに祝福されるのではなく、こういう反発に遭う。おそらくそうなるであろう……という感情描写がしっかり描かれている。ただこういうところが、当時の子供たちには難解に思われた部分だった。
川に大量の魚が上がってきた! これで村人たちはホルスが大カマスを撃破したことを信じるようになる。
ここで描かれているのはたぶんシャケ。もともとはアイヌを題材にしたお話しを作ろうとしていた名残である。
このシャケの収獲シーンがかなり贅沢な群衆動画になっている。ここまでヌルヌル動き回る群衆アニメはその後のアニメ史を見てもほとんどなかったから、かなり驚かされる。ただ、この辺りが制作上のピークだった……という話は後ほど。
画面中央いかだに立っているのがホルス。服装設定が間違えている。この頃のホルスはまだ茶色のボロを着ているはず。こういうところで詰めが甘い。
作品本編の解説 中盤1
前半25分でホルスが故郷を離れて村を見付け、試練を一つ乗り越えて村に受け入れられるまでが描かれている。ここまでのお話しが前半パート。
もともと着ていたボロを脱ぎ捨て、村から服を贈られる。これで晴れて「村の仲間」として認められた証である。
おっと、ホルスのおティンティン! この頃はまだ規制も緩かったんだな……。ホルスのおティンティンを見たい……という人は本編を見よう!
もう一個余談。というか余計な一言。このポトムという少年。脚がたまらん。いい太ももだ……。『ホルス』はショタ好きにはたまらない一作になっている。新しいショタのネタが欲しい人は『ホルス』を見よう!
ひさしぶりの収獲に恵まれ、村でお祝いをやっている最中、突如としてオオカミの大群が襲いかかってくる。
ここから残念ながら「止め絵」になってしまう。高畑勲は東映動画と交渉して、どうにか追加の予算と制作期間を要求したが、しかし訴えは認められず。一部シーンはこのシーンのように止め絵になってしまった。
構図だけでもクオリティの高さがわかるもので、完成したらきっと素晴らしいシーンになっていたであろう……という予感はさせるだけに惜しい。
一部シーンの動画は完成しているのだけど、その動画がなかなか狂気じみている。この画面に見えているオオカミの群れが一瞬も止まることなく動き続けている。こんな贅沢な動画はそうそう見られるものではない。
まるで『ロード・オブ・ザ・リング 第2章』のヘルム峡谷のような構図。完成していていたら大迫力のバトルシーンになっていただろう……。完成しなかったことが惜しい。
銀オオカミを追いかけていくうちに、ホルスはどんどん村を離れて、とある廃墟へ行き着く。そこでヒロイン・ヒルダと出会う。
ちょっと場面の転換としては「あれ?」という感じのする場面。この展開は強引すぎないか? 細かいところで詰めが甘い。
このヒロインを演じるのは市原悦子。市原悦子といったら、私たちにとって「お婆ちゃん」のイメージがあったから、15歳の美少女を演じるのはちょっと不思議な感じがしてしまう。しかし当時は32歳。大人気女優だった。
このヒルダとのやりとりを見ていこう。
ホルス「君は? 君はここの人? この村の……じゃあ」
ヒルダ「あなたは誰?」
ホルス「ホルス。東の村に住んでいる」
ヒルダ「そう」
ホルス「君は」
ヒルダ「どこにも住めないの。どこの村でもわたしは住まわせてもらえないの」
ホルス「なぜ?」
ヒルダ「私の村は悪魔に滅ぼされた。そして私1人で助かったの。でも私には悪魔の呪いが掛けられているの。ふふ。いいのそれでも。さみしくなんかないわ。あたしには歌がある。 ホルス「君の村も悪魔に…」
ヒルダはわかりやすいヒロインではなく、ミステリアスな雰囲気を漂わせている。というか、登場してまずはじめに「悪魔の呪いが掛けられている」とはっきり明言している。表情も話し口調も妖しさを滲ませている。一見すると無害な美少女に見えて実は……という含みが描かれている。
しかも登場場面が廃村。後の展開から逆算していくと、この廃村はひょっとしてヒルダが……。そういう含みを持たせている。
