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【第1話】死の声――古河為子のこと (その4)

 古河為子はなぜ死んだのか。
 死の前日に「鉱毒地救済」の演説会へ女中を聞きにやった、という噂は本当なのか。
 かんじんの為子の「遺族」は、何といっているだろう。

 古河方の記録(市兵衛、養子潤吉、実子虎之助や、古河商店の番頭、混田文次郎や木村長兵衛の伝記など)をあたってみた。
 どの本の本文にも「為子」は名さえ出てこなかった。そんな人はいなかったかのようである。
 けれど、『古河潤吉君伝』の口絵には、市兵衛、潤吉、為子と3人で移った記念写真が載っていた。キャプションにちゃんと「為子」とある。
 椅子に腰掛けた市兵衛と為子、後ろに立った潤吉。
 蒲柳の質である潤吉は、陸奥宗光の二男だ。市兵衛なきあと古河をつぐが、早世している。
「養親」である夫婦のいずまいは全く対照的だ。時代劇の「悪徳商人」さながらの貌に活力みなぎる市兵衛。上品な細面の、美しいがこの世の人とも思われないほど無表情な「老婦人」。
 
本文に為子の名前はなくとも、この本『古河潤吉君伝』からは、為子が晩年を暮らした、日本橋瀬戸物町の古河商店の間取り、ここに起居する人々の日常などがうかがえる。せめてこうした記録から、為子の毎日を想像するしかなさそうだった。

 ため子の事件前日の様子や、人となり、評判、来歴を教えてくれたのは、当時の新聞記事(二六新報、国民新聞、報知新聞、萬朝報など)しかないようだ。記事がどこまで正確か、わからないけれど。
 つまり、あのような死に方をしなかったら、為子は「どんな人だったか」まるで手がかりを残さずに消えていったのだろう。

                ***

 為子の生涯を知るには、まず、古河市兵衛のことをわかっておかねばなるまい。

 政商、古河市兵衛。
 そのモットーは「運鈍根」。根気と胆力で運をつかみ取ってきた、たたき上げの実業家だ。
 京都の貧しい家に生まれ、はじめの名を巳之助といった。継母に虐められ、心配した祖母に僧になるよう言われたが、商人を志し、子どものころから豆腐の行商をして働いた。ある日、駕籠がぶつかってきて、巳之助の豆腐を壊してしまった。弁償してくれと言うと、かえって叱りつけられてしまった。少年は誓う。
 「迷惑を掛けた方はかえっていばって行きすぎ、自分は迷惑を掛けられながら引っ込んでいなければいけない。これも自分が貧しく身分が卑しいからだ。どうか世の中へ出て名のある人になりたい」鞍馬の毘沙門さまに願をかけ、寅の日には暇をもらって欠かさずお参りに行った。
 このときの誓いを市兵衛は生涯疑わずに持ち続けたのだろう。そして、「人に迷惑を掛けてもいばって行きすぎる」人になる……。
 以後、この人は何処へ行ってもすさまじいど根性と度胸で好成績をあげるが、実に40代半ばまでは、失敗の連続だった。
 伯父の内職の高利貸しの手伝い(取り立て)を経て、南部藩の御用為替掛「鴻池屋伊助店」の手代へ抜擢され、生糸の買い付けに大活躍するが、店は取り付け騒ぎで閉店してしまう。
 次に、生糸問屋「小野組」の店員、古河太郎左衛門の養子となり、商才を認められて番頭として、またしても度胸と根性で頭角を現すも、小野組は明治政府から与えられていた特権を急にはずされて破綻。全財産を没収される。
 そして、借金して44歳で始めたのが鉱山経営だった。掘り尽くされ「廃山」といわれていた足尾銅山を買い、有能で果敢な甥の木村長兵衛を送って、職人たちをだましだまし、5年後にやっと鉱脈を発見した。
 「人は、『鉱山なんて苦労が多くて当たりはずれの大きな仕事をするより、金融などかしこく儲かる仕事をすべきだ』というが、自分は鉱山がおもしろくてならないのだ」と市兵衛は語っている。そして、
「自分は不器用で頭も良くない。だが正直に、根気よくやっていけば、どんなことでもできないことはない」
 と、つねづね語っていたという。
 また、市兵衛の親友、渋沢栄一も、市兵衛の誠実さ、一度彼のもとで働いた者は、その人柄に惚れ、誰も誠心誠意、彼に尽くさずにはいなかった、といっている。

 誠実さ……?
 そう、市兵衛とその勇敢な部下たちににとって「鉱毒問題」とは「事業の危機」だった。
“「操業停止」の危機を、足尾鉱山の住民が手弁当で参加した(給料をあげなかったのか!)「鉱毒防止工事」で乗り切った”と、古河市兵衛の伝記は、感動的に記している。その結果、被害地の惨状は、少しも変わらなかったのに。
市兵衛にとっては、自分に「迷惑を掛けられた、弁償してくれ」と訴える農民たちは、「敵」にしか見えなかったのだろうか。

(つづく)
author:栗林佐知

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