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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(12)

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12(最終回)


  馬琴「独考論」は、その完全主義に似つかわしく緻密な体をとってはいるが、「教訓を旨として高慢の鼻をひしぐ」という意図を前面にすえた、真葛の文への完全な無理解の表現だった。

 馬琴によれば、真葛儒学批判は、怠惰と傲慢と浅知恵の産物でしかない。幼くして「女の本になろう」と志したこと自体が、そもそもの誤りだった。だから独善的にしかものを考えられないのだ。「さとり」などとはあだごとで、識者には笑われよう。長年ひとりで考えつめるよりも、ただ一日だけ謙虚に人に教えを乞うほうがましだ。その諭しから50年の非を知れば、それこそが真のさとりである。孔子曰く、朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。過ちを改めることを恐るるべからず。さめたまえ、さめたまえ。

 この高圧的な「論」を受けとった真葛は、馬琴によれば、つぎの丁寧な礼状を届けた。
 
 ――おんいとまなき冬の日に、ふみやどものせめ奉る春のもうけのわざをすらよそにして、こうながながしきことをつづりて、おしえ導き給わせし、御こころの程あらわれて、限りもなき幸いにこそ侍れ。なおながき世に、このめぐみをかえし奉るべし。

 その5年後の文政8年(1825)6月26日、真葛は63歳でなくなった。
 馬琴の論そのものを、真葛はどう受けとっていたのだろうか。
『独考』「独考論」を読みくらべて気づくのは、「独考論」の内容が、すでに『独考』のなかで先取りされ、批判の対象になっていることである。
そもそも『独考』が批判しようとしたのは、馬琴流の考えだったのだ。『独考』には、自著自註が行われている箇所がある。

 ――このくだりは、無学む法なる女心より、聖の法を押すいくさ心なり。・・・・・・聖に愚の勝ことあるまじけれど、聖上の人は大かた力弱く身あわし。下愚の人はなべて力強ければ、一と勝負してみたきこゝろいきあらんか。

 真葛は、負けを覚悟で馬琴に最後のひと勝負を挑み、博打を打っていたのではないだろうか。

 一方、女性の献身的助力なしには『八犬伝』を完成できず、儒教的華夷秩序の崩壊を告げるアヘン戦争の勃発まで長命した馬琴には、勝負の真の敗者は自分だったと気づく可能性もあったかもしれない。
馬琴は、真葛の回想文を書き、遺作の写本をつくり、『八犬伝』の完結に際して「回外剰筆」でその名を書き記している。真葛の仕事が後世に伝わったのは、馬琴のおかげでもある。

 真葛の死のちょうど一ヶ月後の7月26日、鶴屋南北(1755-1829)作の『東海道四谷怪談』が中村座で初演された。この芝居は、『仮名手本忠臣蔵』と一対の作品として交互に上演し、義士の世界と、そこから落ちこぼれた民谷伊右衛門とお岩の世界の両者を、ともにとらえる遠近法を示すものだった。馬琴が真葛への批判に用いた論理を覆す意味をもつ作品で、馬琴がこれを観れば衝撃を受けなかったはずはない。真葛にかわって馬琴に一矢報いた最初の人物は、南北だったのかもしれない。

東海道四谷怪談 『神谷伊右エ門 於岩のばうこん』(歌川国芳)
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 私たちには、不幸にして実現しなかった二人の対話の続き――架空の対話を思い描く自由がある。敗北とは何か。また何でありうるのか。この主題をめぐる二人の架空対話は、まだはじまってさえいない。(了)

只野真葛の墓(仙台・松音寺)*
曲亭馬琴が『独考論』の5年後に移り住んだ外神田の住居跡*


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◆参考文献

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◆著者プロフィール

野口良平(のぐち・りょうへい)
1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。

〔著書〕
『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
『幕末的思考』みすず書房、2017年
〔訳書〕
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』  みすず書房、2019年
〔連載〕
「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!

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◆著作権等について


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(編集人)


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