見出し画像

占い、気、ヒーラー、霊能など「懐疑的」な人が多いのに無くならないのは?

私はどちらかと言えばスピリチュアル寄りに生きています。
実際に不思議体験をしたことありますし、気功やレイキや占いなどを日々の生活に取り入れています。

生まれて初めての占いは多分花占いでしょう。
そしてその次は靴飛ばし占い。
小学校に入って学年で話題となった手相占いに興味を持ち、その同時期に、学校帰りに本屋さんで見つけたタロット占いの本(タロットカード付き)が、自分でも占いを始めるきっかけでした。

しかしそれと同時に、あまりスピリチュアルばかりに肩入れしないようコントロールしつつ、共存をはかる事を心掛けています。
目に見えない物に触れるときはまず最大限に疑ってかかり、参考書や実験を行ってそろりそろりと歩み寄り現在に活かしている感じです。

そういう生き方をしていて「行きづらいか・行きやすいか」と言われたら、まだまだ修行不足の私では生き辛さの方が大きいですね。

学問にしろ信仰にしろ何事でもそうですが、自分自身の揺るぎない情熱を注げるモノを一つ二つに絞り、盲目的に取り込んだ方が心は楽です。

自分の信じるものに意欲も情熱もかけて振り切り、反対となる意見や自分を揺さぶるような疑わしいモノは全て削除し、自分の好ましく思うモノに囲まれて生きる世界の方が楽で快適であるのは間違いありません。

それでもどこか中立的立場に身を置こうとするのは、「盲目的」になることが恐ろしいことだと感じているからです。


さて、話を戻しますが・・・

世間一般的には、「うさんくさい」「詐欺師だ」「そういうのって嘘でしょ」という声は後を絶ちませんよね。
スピリチュアルな世界の話や生業にしている人を疑惑の目で見てしまうのは、どちらかといえば本能的に正しい判断だと言えますし、世の中の“一般的”な人は疑問視しているのではないでしょうか。

私と同じく、エネルギー療法を生業にして収入を得ている知人も口にしますが、「自分のやっていることに嘘偽りは無いし、自信を持ってやっているけど、身近な周囲の人に“レイキヒーリングしてます”とはなかなか言えないよね~」と話していました。

原始的とも言える占いは無くならず、手を当てるだけで良くなりますよといったエネルギー療法が世間的に肩身の狭い現状ですが、それでもどうして絶えること無く続いているのでしょうか。


結論から言うと「必要な人がそれだけいるから」ですね。


画像1

どうして無くならないのか】

占いやヒーリングなどの手当て療法は、科学が発展するより随分と前から存在しています。

しかし、かの有名なブッダはというと「占い」には非常に否定的でした。

全ての行いには因果関係があり、今自分の身に起こっていることは全てにおいて「原因」と「結果」にすぎない。その先の未来を根拠も無いのに助言したりして、人の人生を脅かすのは悪でしか無い。

というような言葉を残しています。(意訳ですが)

占いの中でもタロットやおみくじのようなリーディングタイプより、数秘術や四柱推命などの数にまつわる占いは過去からの統計からきており、どちらかと言えば学問に近いとも言われています。
それでも絶対的な根拠の有無からすると、信憑性に欠けるのかもしれません。


それでもやっぱり無くならないのは、一定数の必要としている人がいるということ。

何故必要にしているかというと、私たち人間は様々な出来事やモノに「意味」を求めるからです。

色や図形に対して意味を込めてみたり、言葉や儀式に祈りの力が宿るとする意味を込める。
不幸な事件が身に降りかかる意味、苦労している意味、自分自身が存在している意味・・・など、どんなことにでもその役割や意味があるとして紐付けようとします。

意味の無いことを延々とさせられると、人はいとも簡単に病んでしまうものです。

たとえ悪口や暴力の被害に遭っていなくとも、「無意味」「時間だけが過ぎる」という場所に身を置いて一日中過ごすと精神が崩壊します。
気が遠のくほどの同じようなルーチンワークの中で、「自分の存在」「自分の役割」について少しでも問わない人はなかなかに稀なのではないでしょうか。

それとは逆に、心身共に極限状態にいるときも人は未来のことを考えてしまいます。

私は時々、登山やハイキングをしたりしていましたが、計画しているときはいけるだろうと思っていても、実際の現場でその空気の薄さや歩きにくい岩場、思いのほか自分の体力がついていかない現実に「何でこんなことしているんだろう・・・」と自問自答し、ますますしんどくなるときがあります。

禅寺で一時期修行したときも、初めのうちは「どうしてこんなことをしたんだろう・・・これって意味があるのかなあ・・・」と考え始めたりしていました。

画像2


元軍人で探検家でもあるエド・スタフォード氏は、無人島やサバンナといった場所で、服はおろか武器も持たずに現地のもので生きていけるかという実験を続けていました。
そのなかの無人島生活で、この先のことを不安に思い精神的に落ち込む場面があるのですが、「毎日、一生懸命、思考を抑制しています。何かを考え始めたら妙な独り言を言い始めるでしょう。考えることとは大きな障害になります。無人島で生き延びるには正気を保つことが重要です。精神を病んで自分を見失わないようにね」と、自分自身に言い聞かせるように語っています。


これはつまり、まだ起きてもいない未来のこと、これから起きるかも知れない未来を考えることにより、自分自身でも自分のことがわからなくなり、どうしようもなくなってしまうことを指しています。

それは人間が「言葉」を持つ故に、起きることなのです。

人がこのように悩みが尽きないのはやはり、言葉を操る生き物だからでしょうね。言葉を持つ故に、どこまでも考えてしまうのだと思います。

そうして自分自身でも解決できなくなってしまい、誰かに相談したり、スピリチュアルなものを頼ったりするのです。


不安というものは、総じて「未来」に対して思考をするから「不安」になるのです。


学習し、知恵をつけ工夫していく事のできる人間にとって、「不安」「悩み」というものは、今よりもっと悪くなるんじゃないか、願いは叶わないのではないかという、「未来予測の能力」から生み出されます。

野生動物に未来予測という能力はありません。
人間みたいに、「ああ~、あの物陰から肉食獣でてきたらやだな~」と思いながら生活はしていません。
その時、起こってから対処するのが野生動物の世界なのです。
地震の起こる前触れや、自然災害の起こる前触れに野生動物が大騒ぎするのは、未来予知をしているというよりも現在進行形で「何か」を感じているから避難しているのですね。


(因みにエド氏は、あくまで無駄に未来のことを考えてしまうのなら目の前のことに集中するために思考を止めろと言っているだけで、いじめっ子の話で“考えることを止めるな”と私が発言していたのは、分析して原因と結果を明らかにするためのもです)


次回は、目に見えないモノとの上手な付き合い方について語っていけたら良いな~。

考えていること、体験談などもっと聞きたい!という方、是非サポートして頂けると励みになります。今後の活動資金として活用させて頂きます。