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高橋一生一人芝居「2020」感想

がっつりネタバレありの感想です。
この感想自体、何言ってるのか大体わかんないと思うけど、私にもわかってないから安心してください。

高橋一生さんの一人芝居「2020」を見てきました。
作:上田岳弘さん、演出:白井晃さん、ダンサーに橋本ロマンスさんと、シンプルな構成ながら最上級を集めて作られた、素敵な作品でした。

言語から生まれ、人の身体や場所・時間を借りて拡張した作品を、改めて言語化するというのは、とても難しく、私の力ではどうやっても足らないのですが、まあなんか思ったことをつらつらとまとめていきます。
えっこの話まじわかんね~~~~~~~!!って思った方。
もし必要であれば、なんか知らんけど、こういう風に受け止めた奴もいるんだな…と思って、眺めて、自分でも考えてみてください。

Genius lul-lulとは誰なのか

シンプルに言うと私、個をもつ全ての人なのかなとは思いました。

人間って他人のこと理解してるつもりでいて、実のところ、自我を自我として認識できるのは自分だけじゃないですか。他人については、自分の自我を投影させた上で、どうやら自分とは違うところが在るらしいぞと知ることで、少しずつ調整して、それらしいものを想像して補ってるんですよね。

私は割と「汝、自分を愛すように隣人を愛せよ」というのが好きなんですけど。それってつまり、自分は自分のことしかわかんないってことじゃん。同じっぽい形してるから、同じようにあつかっておこう位のノリで。
自分にしか自我がないと思う位が、実は正しく正気なんですよ。
だからlul-lulは自分のことだと思ってます。

でもね、大体の人はそう思うわけです。
lul-lulとは自分である。太宰治作品を愛すように、これは私に話しかけている物語で、私の選択の物語だと。
その共鳴は肉の海で起こるさざ波ですね。みんな自分だけが考えているのだと思いながら、同じことを思っている。私たちはlul-lulであると同時に肉の海で眠っている人類でもある。

肉の海とはなんなのか

私はしょっちゅう群体となった人間に対してキレ散らかしているので、そういう解釈をしてしまうんですけれども、実際どうなんでしょうね。
私の言う「群体」「アメーバ」は、自分で考え意思を持っているつもりでいて、その実、多勢にただ流されているだけ、なんとなく多くの人と感情を共鳴させて同じことを繰り返すだけの人間、というもので、大きいところでは人種差別、小さいところではテンプレ言葉でコメントしかできないオタク、っていう感じです。
これは全体主義ではなくて、どちらかというとスピリチュアリズムかもしれません。深層無意識に近いけど、もっと行動に現れやすいもの。気がついたら流行っているもの。他人と共鳴する感覚。

コロナに対する過剰な警戒というのも、各々自律性は保っていつつも、どこかで「なんか怖いな」という感覚を共有し、共鳴し合い、倍増していった先にあるように思っています。
先に見た、高橋一生さんと同じ事務所の村井良大君主演 東野圭吾原作「手紙」という物語も、「殺人犯の弟」という、日常の異物に対する過剰なまでの警戒、その当人ではなく属性への嫌悪を描いていました。
なんだろうな…多勢を守る為に個人を切り落とし統制するという思想心情、ではなく、「なんかやだな」「やっぱやだよな」の積み重ねの先に、そういう忌避感があるように思っているんですよね。
今は特に、スマホで情報共有し、より均質化した静かな集団ヒステリーを起こしやすいように思います。いまヒステリーって言わないんですけどね。肉の海のなかで、同じ感情がさざ波のように寄せては返している。
個人でも、全体でも、思想信条でもなく、同じ音に調律された心のままに群体として自我を蕩かして眠っている。
……というイメージです。

スマホ(的なもの)に対する話はとても示唆に富んでいるなと思ったんですけど、細かいセリフは忘れました。これ戯曲買った方がいいかもしれない。

今作品の戯曲は「月刊新潮 2022 8月号」に掲載されています。

劇場で椅子に座って、同じ箱の中を覗き込んでいる観客は、スマホで世界を覗き見して、均質化した人間と似ていますね。

ダンサーさんはなんなのか

lul-lulと対となる人間たち、あるいはlul-lulそのもの。
割と人間をしている時はわかりやすくて、肉の海となり眠り続ける人たちの物語の時は、ブロックの上で寝ています。深夜に起き出してしまったのがlul-lul、眠り続けるのが人間。
関係ないのですが、ものすごくスタイルが良くて動きが綺麗だったので、貞本絵のエヴァみたいだな…って思ってました。(半袖ワイシャツに黒スラックスなのも相まって)

ブロックはなんだ?

