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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(3)

(↑ 明和九年江戸大火災図  (複製、明和九年江戸目黒行人坂大火之図  )
東京都立図書館Tokyoアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000015-00214341

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 江戸中期以降の列島では、幕府の学校や藩校だけでなく、塾や寺小屋のようなさまざまな形の学びの場が展開し、読み書きの普及率も高かった。
明治国家によって帝国大学を頂点とする教育制度が整備される以前には、学問の根を育てる場所は、政府の御用をつとめる官学(朱子学)よりはむしろ民間にあり、官学と民間学の両者がたがいに拮抗しあっていた。

 民間学の成立において重要な役割を果たしていたものの一つに、家学がある。家学とは、家の者の身ぶりや仕事ぶりを見よう見まねして身につけながら、それぞれの人が学問の根を育てる方法である。そこでは、呼吸の仕方、食べ方、排泄の仕方、行儀作法、生活のリズム、言葉づかい、さらにその家を支える職業が、まねの対象になる。儒学、蘭学、国学、芸能などの諸領域では、血筋から離れて養子をむかえながら、家を学問の継承発展の場とするやりかたがとられていた(鶴見俊輔「家学」)。

 真葛の生まれ育った工藤家も、家学を育てる場の一つであり、父平助自身、長井基孝という紀州藩医の子として生まれながら、13歳のときに基孝の友人・工藤丈庵の養子として工藤家をついだ人物だった。基孝も丈庵も、医師の身分にあきたらない志と野心を抱く点で共通しており、その気風は真葛にも流れ込んだ。
真葛は、自身を育んだ家学についてのべた『むかしばなし』(1812)のなかで、工藤家とそのゆかりの人びとの気風を、愛惜をこめて回想している。
争いごとの調停(これは蓄財のもとだった)から料理までこなした多才の平助。彼は、確実な事柄と不確実な事柄とを区別して論じることを好み、子どもたちもこぞってその流儀を身につけようとした。
古典を読み、広い世間で自分を生かす夢を心に懐いていた。その母に古典を教え、『宇津保物語』についての先駆的研究書も書いた祖母桑原やよ子。工藤家出入りの面々。その一人一人が、真葛を学問の世界に導く窓になった。

工藤家・長井家・桑原家の系図(関民子『只野真葛』吉川弘文館に記載の図をもとに作成)**

 だが、父に漢文学習を禁じられた真葛は、この世界には自分一人でしか立てない場所があるのだということを、否応なしに思い知らされた。
自分の学問や生き方は、結局自分で育てるしかない。真葛は、自分の必要にあわせて家学を再定義しなければならないことに気づかされた。
「女の本になりたい」という志を立てた翌年の明和9年(1772)月、死者1万4000人余といわれる明和の大火に江戸市中が見舞われた。

『目黒行人阪火事絵巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540911
この資料のURL https://dl.ndl.go.jp/pid/2540911/1/18


10歳の真葛は、罹災して生活が崩壊したことにくわえ、物価の高騰で困窮し、二重の苦しみを味わうことになった人びとの姿に衝撃をうけた。人はなぜ経済問題で苦しまなければならないのか。「人の益にならばや」という経世済民への思いが、真葛の二つ目の志になった。

 真葛が手にした志には、三つ目もあった。13、4歳のころ、これまで気づまりに感じられていた癇癪もちの祖母やよ子が、寺の方丈の導きで悟りを得て、人は人、我は我と思いとることができたという話をきいた。深く感じ入り、自分も悟りを開きたい、と両親に話すと、笑ってとりあわない。だが真葛は笑われても平気だった。それは志だったのだから。

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