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12月27日 「美しい」という言葉をタブーにしてはならない。

上野千鶴子氏に聞いた「美しい人に『美人』と言ってはいけない理由」

〈引用〉

「ルッキズム(外見差別)という新しい概念の言葉が登場し、イズムがついているということは、外見についてとやかく言うのは差別であり、“やってはいけないこと”に認定されたということです。それは、“褒める”という行為でも同じこと。

たとえば妻やガールフレンドと一緒に歩いている男が、前から来る別の女を見て、『お、美人だな』とか『お、ブスだな』とか何気なく言ったりするでしょ。その瞬間に、女は一元的な序列のどこかにサッと位置づけられてしまうことになる。そんなこと頼んでもないのに。当然、不愉快ですよね。男というのは、そうやって女をランキングする権力が自分にあると無邪気にかつ傲慢に信じているのです。それが近年になってやっと『そんな権利、アンタたちにはないよ』ということが浮かび上がってきた」
(中略)
「よくある反論ですが(苦笑)、女の場合は一元尺度でランクオーダーされるのに対して、男は多元尺度なんです。たとえばイケメンじゃなくたって、学歴とか地位とか、そういった尺度が男にはある。男の尺度の中で一番強力なのは金力(稼得力)であり、イケメンかどうかなんてことは、男にとってはマイナー尺度です。つまり男女のランクオーダーは非対称ですから、『女だって同じことをやっているだろ』とはなりません」

 フェミニズムが馬脚を現した……っていう感じのお話。女性に「美人」というのは差別になるが、女性が男性に対して「イケメン」というのは差別にならない。こんなトンデモ暴論あるわけがない。
 女性だって、顔で男性を序列付けしている。顔で格付けしている。誰だってそういう審査している。それを男性がやったら差別で、女性がやるのは差別ではない……そんなわけはない。誰だっていつでも色んなものに序列を付けている。自分も漏れなくなっているはずなのに「やってません」という逃げは許されない。
 これは「自分たちが言うのは差別ではないが、お前らが言うのは差別だから言うな」という理論。ただの暴論だ。

 私はこういう議論に一切参加するつもりはない。参加すれば最終的に泥沼に落ちるのは目に見えているから。
 10年ほど前、私はコンビニで働いていたのだが、その当時はコンビニでエロ本は全て紐が掛かっているかシールを貼るかで、立ち読みすらできない状態になっていた。
 ところが、BL本は紐も掛かってなければ、シールも貼ってなかった。それどころか、小学生向け少女漫画雑誌と一緒の棚に置かれていた。店員をやっていた当時、これが不思議だった。
 どうやらフェミニストが活発に動いていたらしく、「エロ本は猥褻本だが、BL本は表現の自由だ」という理論であちこちでロビー活動をやっていたらしい(Twitterでそういう活動をやっている人を見かけた)。この当時、BL本は図書館にも置かれていたが、「撤去になるかも」という話になるとフェミニストが押しかけて「表現の自由を奪うな!」と怒鳴り込んだとか。「むしろBL本をあちこちに置いて、いつでも読めるようにしろ!」と圧力をかけていたそうな。
 で、まあ結局のところ、BL本はコンビニにも図書館からも姿を消した。どう考えてもエロ本だからダメだろ……ってな結論で。

 今回のお話も、泥沼化すると最終的に、「もう美女もイケメンも言うな! どっちも差別だ!」という話に陥りかねない。議論に参加すればするほど、そういう意味のわからないところに着地……いや不時着してしまう。そういうのが見えるから、何も言わない……という立場を取りたい。
(「美女もイケメンも差別ではない!」……という考え方のほうにはなかなか進まない……というのが世の常。泥沼化すればするほど理性的な思考が失われるから、言い合いには参加しない)
 知ったことか! 私は美女もイケメンも使い続ける! なぜなら差別でもなんでもないからだ! ……と私は堂々と言い続ける。差別ではないから、はっきりした言葉で言い続ける。

 つい先日、ゲッターズ飯田さんの本を読んでいたが、「正しいイジり方」について書かれていた。正しいイジり方……というのはその相手を認めてあげることだ。「デブ」でも「ハゲ」でも、それを認めてやれば、そのイジりは差別にならず、むしろ輝かせてあげられる……と。
 「デブ……いいじゃん!」「ハゲ……いいじゃん!」そういう価値観で輝かせてやればいい。
 ダメなイジりとは、「貶めるイジり」のほう。デブやハゲであることを貶めるイジり……というのは絶対にダメ。こういうのは「イジり」ではなく「イジメ」である。
 こういうのはプロの芸人はよくわかっている。プロの芸人は相手をイジってどうしてその当人も気持ちよく笑わせられるのか……というと、「貶めるイジり」ではなく「輝かせるイジり」をやっているから。これを心得ないイジりがダメなイジり。これができない芸人はダメ芸人。