最初から登場キャラクターが台詞でネタバレしてて大丈夫? と思われそうだけど、こういうところは意外と2回視聴しないかぎり気付かれない。最近は配信で何度も繰り返し視聴する人も多くなったので見破られやすいが、当時はそういう機会も少ないので、「最初からネタバレ」しててもそうそう気付かれることはなかった。
ヒルダの境遇に同情したホルスは、「村で一緒に住もう」と誘う。
しかしヒルダは魔性の女。その歌声には魔力があり、村人たちは歌声を聴くとウットリとして働く気力をなくしてしまう……。
オオカミの襲撃の後で村は破壊され、新たに防壁や堀を作られねばならないのに、ヒルダの歌のせいで一向に作業が進まなくなっていく。村人たちは次第に戦う意欲を失っていくのだった……。
ヒルダが鍛冶工房にやってくる。ホルスたちはあの大剣を鍛え直そうと試行錯誤をしている最中だった。
ヒルダがその大剣に触れると、「アッ!」とのけぞる。大剣はすっかり錆びているとはいえ、いまだに聖性が残されている。すでに魔物側に堕ちているヒルダには、それだけで強烈だった。
ここまでで40分。起承転結の「承」が終わる局面。オオカミとの激しい戦い、ヒルダとの出会い、しかしそのヒルダが実は悪女だったと明かされるまでが描かれる。
作品本編の解説 中盤2
この後もヒルダの物語が掘り下げられていく。ホルスはしばらく出てこなくなる。ホルスのドラマは直線的で面白味に欠ける……と判断されたのだろう。ヒルダの心情の変化が、作品のドラマティックなポイントとして描き込まれていく。
悪女らしい表情で笑うヒルダ。実はホルスを村から追い出すよう、グリンワルドから指令を受けている。村の中にホルスを疎ましく思う一派もいて、ヒルダはそういう人たちと協力するのだった。
ところが村の子供と交流し、ヒルダの気持ちに迷いが表れてくる……。村の子供を可愛らしく思う心、村を破壊したくない、という躊躇い……。
ここで「太陽」のシンボルマークが出てくるのがポイント。いずれホルスの花嫁になることが暗示されている。
村の結婚式。村人たちの幸福な様子を見て、次第に後ろめたさを感じていくヒルダ……。 相変わらず構図がうまい。群衆がヌルヌル動き回っている。
ヒルダはネズミの大群を呼び寄せて、幸福な結婚式を破壊する。
だが破壊された村、負傷した花嫁、それでもなお結束の崩れない様子に、ヒルダの躊躇いは大きくなっていく。後ろめたさと後悔が強くなっていく。
ヒルダの心情描写を描いた場面。1カット目はドラーゴというホルスを疎ましく思っている村人に向けた睨み。次のカットはそのドラーゴに斧を渡し、ニヤリと微笑んでみせている場面。現代であったら不思議はないが、こういう表情で心情を表現する……というのは当時画期的だったそうだ。
もう一つ、ヒルダの心情描写を描いた場面。村の子供たちと交流し、次第に愛着を抱くようになっていく。しかし自分は悪魔の手先……表情に葛藤の強さが現れている。
この時代のアニメだから、子供の気を惹くためにとりあえず喋る動物キャラクターが出てくる。ホルスにもコロという相棒がいるのだけど、ヒルダには動物キャラの相棒が2人。リスのチロとシロフクロウのトト。
なんで動物の相棒キャラが2体もいるのかというと、これはヒルダの心理的な「良心と悪意」を表している。チロとトトはヒルダの内面で起きている葛藤を言葉にしている。ヒルダの内面を実況している……とも言い換えられる。
こういう喋る動物キャラクターは『白蛇伝』の頃からいたのだけど、『太陽の王子ホルス』まで来ると「ただの喋る動物」ではなく、物語上の役割がきっちり与えられている。なぜ喋る動物キャラクターなんてものが出てくるのか? その理由を合理的に示すのが高畑勲らしい。
一方、ホルスの相棒コロはたいした役目を与えられず、物語の背景に追いやられてしまう。子供の関心を惹くための動物キャラはもう必要ないだろう……と考えていたのだろう。
ヒルダはとうとう自身が「グリムワルドの妹」であることを明かし、ホルスを「迷いの森」へと突き落としてしまう。
