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夢迷人~あの日の父と再び~

 私は落ち着かなかった。ひどく鼓動が高鳴り、私の目に映る全てがスローモーション再生されているかのような感覚だった。なぜ、そのような感覚に陥っているかというと、理由は明白だ。もうすぐ父が帰ってくるからだ。父とは久しく会っていなかった。父と会えると思っただけで、どこか懐かしい感じがして、心が温かくなった。今まで失っていた心のぬくもりが戻ってきたようだった。

 玄関で父を迎えるとき、私はいつもどうしていただろうか。本当に久しぶりすぎて、それさえも忘れかけていた。気がつけば、台所では母が夕飯の支度をしている。そういえば、夕飯の時間になると、私は布巾でテーブルを拭き、箸を並べていたんだったと思い出した。

 綺麗好きだった父がこの家からいなくなってからは、布巾でテーブルを拭くという行為が億劫で仕方なくて、しかも誰も指摘する人もいなかったので、テーブルの上が汚いと思わない限り、めったに拭くことはなくなってしまっていた。私は慣れない手つきでテーブルの上を入念に拭き、綺麗に箸を並べて、父の帰りを今か今かと待ち望んだ。

 父が帰ってきたら、何を話そうか――。

 お父さんがいなくなってから、私免許を取ったんだよ。

 日本酒も焼酎も飲めるようになったんだ。

 何もなかったあの空地には、新しくスーパーができたんだよ。

 お父さんがよく通ってたあのスーパーは、もうなくなっちゃったんだ。ちょっと寂しいね。

 父がいない間に起きた変化は、数えきれないほどある。そんな話をして父を驚かせるのもいいだろう。父と話したいことを考えるだけで、心拍数がどんどん上がっていった。今までできなかった話をたくさんしたくて仕方なかった。どうしても落ち着くことができず、私はリビングをうろうろし始めた。「少し落ち着いて!」と母から注意されたが、私にとってその言葉はただの雑音に過ぎず、私は足を止めなかった。

 するとその時だった。

 ―ピンポーン―

 チャイムが我が家に鳴り響いた。私は訪問者が誰であるか確認もせず、父が帰ってきたと直感で判断し、急いでリビングを飛び出した。すぐに玄関に辿り着き、自分でも驚くような速さで鍵を開け、期待に胸ふくらませて扉を開けた。

 そこには私が待ちわびていた父の姿があった。ずっと会いたかった父が目の前にいることが信じられなかったが、私は一人舞い上がり、父の手を引いてリビングへ急いで向かった。父の手のぬくもりはとても懐かしく、安心するものだった。こうして再び会えたことが、心の底から嬉しかった。

 早く父と話したくて仕方なかったが、リビングに着くまでは話してはいけないような気がして、父の様子に目もくれず、ひたすらに廊下を駆け抜けた。今まで薄暗かった光景に、一気に光が差した。やっと父と話せると思い嬉しくなった。

 「ねえ、お父さん!」

 そう言って振り返った。てっきり、いつものように明るく返してくれるものだと思っていた。陽気な父の姿を見せてくれるとばかり思っていた。

 しかし、現実は違った。父は私に微笑みかけてくれたものの、明らかに元気がない様子だった。無理して笑っている様子がとてもつらそうで、今にもどこかへ消えてしまいそうな儚さをまとっていた。

 あの時と同じだ――。

 私は思い出した。父は死んでしまったのだ。しかも自らの手で。では、なぜ今、父はこの家の中にいるのか。私は状況が掴めず、ひどく混乱した。

 だが、少し考え、ある結論に至った。

 そうだ、これは私に与えられた最後のチャンスだ。

 ここでまた父を死なせるわけにはいかない。

 何としてでも救わなければ――。

 私はできる限り、父をもてなすことにした。少しでも父を喜ばすことができれば、父はいなくならずに、再び一緒に楽しく暮らせると思ったからだ。私は、どうしたら父がまた幸せな気持ちを取り戻すことができるのか、父の願いを探るべく、父にたくさん話しかけた。不自然なほどに。自分でも構いすぎだと思うくらいだった。でも、何もせずに父が再び消えていくのを黙って見ているのは嫌だった。何としてでも、父をこの世に留めておきたかった。

 私は父が死んだあの時、とても後悔した。二度とあんなに悔しい思いをしたくないし、父のつらそうな姿はもう見たくないと思った。

 「お父さん、これあげる。たくさん食べて!全部食べていいから!」

 私は父を席に座らせて、自分の大好物である寿司を父に差し出した。父はゆっくりと寿司へ手を伸ばし、一口一口を噛みしめるように味わっていた。その様子はどこか真剣で、自分の中で思いを巡らせているような感じだった。私はそれを見て、また一緒に暮らすことを考えてくれているのだろうかと期待した。父がこの世に戻ってきてくれるなら、寿司なんて一生食べられなくてもいいと思った。私はただ、父の楽しそうな姿を見たかった。もう一度父と、幸せに暮らしたかった。

 「おいしい?」

 「おいしいな。ありがとう」

 でもその言葉とは裏腹に、父は元気がない様子だった。元気を取り戻すどころか、前よりもさらに元気がないように見えた。私たちに迷惑を掛けまいと、かろうじて微笑んでいるものの、その様子はとてもつらそうだった。そのときの父は「誰も自分のことを救えはしない」とでも言いたげな表情をしていた。

 家に帰ってきてからまだあまり時間は経っていないはずなのに、父は確実に衰弱してきている。とうとう父は座っていることもできなくなり、床にうずくまり始めた。私は、早く父を休ませてあげなければならないと思い、父を寝かせるための布団を用意しに、隣の部屋へと急いだ。押入れを開け、父が長年愛用していた布団を取り出した。

 この布団は今は誰も使っていない。父がいなくなってから随分と日が経ってしまったので、使えるのか心配になった。私は、カビが生えてないかひと通りチェックした。どうやら大丈夫そうだ。私はすぐさま布団を抱え、父のいるリビングへと駆けていった。

 「お父さん!布団持ってきたよ!少し横になって休んだほうがいいよ!」

 あれ?お父さんがいない……どこに隠れてるの……?

 私は、父がうずくまっているせいで、何かの陰に隠れて見えないのだと思った。

 「お父さん、どこー?お父さん?お父さーん!!!」

 リビング中隈なく探したが、父は見つからない。リビングにいないのならば他の部屋にはいないだろうかと思い、壁に衝突してしまうのではないかとい勢いで、家中を走り回った。一つ一つドアを開けては、部屋の隅々まで目を凝らした。だが、いくら探しても、父の声も聞こえなければ、姿も見えない。いなくなってしまった。跡形もなく消えてしまったのだ。また救えなかった。

 お父さん、ごめんなさい――。

 深い罪悪感が私を包む。父も私も、二度と救われることはないだろう。

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