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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(11)

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  真葛はなぜ『独考』を、ほかでもない曲亭馬琴に読ませたのだろうか。
彼女自身は、不動尊の思し召しだったとだけ語っている。
馬琴が下級武士の出身で、諸職を転々とし流浪しながら武士を捨て戯作者に身をやつしていることや、履物屋の婿となりつつ学問にも打ち込む一方、廃絶された滝沢家の再興を期していることを耳にすれば、わが身と重ね合わせて共感していたかもしれない。
 
『独考』が送られてきたとき、馬琴の『南総里見八犬伝』は、刊行開始から5年目に入っていた。

曲亭馬琴『南総里見八犬伝 第九輯巻五十三下』 柳川重信, 柳川重信二世(画)
出版者:丁子屋平兵衛ほか、文化11-天保13 (1814-1842)
国会図書館デジタルアーカイブ

 人間に交わり人間になろうとする犬(八房)は、身分制にしばられた江戸の大衆の上昇意欲の表現でもあり、作者自身の身もだえの表現でもあっただろう。伏姫の死ののちに登場する犬士たちは、犬の願望を昇華する存在ともいえる。馬琴の少なくとも無意識は、勧善懲悪の枠をはみだすものだった。それを真葛は読みとっていたのだろうか。

 馬琴は、先輩の山東京伝とともに、「潤筆」(執筆料)という制度を確立し、日本で最初の印税生活者の地位を確立した作家だった。そして、零細資本である貸本屋の企画と実行力による新しい読本文化の担い手として世に出ていた(『椿説弓張月』)。こうした背景は、知ればやはり真葛の関心をひきつけずにはいなかったものだろう。

 真葛の望みは、自分が一人前の人間として自立することだった。真葛はすでに「個」の自覚に達していた。だが「個」という思想が存在しない江戸期の社会では、自立には「家」という外枠が必要だった。家の枠に頼れなくなれば、その道のプロとして一家を構えるしかない。真葛には馬琴が、新しい道を切り開きつつある先行者にみえたのかもしれない。

南総里見八犬伝 第九輯巻五十三下
( 曲亭馬琴(作), 柳川重信, 柳川重信二世(画)、丁子屋平兵衛ほか(出版)、
文化11-天保13 (1814-1842))

 馬琴の側も、最初は非礼をとがめたものの、真葛が非凡な書き手であることは理解できた。そして、その後のやりとりの往復を通して真葛の経歴を知り、また他の作品群を読み、彼我の人生を重ねて共感しさえもした。
馬琴は、『独考』の内容は世の禁忌にふれるところが多く、出版は困難だ、まずは紀行や随筆を世に出し文名を高めたうえで、時機を待ってはどうか、自分も援助すると助言した。恩人の蔦屋重三郎や山東京伝が筆禍をこうむった記憶が、馬琴に慎重な姿勢をとらせていた事情はうなずける。

 だが、真葛と馬琴の関係はすれちがいに終わった。
『独考』の論評と出版斡旋を真葛が重ねて督促したことが、馬琴の何かを強く刺激した。多忙の身にもかかわらず馬琴は、『独考』全編にわたって一言一句まで批判し、全否定する異様な文章(「独考論」)を2週間かけて書きあげ、文政2年(1819)11月、絶交状とともに真葛のもとに送りつけた。真葛は、『独考』の出版を断念せざるをえなかった。

 二人は、近世の身分制社会が矛盾を抱え、新しい力を求めている点に関しては、共通認識をもっていた。だがその矛盾の克服の方途についての信念は、真っ向から対立していた。馬琴にとって儒教はすべてであり、私利私欲は滅ぼすべき最大の敵だった。そうでなければ耐えられぬ暗闇を、馬琴は抱え込んでいた。
「独考論」が、二人の対立の意味を検討する形をとらず、一方的論難に終始したことは、『独考』が馬琴の無意識にどれほどの痛撃を与えていたかを物語っている。

馬琴が八犬伝を書いた、飯田町の滝沢馬琴宅の井戸跡
旧飯田町の案内版(飯田橋2丁目4、飯田橋1丁目交差点の北東)
案内版の旧地図。馬琴宅は「現在地」の斜め左上、灰色の元飯田町の細長い区画の左下あたり?


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