グリムワルドの妹……と語っているが、血縁的な「妹」ではない。物語前半部分でグリンワルドはホルスを「弟」として迎えようとしていた。グリンワルドはおそらく「特別な力」を持った人たちを絶体絶命の状況に追い込み、自分の弟か妹になるように迫っていたのだろう。
雪山のシーンで、グリンワルドは崖の上から命綱を掴み、手を放したら死ぬぞ……という状況でホルスに「俺の弟になれ」と迫った。しかしそういう状況にもかかわらず、ホルスは拒絶した。これもホルスが「王」となる資質を持っているか、試されている場面だった。
おそらくヒルダにも似たようなシチュエーションがどこかであったのだろう。ヒルダはそこで「死の恐怖」に耐えかねて、グリンワルドの「妹」になってしまった(もしかしたら他にも特別な資質を持った人もグリンワルドに誘いかけられたのかも知れない。しかし王になる資質に欠ける彼らは、死んでしまったのだ)。
(ヒルダははっきりと「故郷の村は滅ぼされた」と明言している。ということはグリンワルドはヒルダの村を襲撃し、その最中に「死か服従か」という選択を迫ったのだろう)
ところで、なぜグリンワルドがヒルダに誘いかけたのか……おそらくヒルダの「歌唱」にはもともと魔力があったのだろう。もしかしたらヒルダには「王妃」の資質があったから、悪魔王はその力を自分の手先にしておこうとしたのかもしれない。
ここから映画も後半戦……。しかし「迷いの森」が残念ながら未完成。迷いの森のシーンは他のバトルシーンと違って構図も未完成。ざっくりしたイメージだけが描かれていく。当時のアニメ制作がいかに困難だったか……。
ここでホルスはヒルダを信じるか否か……という葛藤が掘り下げられるのだけど、それもふわっとした感じになってしまう。
そんな迷いの森も、なぜか唐突にホルスが覚醒し、「太陽の剣を鍛える方法がわかった!」と脱出してしまう。この辺りの心情的な経緯が、「物語の展開」として示されなかったことが残念。ここだけ構図にも緊張感がまったくない。もしかしたら脚本では描かれていたのかも知れないが、すでに制作費も制作期間も超過して余裕もなくなっていた。省略してしまったのは苦渋の決断だっただろう。
クライマックスのバトルシーンも気合いの入りまくった動画で描き出されたのだけど……でもよく見るとBankカットがある。このカットは2回使われている。映画制作の後半に入って、スタッフもスタミナ切れを起こしてしまっている。前半ほどの勢いに欠けるのが惜しい。
アニメ史における最初の名作だけど、実は未完成映画。それが残念に感じるところだ。
映画の感想
後に名監督、名アニメーターと世界から尊敬されることになる高畑勲と宮崎駿による最初のコンビ作品。当時はあまりにも「革新的すぎる」として興行的に大失敗だった。2020年代のいま見ると、深夜帯に大量に作られているファンタジーアニメとそう変わらないのだけど、当時のアニメの視聴者は主に小さな子供。『太陽の王子ホルス』は中学生、高校生向けに作られた作品だったが、当時はその年齢層にアニメ視聴者はいなかった。当時は「難解すぎる」と評された作品だが、今の時代だと普通に見られる。いま時代に見たほうが、むしろ楽しい。アニメのトレンドを数十年先取りしすぎた作品だった。
『太陽の王子ホルス』は革新性はいろんなところに見られる。
まずこの作品から完全に「演出主導」の制作になったこと。それ以前はアニメーターがそれぞれの場面で演出の意図を無視した“アドリブ”が結構入っていたそうだ。『太陽の王子ホルス』からそれを完全に排除し、なおかつ構図をしっかり練り込む。この当時はまだ「レイアウト法」の確立に至ってないが、それに近い発想でシーンが作られている(レイアウト法が確立するのは『アルプスの少女ハイジ』からとされている)。 その成果もあって、『太陽の王子ホルス』は一気に「映画的」な画面構成になっている。空間表現の怪しいカットは多少あるものの、ほとんどのカットは構図がばっちり決まっている。特に群衆表現はどのカットも上手い。絵としても収まりがいいし、群衆らしい密集感が表現されている。
