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夢迷人~死後の自由人~

 私は死んでいた。なぜそうなったのかはわからないが、気づけば宙に浮いていた。体は軽く、心もすっきりとした気分だ。自分の意思さえあれば、どこへだって自由に飛び回ることができる。死とは、しばしば恐ろしいものの象徴とされているが、決して悪いものではないのかもしれない。

 今、私がいるこの場所は、天国かと思いきや、どうやらそうではないらしい。私は、この場所に見覚えがある。そうだ、生前に一度だけ忍び込んだことのある、学校の中の《開かずの間》だ。この《開かずの間》とは一体何かというと、普段、誰も使うことのない空き教室のことだ。しかも、ただの空き教室ではない。不気味な雰囲気のせいで、幽霊が出ると噂されていて、生徒は立ち入りを禁じられているのだ。いつしか誰も立ち入らなくなり、その扉が開くことはなくなった。それが、《開かずの間》と呼ばれている所以である。

 ただ、そんな噂を聞いてしまうと、どうしても気になってしまう。特別、オカルトに興味があったわけでもないが、なぜか無視することができなかった。いても立ってもいられなくなり、生前に私は先生たちの目を盗んで、《開かずの間》に忍び込んだ。

 ***

 《開かずの間》の扉を開けると、そこには異様な空気が流れていた。外から光が入るものの、薄暗く不気味で、人が簡単に立ち入ってはいけない場所のような雰囲気を肌で感じた。辺りを見渡してみると、どうやらここは備品室のようだ。そこには、もう使わなくなってしまった備品らしきものが、埃まみれの段ボール箱に入って、棚の上に並べられている。光の加減なのか、それともカビが生えているのかわからないが、散り積もった埃がモスグリーンの色を帯び、薄気味悪い森の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。

 ここは、私がいていい場所ではないのかもしれない。先生たちがこの場所を立ち入り禁止にした理由が今ならわかる気がする。今すぐここを立ち去ろう。早く立ち去らなければ――。

 ――ガタン。ガタンガタン。ガッタン!

 急に、棚の上に置いてある段ボール箱がひとりでにガタガタ動き出した。スチールでできた棚と勢いよくぶつかり、耳をふさぎたくなるような不協和音を放っている。それと同時に、周りの空気は徐々に霞んでいき、いびつで丸い巨大な影がうっすら見えてきた。次第に、その影ははっきりと浮かび上がってきて、ついに正体を現した。

 それは、巨大な顔だった。太く吊り上った眉毛で、目つきは鋭く、鼻は大きく横に広がっている。口は簡単に人一人くらい飲み込むことができるくらい大きく、一噛みで簡単に人体を貫通してしまいそうな鋭利で長い牙が生えている。頬はゴツゴツしていて、肌にはニキビをつぶした後のようなブツブツがたくさんあり、ところどころ黒く太い毛が生えている。それはとても美しいとは言えず、むしろそれとは対極にあるものだと言えるだろう。

 巨大な顔は、私の存在を確かめるように、私をじろりと見てきた。突き刺さるような眼光を前に、私は完全に怖気づいてしまった。当初に抱いた好奇心など、もうどうでもよかった。ここにいては自分の身が危険であることを本能的に感じ、一目散に《開かずの間》を飛び出した。全速力で廊下を駆け抜け、気がつくと学校の外へ出ていた。

 いつの間にか、辺りは明るくはっきりとした景色に変わっていて、人々がそれぞれ、何気ない日常を平和に過ごしているのがうかがえる。後ろを振り返ってみても、ただただ同じような光景が広がっている。巨大な顔のシルエットもなければ、嫌な空気ももうそこにはない。

 どうやら、私は無事避難することに成功したようだ。だが、果たしてあれは現実だったのだろうか。つい数分前までの私にとって、それは紛れもない現実であったが、今となっては、夢を見ていたのではないかと疑ってしまう。

 ***

 生前の私の記憶はここで途絶えている。気づけば、私は再び《開かずの間》へと引き戻されていた。しかも、幽霊となって――。生前の私であれば、真っ先に外へと飛び出して行くだろうが、死んでしまった以上、もう何も恐れることはない。《開かずの間》に対しての恐怖心は、完全になくなっていた。

 とりあえず、私は《開かずの間》をじっくりと散策することにした。相変わらず、はっきりとしない空気が室内を包み込んでいたが、静かで穏やかな雰囲気が、どこか心地良いものであると感じた。生前には味わうことのできなかった安息の時間がそこにはあるような気がした。

