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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(2)

(↑現在の築地「桂川甫周の屋敷跡」案内板(中央区教育委員会)*)

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 只野真葛(1)からのつづき

 2


  少女時代に立てた志を生涯かけて追求しつづけるという、非凡な真葛まくずのあり方を育んだのは、彼女の生家であり、また時代状況でもあった。

 真葛が生まれたのは、宝暦3年(1763)。本名はあや子といい、7人きょうだいの長女だった(弟が2人、妹が4人)。
生地の江戸築地界隈には、学者や文化人たちが身を寄せ合うように居を構えていた。は、仙台藩医の工藤平助(1734-1801)。くだけた気風をもつ洒脱な知識人だった。は、仙台藩医桑原隆朝如章の娘だったが、その名はつたわらない。自分の意見をもち主張もするが、物静かで思いやりの深い人だったという。

只野真葛 系図(関民子『只野真葛』吉川弘文館に記載の図をもとに作成)**


 18世紀後半の列島における医師身分は、士農工商の序列におさまりきらない曖昧さにいろどられていた。だが平助は、その医師身分にも甘んじえない「はみだし者」気質の持ち主であり、学者・知識人から諸大名、博徒侠客、役者たちにいたる広範な人びととのネットワークを、いつしか築きあげていた。彼は一個の境界人(マージナル・マン)だった。
築地の工藤家は、さながら梁山泊の趣をたたえ、前野良沢(1723-1803)、桂川甫周(1751-1809)、大槻玄沢(1757-1827)、林子平(1738-1793)、高山彦九郎(1747-1793)のような多士済々の面々と、平助は学問流派の区分にかまわず、自由な談議に花を咲かせていた。真葛はそんな父が誇らしかった。

築地界隈。この附近に工藤平助邸があった*


こうした開放的な環境で真葛が育ったことは、地球の裏側の港町ケーニヒスベルグで育った哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)が、各人の自由と人格の尊重を基盤とした哲学をつくった事実を連想させる。

 幼少期の真葛は、母から古典教育を授かり、国学者荷田春満かだのあずままろの姪生子みこから和歌の手ほどきを受けた。知的好奇心が旺盛だったから、当然漢文にも関心をもったのだが、父平助からその勉強を禁じられた。弟の元保にはそれが許されているのに。
自由人だったはずの平助も、「女は才なきが徳」、「女の博士ぶりたるはわろし」といった社会通念からは自由になれなかったのだ。最愛の父から受けた深い傷をそれとして認め、真葛が立ち直るには、長い歳月が必要だった。

 真葛の右眼の下には、生まれつき、根が深く大きなほくろがあった。周囲の人たちはそれをみるたびに、「それは歎きぼくろ、泣きぼくろといって、不幸せの兆しだ」と言う。漢文の勉強を禁じられたのも、その兆しの現われだとでもいうのか。あまりにも理に合わないではないか。
では自分にできることはなにか。それは、「女の本(手本)」になることではないか。手本とはいっても、よそから与えられた型をなぞってみせようというのではない。むしろ、こういう女もいたっていいのではないかという、人がまだ見ぬ人間像を自ら創造し、示してみせること――これが、9歳の真葛が自ら立てた最初の志だった。

→ 只野真葛(3)へつづく
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