さらに気合いの入りまくったフルコマ作画。アクションもそうだけど、群衆もヌルヌル動く。当時は虫プロダクションによるリミテッドアニメが始まり、「止め絵」で見せるアニメがトレンドになりつつあった。「あんなものはアニメではない。アニメーション映画とはこうあるべきだ!」といわんばかりに動画に力がこもっている。
ただ、その気合いは中盤に入りかけたところですでに空回りが始まる。制作期間を圧迫してしまい、結局「止め絵」演出になってしまったし、後半は息切れを感じさせる。
それに、すべてのアクションがうまくいっている……というわけではなく、「決め」の絵がなく、ヌルッと動いてしまう。確かに動きは凄いけど、まだ外連味に欠ける。そういうメリハリを付けたアクションの作法が生まれてくるのは、もう少し後の話だ。後の『もののけ姫』のアクションの方が圧倒的に力強い。
物語作法的なところでも革新があった。物語のなかで全てが完結するのではなく、その物語が始まる以前からお話しが始まっていて、ある部分が映画の中で合流する構造になっている。要するに「設定」の導入。主人公ホルスがどうして孤独に暮らしているのか……その背景が練り込まれているし、ヒロイン・ヒルダがいかにしてグリンワルドの手下になったのか、台詞の中で端的に語られるが、映画の中ではあえてその全体像を示さない(例えば「北に帰ります」という台詞。ヒルダが最初からグリンワルドの手下だった……というわけではなく、別に古里があったことを示唆している)。ヒルダの過去については、主人公がホルスで、ホルスの視点から語られているので、あえて掘り下げない作りになっている。
今までにない奥行き感のあるストーリー……これも今にしてみると「普通」のこと。キャラクターそれぞれに「背景」を持っていることも、今では普通。だけど、当時のアニメにおいては革命。
これが当時の中心的視聴者である子供には難しかった。端的な台詞から、それぞれの人物の背景を想像しなければならない……。当時はそういう物語の前例がなく、そういう作品を見ても誰も理解できなかった。
次に人物描写の奥行き。ホルスは最初から最後まで心理的な変化は特に描かれなかったが、その一方でヒルダの内面がしっかり描き込まれている。ヒルダはもともとホルスを陥れる「悪魔の手先」として登場してくるが、しかし村の人たちと交流を持つ過程で、迷いが生まれてくる。映画の冒頭でホルスの父が「やがて仲間同士で殺し合いをするようになった」と語っているが、その原因を作ったのがヒルダだ。
その切っ掛けを人間達の内面から引っ張り出す……グリンワルドはそこで「悪魔」としての存在感を示している。悪魔は昔から自ら手を下すのではなく、人間の悪の側に引きずり込むのが役目だからだ。
そういう展開であるから、お話の途中からホルスが出てこなくなり、中盤かなりがっつりヒルダだけの出番になる。悪女としてのヒルダから、苦悩と迷いが生まれて、最後には自分の良心に従ってホルスの味方になるまでが描かれている。
アニメキャラクターにこういう心情描写を持たせたのは当時としては画期的だった。アニメキャラクターであっても「内面」を持っている。そういう人間の内面的奥行きを描いた最初のキャラクターとなる。
ただ、これも当時の子供たちには「難解」と感じられたところだった。
製作面でもかなり苦労を抱えた作品だった。当初はアイヌ民族を題材にした作品をしようとしたが没。その後、紆余曲折を経て北欧風ファンタジー作品となったが、文化背景を見るとアイヌ民族文化とケルト文化が不思議な合体をしている。川沿いに住んでいて、シャケを主食とする様子はアイヌだが、バグパイプなんかが出てくる。岩から大剣を引き抜く様子はアーサー王の伝説を元ネタにしている。
東映動画から何度も没にされて、企画に試行錯誤していた痕跡が作品に残っている。
高畑勲監督第1回作品であるし、当時トレンドになりかけていた「止め絵」中心のアニメへの反発があって気合いが入りまくった作品だったけど、その影響で制作費と制作期間をオーバー。さらに後半へ行くと「止め絵」が多くなるし、「迷いの森からの脱出」のシーンは完全に未完成。後半ほどお話しがグダグダになっていく。