あれ……なんですかね。

意味とか価値なのかな。
バベルの塔を思わせる扱い方もありましたね。積んでは崩す様は賽の河原を思わせた。
人間そのものと思ってもいいのかもしれません。
これに関しては本当になにもわからない。

ゴリラの檻の穴、あるいは自殺するということ

餌だけしかない檻に入れられていたゴリラは自殺したけど、檻の中に深い穴が開いていた時にはしなかった、という話。
急に「僕にはこの穴があったから死ななかった」みたいなことを言ったので、穴の話どこでした…?と困惑していたら、その後、観客席を指して穴だと言っていて、そうなのかーと思いました。

なんで穴があるとゴリラは自殺しないのか?
死がそこにあると知っているからとも考えられますが、単調な日常に変化と選択肢があるからだとも考えられるかなと思いました。死とは(何度も生まれ変わるlul-lulにとっては特に)生に変化をもたらしますしね。
lul-lulが(あとダンサーさんが)踊るとき、頭を銃で撃って死ぬそぶりが繰り返し挿入されていて、「自分で死を選べるのは類人猿だけ」というようなセリフをよく思い出しました。
遺書を書けるのも人間だけだし、それで死ねないのもまた人間だけなのかな。

許容できない罪を許す

なんか…なんかこんなようなこと言ってたよね?!
マジで戯曲読まないと言い回し一つ一つが思い出せないな。
このあたりを聞いていたとき、「私の頭の中の消しゴム」(多分)で言っていた「許すとは、その人のために心の部屋を一つ開けてあげること」という感じのセリフを思い出していました。
いや全然違うかも知れない。
ともあれ、他人と同一化せず、同質化せず、自分の個を保ちながら、相手の個を心に迎え入れるというのは、なかなか難しいことですね。許さないでいるというのはある意味で、他人に自分を侵食されていることでもあるのかもしれない。

赤ちゃん工場と大錬金

赤ちゃん工場の倫理的なあれそれはさておき。
(食肉工場か~って思いながら見てたので、赤ちゃんの映像が流れ始めた時に結構しんどかったです)
人間はなぜ生まれ、なぜ生きるのか。自分で選んだわけでもないのに。ということに対して、価格をつけるという形で金銭的な価値を――人間に理解しやすく、共有しやすい価値をつけるというのは、一種の救いのような気もしました。

人生の価値とは何なのか。
という問いかけは苦しみの元で、「価値がなくてはいけない」という強迫観念にとらわれる原因だと思うんですけれど、とはいえ沢山人間が存在する中で、自分が存在する意味や価値があるのかと問うてしまうのはしょうがないことでもある。
そんな中で「あなたは◯円です」って言って、価値を可視化して貰えるのは、高ければ嬉しいし、安くても気楽だし、他の人と比べやすいしで、ちょっと楽になれます。なろう作品でステータスやスキル、職業が明示されるのも、価値の可視化がストレスを軽減するからなんじゃないでしょうか。

倫理的なあれそれはさておき。

そして大錬金。太陽系全てが黄金になる。これは上記の「価値の可視化」の拡張なのかなと思っています。黄金は全ての人が価値を認めるもので、全てが均質化し、黄金になるというのは、静止した幸福を全ての人にもたらすのかなと。
いやもーなんもわからん。

遠くにいきたい

ずっと、とうほうたんとうって聞き取ってたんですけど、パンフレットを見たら遠方担当って書いてあった、自分の耳が信じられなくなりました。えんぽう…?
配信見るかぁ~~~~

遠くにいきたい。海の向こうや遠くの遠くには大体素敵なものがありますね。蓬莱しかり、エルドラドしかり。エルドラドは別名黄金郷とも言って、多分大錬金で触れたような、「全ての人が価値を認めるなにか」がある場所として名前が出てるように思います。

で、当代のlul-lulは馬鹿真面目に遠くの遠くを目指してしまった。おかげで次代のlul-lulはパラシュートで復活するハメになったわけですが。
前にTwitterで見かけた「死にたいっていうのは、今この瞬間の苦しみから解き放たれてハワイに行きたい、位の意味のときがある」みたいなのが結構好きなんですけど、なんとなくそれに似てるのかもなーと思いました。
ここじゃないどこか、なにか価値のあるものがある場所へ、遠くへ行きたい。幸せになりたい。

……80分の中にモリモリ盛りだくさんな物語だったので、正直色々記憶から落ちている所もあると思いますが、とりあえず思い浮かんだのはこんな感じ…。

高橋一生さんが可愛かったタイム


・「……ニコッ!」とする謎の時間
・最前列だけでなく前方バリバリにいじってくる
・ダンスの時。手で作った銃で頭を打ってぐらんとするところ
・奥の壁をのぼる。結構高く
・客席へのボール投げ
・両手シャカシャカ、腰フリフリと踊る
です。

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