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編集工房けいこう舎マガジン
2017年2月7日 23:45
(その1)明治34(1901)年11月30日、朝のこと。東京は神田橋の下で、電信地下線の工事(一説には、船荷の荷揚げ作業)をしていた作業員が、上げ潮に乗って川を上流へ押し上げられてゆく人を発見した。巡査を呼び、引き上げてみると、それは六十歳ほどの婦人で、すでに亡くなっていた。着物の品の良さや、小さな丸髷につけた櫛や笄(よく抜け落ちなかったものだ)から、良家の内儀らしいと思われたが、お守
2017年4月9日 14:55
→(その1)からのつづき→栗林佐知「ハンサムじゃないとだめですか かたすみの女性史」トップへ→けいこう舎マガジン トップへ→(その2)ひきつづき、足尾鉱毒事件について。 明治34年11月16日。潮田千勢子たち(この人と日本基督教婦人矯風会のことは後で述べよう)篤志の女性5、6人が、被災地を視察に訪れる。案内したのは、議会と政府に失望し、議員を辞めた田中正造だった。潮田らは、
2017年4月9日 15:14
→(その2)からのつづき→栗林佐知「ハンサムじゃないとだめですか かたすみの女性史」トップへ→けいこう舎マガジン トップへ (ひきつづき、為子の死のことを、鉱毒地救済運動の人々は何か記していないだろうか……という話) 矯風会や救済婦人会の意見ではなく、個人ではどうだろう。何か書き残してくれていないだろうか。 救済活動のエース、潮田千勢子はどうだろう。 女手一つで5人の子を育てあ
2017年10月19日 10:38
→(その3)からのつづき→栗林佐知「ハンサムじゃないとだめですか かたすみの女性史」トップへ→けいこう舎マガジン トップへ古河為子はなぜ死んだのか。 死の前日に「鉱毒地救済」の演説会へ女中を聞きにやった、という噂は本当なのか。 かんじんの為子の「遺族」は、何といっているだろう。 古河方の記録(市兵衛、養子潤吉、実子虎之助や、古河商店の番頭、混田文次郎や木村長兵衛の伝記など)をあたっ
2020年6月27日 18:30
→(その4)からのつづき→栗林佐知「ハンサムじゃないとだめですか かたすみの女性史」トップへ→けいこう舎マガジン トップへ→ (その5) 為子の来歴、“人となり”を伝えてくれるのは、今のところ、どこまで本当かわからない、当時の新聞記事だけのようだ。 為子の死から2、3日後の、明治34(1901)年12月1日、2日の萬朝報、時事新報、読売新聞、朝日新聞、東京日々新聞