アニメーションがただの子供向けの作品から地に足の付いた「劇場アニメ」へと変貌しようという過渡期的な作品だったが、未完成部分も多い。粗も多い。当時のアニメーターによる若々しいエネルギーに満ちている一方、未熟でバランスに欠く。すでに書いたようにアクションにはメリハリがないし、設定の粗、展開の粗も目立つ。
それに悪役グリンワルドだ。最初に見たとき、あまりの貫禄のなさに、「グリンワルドの手下かな」と思ったくらい。見た目がぜんぜん怖くないし、どことなく「小物」感。これでも当時の人が精一杯考えたヒールだった。
魔物の描写も、自然界の動物とそう変わらない姿をしている。銀オオカミも普通のオオカミに見えて、あれが魔物だとはすぐにピンと来ない。こういうところも当時らしい描き方だけど、今の視点で見ると物足りない。もっと「魔物」然とした魔物も登場させて欲しかった。
当時としてはあまりにも革新的すぎて難解だった『太陽の王子ホルス』だが、今の視点で見ると普通の作品だ。「こういうファンタジー一杯作られているよ」というくらいの普通さ。時代を数十年先取りしすぎた作品だった。
だが、今でもあまりやらないやっていないところも一杯ある。
まず気合いの入りまくったフルコマ作画によるアクション。ここまで作画枚数を使った動画はその後でもほとんど見ることがなくなった。結局は「紙芝居」に過ぎない「止め絵アニメ」のトレンドが業界の主流派になってしまう。CG制作会社だがオレンジのアニメーションがかろうじてかつて東映動画がかつてやっていたフルコマによるアニメーションを継承している。
次に民俗学に基づいたファンタジー描写。現代人が描くほとんどのファンタジーの欠点は、それぞれの「モノ」がどのように生産されているのか、まったく示されていない。今どきの人が描くファンタジーは、物質至上主義的の世界になっている。現代人は市場に溢れている「モノ」がどうやって生産するのか知らないし、それ以前にそういうこと自体考えなくなってしまっている。その感覚が創作の中にも表れてしまっている。現代人の描くファンタジーの大半は、地に足が付いていない……現代人のコスプレ劇になっている。
『太陽の王子ホルス』は誰が、どこで、どうやってその「モノ」を生産しているのか。その提示をまずやっている。こういうところが現代の作家たちが忘れてしまっている視点だ。
アニメ史における最初のターニングポイントとなった本作。この作品を切っ掛けに、アニメは本格的に「劇映画」になっていく。だが時代が「それはまだ早い」とこの作品を失敗作の扱いにしてしまった。
だが後になって振り返ってみると、『太陽の王子ホルス』はものすごい一歩を作り出している。新しい技法、新しい表現を開拓し、アニメはただの子供向けの作品ではない、奥行き感を持った世界観がそこにあることが表現されている。我が国最初のアニメ映画は『白蛇伝』ではあるが、私たちの遺伝子はむしろこっちのほうに起源があると見ていいだろう。
それにアニメ自体が若々しい。高畑勲も宮崎駿もまだ若者だった。大塚康生、小田部洋一、奥山玲子もまだ若者だった。作り手の若さが作品に出ている。どの場面もエネルギッシュである反面、粗が目立つ。バランスも悪く、後半グダグダ。若さだけを武器に乗り込んでいった……というような作品になっている。
思想も若々しい。当時、高畑勲も宮崎駿も組合を作り、団結することに理想を掲げていた。二人とも社会主義思想を理想としていた。その理想がそのまま作品の中に現れている。いま見ると、ちょっと恥ずかしいくらいに作家達の思想がダダ漏れになっている。むしろ高畑勲にもこんな時期があったのか……と驚くくらい(宮崎駿はいつも本音をダダ漏れにするのだけど)
今の時代に見ると「さすがに古いな」と感じる部分も多いが、しかし1968年という時代を考えるとなかなか凄い1本。こんな凄い1作があって、ここから後の名作が生まれていったんだ……と「全ての始まり」を感じさせる1本だった。高畑勲、宮崎駿の原点を見るという意味でも、この1作は見るべきだろう。
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