 ただこの問題は、一般人には「貶めるイジり」と「輝かせるイジり」の区別ができない。その区別のできる能力のない人が大騒ぎしている。こういう大騒ぎをする人ほど、やたらと声がデカい。
 そして多くの場合、その当事者とはまったく関係ない人だ。「自分は関係ないけれど、ハゲやデブの人の気持ちを考えろよ」と、関係ない人があたかも関係者を装ってクレームを付ける。そういう事例が山ほどある。その当事者はなんとも思っていない……という時でも、こういうタイプの人は「正義」を盾に暴走しがちだ。はっきり言えば「お前は関係ないだろ」だ。
 最近のルッキズムの問題があり、芸人の中で「ハゲ」や「デブ」を売りにしていた人達がテレビに出られなくなった……なんて話を聞いている。
「容姿が普通から外れる人への差別を助長させるから、テレビ出演させるな」
 ……という意見がテレビに来ている……本当かどうかわからないけれど。
 でも結局のところ、「差別するな」という人達が差別している……というのが本当の構図だ。ハゲやデブがテレビに出ると、一般の差別が助長させるから、出さないようにしてくれ。自分たちの見えないところに追いやってくれ。……それでハゲやデブを売りにしていた芸人たちの輝く場が奪われてしまった。

 普通の人がいくら大騒ぎしても、世の中には頭のはげる人や、平均的なルックスではない人なんていくらでもいる。そう生まれついちゃう人は当たり前のようにいる。
 現代人のルッキズムの認識を見ると、どうも「そもそもそういうルックスの人を私たちの前から消してくれ」と言っているようにも聞こえてしまう。「姿を見えないようにすれば差別もなくなる」……とこう考えてはいないか。すると遺伝的要因でハゲてしまった人は、もう世の中にも出てくるな、お前らのせいで差別が起きるんだ……という理屈にも聞こえてしまう。それは差別ではないのか。
 「差別するな!」が平均的なルックスとして生まれた人達のエゴのようにすら見える。「差別するな!」と言いながら、実は差別されそうな人を慎重に社会から排除している……そうなってはいないだろうか。

 私なんかはずっとずっと「キモい」と言われてきたほう。なぜならアニメやゲームが好きだから。そういう人種は、無条件に「気持ち悪い」と言われてきた。なぜなら、そういう時代認識、時代の価値観だったから。そういう認識を誰が作ったのか……というとテレビ。テレビで言っていたから……で簡単に人に認識は変わる。私はそういうのを見てしまった。
 今の若い人は、アニメやゲームが好き……って感覚が普通だから、そういう人のことを気持ち悪い……とは誰も言わなくなった。おそらく、そう言って排除してきた方は、自分がやってきたことなんて、覚えてないんだろう。
 普通の人ほど簡単に掌返しをする。で、自分たちが言ったりやったりしてきた「最低なこと」は一瞬にしてなかったことにする。責任は一切取らない。それが「一般人」だ。
 私は徹底的に時代から排除されてきたほうだった。私は「いない人間」扱いされてきた。私の地元に私の友人は1人もいないし、私という人間がいたことを認識している人間もいないだろう。私は「透明人間」として過ごしている。
 でも私をこうやって追いやった人々は「差別だ」とはまったく思っていない。自分たちがやったことも覚えてないだろう。むしろ「正義だ」と思っているはず。若い頃にやった「成果」とすら思っているかもしれない。これが大騒ぎしがちな一般人が陥りやすい状態だ。
 私は徹底的に時代から排除されてきたほうだった。時代は変わったけれど、私は排除を受けてきた時代を忘れる気はない。きちんと引き受けて語りたいと考えている。だから「差別だ」と言いながら、差別されている対象を世の中から消そう……という考えには反対。

 「美しいものを美しい」と言うことを差別だ……という意見には同意できない。美術家に「時勢だから、美しいって言葉を使わないでくれ」「美しいものを表現しないでくれ」なんて言えるか?
 美人を描くことは差別に当たるから、美人を描くな……。美術家を失業させるつもりか。理想を語るなということか。理想を示すことも「差別に繋がるから」なんて意見には賛同できない。

 そういうわけで、私はこれからも平然と「美人」「美女」「美少女」という言葉を使い続ける。ルッキズムの問題がどうとか、知ったことか!


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