 棚に並べられた段ボール箱の中身が気になったが、手で掴めるくらいに散り積もった埃を払いのけるのは気が引けて、そのままにしておいた。他にすることもないので、さほど広くない部屋の中を見て回っていたが、半周とちょっと進んだそのとき、《開かずの間》から別の空間へと繋がる扉を発見した。

 霞んだ空気と段ボールで埋め尽くされた棚のせいで、今までその扉の存在に全く気がつかなかったが、そこには鉄でできたモスグレーの扉があった。窓がついていないせいで、その先に何があるのかまったくわからない。もしかすると、屍が無数に転がる不気味な暗闇に繋がっているかもしれないし、得体の知れない怪物たちがうじゃうじゃいる世界に繋がっているかもしれない。そんな地獄のような想像をしながらも、希望が待っていてくれればいいと期待している自分もいた。

 扉を開けた先に一体何が待ち受けているのか、考えても答えは出なかったが、私は意を決して重く閉ざされたその扉を開いた――。

 扉の先は、なんてことない、ただの教室だった。理科室と思われる広い空間がそこにあった。あまりにも現実離れした経験をしたせいで、想像が飛躍しすぎてしまったが、冷静になって考えてみれば、備品室の扉の向こう側に教室が続いていることくらい容易に想像できたはずだ。ごく当たり前にある光景を目の当たりにして、私は完全に拍子抜けしてしまった。それと同時に少しがっかりしている自分もいた。

 備品室の先の広い教室に入ると、今までの霞んでいた空気が嘘のように、視界が鮮明になった。教室の窓は真っ黒なカーテンで覆われていて、外からの光が遮られていたが、すでに照明が付いた状態になっていて、十分に明るかった。

 何の変哲もない日常の光景を前にして、緊張感と高揚感が完全に消え失せた。それと同時に、私は急に我に返った。自分が死んだことを思い出して、これから私はどうすればいいのか、考えることにした。

 「ねえ、私と一緒にいて」

 声のする方に目を向けてみると、そこには髪が長くモデルのようなスラッとした少女が立っていた。

 「あなたには私が見えるの?」

 「私も一緒だから。死んだの」

 「仲間なんだ......よかった。正直、一人で不安だったんだ。どうして自分が死んだのかわからないし、この先自分がどうなっていくのかもわからないし、どうしたらいいのかもわからないし......」

 「私がついてるから、心配しないで」

 「......ありがとう」

 突然できた仲間の存在に戸惑い、何を話していいのかわからなかった。聞きたいことは山ほどあるはずだが、会話は途切れ、しばらくの間沈黙が続いた。その間、遠くを見つめる彼女を横目でチラチラと見ていたが、やがて彼女から目が離せなくなっていた。上品で整った目鼻立ち、小さい顔、肉眼では毛穴が見当たらないくらいきめ細かく白い肌。その姿は、この世のものとは思えないくらいに美しく、思わず見惚れてしまった。

 「そんなに見つめて、何か言いたいことでもあるの?」

 「あ、ごめん......あまりにも綺麗だったから」

 彼女は私に背を向け、備品室の方へと向かった。彼女の頬が少し赤みがかっていたのは気のせいだろうか――。


 5分ほど待っていると、彼女が備品室から戻ってきた。

 「ねえ、何してきたの?」

 「侵入者が現れたから、追い払ってきた」

 「もしかして、あの恐ろしい顔のお化け、あなたが作りだしたの?」

 「......そう」

 「いつもそうやって追い払ってきたの?」

 「うん、私の住処を荒らされたくなかったから。奴らはいつでも自分の欲望を満たすために、人の心を土足で踏み荒らしていくの。だから、だから――」

 「ごめん、嫌な気分にさせちゃったなら謝る。ほんとごめん」

 「大丈夫、あなたは何も悪くないから......」

 今までクールに振る舞っていた彼女が、初めて声を震わせて感情的な姿を見せたことに、戸惑いを隠せなかった。彼女はきっと、今まで数えきれないほどたくさん嫌な経験をしてきたのだろう。そんなこととは知らずに、足を踏み入れてしまったことに、私は深く反省した。

 しばらくまた沈黙の時間が続いた。あまり心地のいい空気ではなかった。この空気を変えたくて、私は何か話をしようと思った。何を話そうか迷っていたが、心の中にあるもやもやとしたとした思いを彼女に聞いてほしくなった。

 「私さ、あなたが作り出した顔のお化けに追いかけられて、必死に逃げてたら、いつの間にか学校の外にいたんだ。でも、そこからの記憶が全くなくて......気づいたら死んでた。なんで自分が死んだのか、全然わからないんだ。笑っちゃうよね」

