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夢迷人~飼育計画~

 私は市役所に勤めていた。公務員というと、世間からは「税金泥棒!」などと言われ、恰好の非難の対象として扱われがちであるが、決して仕事をサボっているわけでもなければ、高い給料をもらっているわけでもない。むしろ給料は大企業などと比べると格段に低く、こなさなければならない業務量も山のようにある。毎日残業は当たり前で、過労死ラインを超えることはそう珍しくなかった。過度の労働時間が積み重なり、私の体力は日に日にゼロへと近づいていったが、私に敵意を向けてくる人間がいなかったのが唯一の救いだ。誰一人として私を追い詰めてやろうという人間など存在せず、人間関係も決して悪いものではなかった。そのため、私は良い職場に恵まれたと強く信じていた。私はまだ、この職場に希望を抱いていたのだ。

 しかし、そんな気持ちとは対照的に、辺り一面の空気はどんよりしていた。色で言うならば、濃いグレーと淡いブルーが混じった暗い世界。何かに違和感を感じ、すっきりしない気持ちが心の中で渦巻いていた。曇り空よりも重く、息苦しささえ覚えた。

 そんな中、突如外勤の仕事が入って来た。私はすぐさま現場へ向かった。現場では、何かのイベントが開催されていて、身動きが取れないくらいに人で溢れかえっていた。パステルカラーのピンクやイエローが目立ち、人々の楽しい気持ちがよく伝わってくる。正直、仕事を放り投げて、私も彼らのように楽しみたいと思ったが、そんなわけにはいかない。ただ、休憩時間中なら少し楽しんでもいいだろうと思い、期待に胸膨らませていた。しかし、これが最悪な出来事の始まりだった――。


 私は先輩や上司達とイベントの警備に就いた。浮かれて舞い上がっているイベント参加者達とは対照的に、強張った表情で警備に臨む。内心、なぜこんなことをしなくてはならないのかと、少し苛立ってもいた。

 すると、先輩が一人の男を捕まえてきた。その男はかなり体格が良かった。先輩は小柄であるが、よくこんな大男を一人で捕まえることができたなと、感心した。なぜ捕まえたのかは分からないが、男に反省の色は微塵も感じられない。これから事情聴取をするらしい。一体この男は何をしでかしたというのだ――。

 事情聴取が始まった。私は、先輩が男に質問をする様子を横で見ていた。先輩が何を言おうとも、未だ男に反省の色は見られない。私は未だ、何があったのか理解できなかったが、男の態度に苛立ちを覚えた。先輩が追い打ちをかけると、男の態度はさらに横柄になり、しまいには逃げ出そうとした。

 「待て!!!」

 頭よりも先に体が動いた。私は男を止めようと必死だった。

 「逃げられてたまるか!!!」

 自分のその叫び声と同時に、私の中で何かがプツンと切れた。そこからの記憶がはっきりしない。ただ一つ言えることは、気がつくと、私は男の首を両手で握りしめ、男は息絶えていたということだけである。尋常でない形相で、周りの先輩や上司が慌てふためいている様子でいることに気づき、やっと自分がしてしまったことを理解した。それと同時に、周りの人間以上に私は取り乱してしまった。

 私は初めて人を殺したのだ。なぜ私はこのような過ちを犯してしまったのか。私はどうしてしまったのか。捕まった理由すら分からない男に、ここまでする必要なんてなかったはずだ。こんなにあっさり死んでしまうなんて......。なぜ体格の良い大男が、こんなにも簡単に死んでしまったのだろうか。人の命とは実に儚いものだ。

 しかし、そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。これからどうすれば良いのだろうか。この死体はどう処理するのか。どうやって事実を隠蔽するのか。警察にバレたらどうなってしまうのか。仮に上手く逃れたとしても、一生罪悪感に駆られながら生きていくのか。そう思うと、私の未来は絶望しかなかった。なぜ殺してしまったのか、ただただ自分を責め、自分の犯してしまった過ちにひたすら悔いた。

 だが一方で、自分の幸せはどうしても手放したくなかった。人の人生を奪ったくせに、自分の人生は奪われたくないと思うのだから、私はとんでもない悪人なのかもしれない。私は自分の幸せのために、頭をフル稼働させ考えた。

 自首をして早々に罪を償い、また新たな人生をスタートさせることと、精神的自由を諦め、一生逃げ回る人生のどちらが幸せと言えるのか。結局答えは出せなかったが、私は後者を選んだ。幸か不幸か、現場にいた先輩や上司達は、私が事実を隠蔽することに関して、とても協力的だ。

 それから私の逃亡生活が始まった。何もなかったような顔を作るのに必死だった。ただならぬ緊張感を内に秘めながら、一日一日を過ごしていった。その甲斐あってか、何も起きず、毎日が順調に過ぎていった。

 ところが、ついに警察が動き出した。男が行方不明であるという情報を掴んだらしい。私が捕まるのも時間の問題だろう、そう覚悟した。やがて警察が近くまで捜査しに来た。その瞬間、人生の終わりだと感じた。

 だが、いつまで経っても、警察が私を調べることはなかった。ある時、私は気づいてしまった。警察が私を捜査対象にしないのは、私が守られているからだ。職場の上司達が組織ぐるみで手を回していたのだ。私は組織に守られていたのだ。

 こんな出来事があって、本当は仕事を辞めたいと思っていた。だが、ここを辞めたら私はどうなる?私は一瞬にして見放され、牢屋にぶち込まれるだろう。辞めたくても、もう辞められないのだ。私はもう、組織から逃げられない。組織の力は強力で心強いものであるが、その一方で、敵に回すと恐ろしくもある。私にはきっと、もうこのまま飼い殺される選択肢しかないのだろう――。

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