 彼女は私の話を聞いて、無言で俯いた。そして、ゆっくりと私の方を向き、どことなく寂しそうな顔で重い口を開いた。

 「......死んだこと、悔しいと思った?死んでつらいと思った?」

 「どうだろう、よくわからないや。自分が死んだことも、まだ実感わかないし。でも、思い残すことがないって言えば嘘になるかも――」

 「私が、私があなたのことを殺したの」

 「えっ......」

 彼女の言っていることがあまりにも飛躍しすぎていて、私はその意味を理解できなかった。ただ、唯一理解できたのは、彼女が本当のことを言っているということだけだ。少なくとも私には、彼女がとても嘘を言っているようには見えなかった。

 「あなたがあの部屋に入ってきたとき、『また面白半分で私の住処を荒らしに来た連中か』と思った。だけど、あなたはそんな連中たちとはちょっと違う空気を纏っていて、なんだか私と似てると思ったの。生きることにあまり希望を持っていないような、そんな感じに見えた。私と同じように、あなたも解放されたいと思ってるんじゃないかって思って......私、同じ苦しみを持つあなたとなら、素敵な時間を過ごせると思ったの。あなたと一緒にいたいって思ったの」

 まだわからないことだらけで、たくさん聞きたいことはあったが、悲しそうな顔で声を振り絞るように話している彼女の様子を見て、黙って最後まで聞いてあげようと思った。

 「私はあのとき、あの顔のお化けに化けて、あなたの前に現れた。あなたはあのとき逃げ出したって言ってたけど、本当はただその場に立ち尽くしていただけだった。無抵抗のあなたを私が眠らせて、魂と体を引きはがしたの。逃げ出した記憶っていうのは、たぶん眠っていたときに見た夢のことだと思う。でも、あなたの話を聞いてると、本当は死にたくなかったんじゃないかって思って......ごめんなさい」

 彼女は少々身勝手だとは思ったが、不思議と怒りは湧いてこなかった。それに、彼女の言っていることは決して間違ってはない。確かに、悔いが残らないと言えば嘘になるが、実際、生きることに飽き飽きしていた自分もいた。死んでからは身も心も軽くなって、決して悪い気分ではない。

 彼女は自分のしたことを悔いているようで、大粒の涙を零しながらすすり泣いている。彼女の第一印象は「クールな人」であったが、案外心の温かい優しい人なのかもしれない。

 「大丈夫。私、死んだことに対してそんなに悔いてないし、あなたのことも恨んでないから。それどころか、ちょっとワクワクしてるし。だから、もう謝らなくていいよ」

 「うん......」

 私は、彼女が泣き止むまで、優しく彼女を抱きしめた。二人とも死んでいるせいか、体の熱は感じなかったが、心の中にあるぬくもりはお互いに伝わった気がする。お互いの存在を確かめるように、長い間抱き合った。

 彼女が泣き止み、再び口を開いた。

 「私、自殺したんだ。学校の成績もよかったし、スポーツや芸術だって、何だって器用にこなして、何でもできた。自分で言うのもどうかと思うけど、容姿もいいし」

 「うん」

 「最初はみんな純粋に褒めてくれたけど、そのうちそれを妬む人が私に嫌がらせをしてきたりして、親や先生たちは私の才能しか見てないし、誰も本当の私を見てくれる人はいなかった。それが苦しくて仕方なくて、楽になりたくて、死んだの」

 「そうだったんだ。つらかったんだね」

 彼女はまた泣きそうな顔をしていた。彼女の様子を見ていると、今まで一度も、彼女の思いを受け止めてくれる人が一人もいなかったことが想像できる。

 「あなたの気持ち、ちょっとわかるかも。もちろん、境遇も違うし、考え方もまったく一緒なわけではないから、全部とは言わないけど、ちょっと共感する。私も、窮屈な世界に嫌気が差してた。楽になれればどんなにいいかってずっと考えてた。だから、死んでから身も心も解放された気分で、今はすごく心地いい」

 私がそう言うと、彼女は初めて安堵の表情を浮かべた。私はなんだかそれが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまった。

 「さっき、私と一緒にいたいって言ってくれたでしょ?私もあなたと一緒にいたいと思った。これからずっと一緒にいて」

 「うん、よろしく」

 彼女は、これ以上ないであろう満面の笑みを浮かべた。その姿は、今までに見たことのないような神秘的な光景だった。その姿を目にしたのと同時に、私の心の中に大輪が咲き誇り、その花びらの一つ一つが鮮やかな色に染まっていった。私が彼女を救ったように、彼女もまた私にとっての救世主なのかもしれない。彼女とならきっと――。

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