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栗林佐知「かたすみの女性史」第1話 死の声――古河為子のこと (その2)

(その1)からのつづき
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(その2)


ひきつづき、足尾鉱毒事件について。

 明治34年11月16日。

潮田千勢子たち(この人と日本基督教婦人矯風会のことは後で述べよう)篤志の女性5、6人が、被災地を視察に訪れる。案内したのは、議会と政府に失望し、議員を辞めた田中正造だった。

潮田らは、朝一番の汽車で上野を発ち、古河(こが)の駅から人力車で思川と利根川の合流する地点まで来た。

堤防の上から一行が見たものは、一面の葭の沼。聞けば、ここはもとは麦と菜種の畑だったのが駄目になり、桑や柳を植えたがそれも育たず、仕方なく葭を植えたが、この葭ではもろくて屋根も葺けなければ、簾も編めないという。

村に入ると、会う人会う人、青白いやせこけた顔をして、襟元がすり切れ垢で光ったボロのような着物をまとっている。農業も漁業も成り立たず、着物も家財も片っ端から売ってしまったという。

ほんの10年前までは、穀物や野菜を作ってなお地力が余り、菜種や藍までたくさん作り、遠方から千円、2千円と大金を抱えた人々が買いに来ていた。渡良瀬川で獲れる川魚を扱う問屋も大繁盛で、鯉やナマズ、鮎を、何貫何百匁と桐生や足利へ売りさばいていたのに。そんな豊かだった人たちが、今は破れたマッチ箱よりひどい家に住み、胃を患い、動ける者がようやく炭俵を編んだり機を織ったりして、1日4銭5厘~6銭といった額を稼いで食いつないでいた。

このありさまは、同行した毎日新聞の松本英子(筆名:みどり子)が迫力ある筆致でレポートし、11月22日から毎日新聞に連載された。

そして潮田千勢子たちの被災地訪問から2週間後の11月29日、東京神田の青年会館で、矯風会の慈善演説会が開かれる。主なテーマは、鉱毒地の現状報告と救済よびかけだった。

1000人もの人が詰めかけ、立錐の余地もないありさま。視察してきた女性たちをはじめ、現地をよく知る毎日新聞記者の木下尚江や、牧師の中村直臣、基督教社会主義者の阿部磯雄らが、その惨状を切々と訴え、救済の急務を説く。

会場はすすり泣きと鳴りやまぬ拍手に包まれ、「鉱毒地救済婦人会」の発足が決まり、たくさんのカンパがよせられた。中には、お金がないからと、やおら服を脱いで渡す学生(河上肇、後述)もいた。

古河為子が、神田川の上げ潮に乗った水死体で発見されたのは、その翌朝だった。

為子は、この演説会の会場に、女中を聞きにやらせて被災地の実態を伝え聞き、心を痛めたという(『キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版、1987年ほか)。

***

為子はどんな人だったのか。

その素顔に近づき、できれば肉声を聞きたい。常日頃から、鉱毒について身近な人にもらしたりはしていなかっただろうか。

まず、戦後に次々出版された、足尾鉱毒事件の研究書や解説書をいろいろ読んだ。いくつかの本に為子の死のことが書かれていたが、どれもほんの2行ほどで典拠もわからなかった。

そもそも、「為子が演説会の内容を聞いて衝撃を受けた」というのは、誰の証言だったのか。

当時の新聞記事によると、為子は、神経の病を患っており、それが悪化していたので、普段は大磯の別荘で過ごし、月に1,2度、当時の神経医学の最高権威である三浦謹之助博士、岡本武次医学士の診察を受けるため上京していたという。亡くなった明治34年の11月も、中旬に東京へ戻ってきていた(朝日新聞・時事新報〈以上、明治34.12.1付〉、万朝報・読売新聞・東京日日新聞・報知新聞・二六新報〈以上、明治34.12.2〉)。

死の前日には、数紙(国民新聞12月1日、東京日々新聞12月2日、二六新報12月2日)が、為子は体調も良く、楽しげだったと記している。気に入りの看護人、木村トク(足尾銅山創業の大功労者、木村長兵衛の未亡人)と一緒に上野池之端から公園を散歩し、絵画展覧会を見て、日本橋瀬戸物町の古河家へ3時頃帰宅。

それから和歌の友だちが訪れ、楽しくお喋りをしていた、歌の師匠である鶴久子(当時、あの中島歌子とならぶ「女流歌人の双璧」といわれていた)の1周忌がくるので、その相談をしていた……と、萬朝報は詳しい。

マグロの刺身で夕食をとり、夜10時頃、床を取ってもらって寝た。

そして午前3時~4時ころ、看護人が気付くと為子の布団がもぬけの殻になっていた。厠かもしれないと、声を掛けてみたがいない。探し回ると、勝手口の錠前が開き、下女の下駄がなくなっていた。部屋を見ると、着物がなくなっている。家内は大騒ぎとなった。

 ……しかしどの新聞も、この夕方に神田美土代町も青年会館で開かれた「鉱毒地救援演説会」のことは書いていない。

中央新聞(12月1日)には、為子には普段から「そめ」という40歳の下女が従っていたと書かれているが、この人が、演説会へ遣わされたとは書かれていない。

***

では、当の11月29日演説会の主催者たちは、為子の水死事件を、どう記録しているだろう。

まずは、最も熱心に被災地の人々と接し、その救援に働いた、日本基督教婦人矯風会の女性たちに聞いてみよう。

その前に、この基督教婦人矯風会とは何かというと……。アメリカで起こった主婦たちの禁酒運動(夫たちを飲んだくれの怠け者の暴力亭主にした「酒」をこの世から撲滅すべし、と手斧〔ハチェット〕を振り回して演説するハチェット夫人が有名)を担ったことに始まる女性団体だ。それが文明開化の日本へ輸入され、矢島楫子(やじまかじこ/徳富蘇峰・蘆花の伯母)や潮田千勢子(うしおだちせこ)など、主に旧士族階級の、概ね「家」の中で苦労してきた女性たちが結集、社会に向かって様々に女性の地位向上を訴えてきた。

(矯風会のめざましい勇敢な働きの数々を、鹿野政直『祖母・母・娘の時代』〔岩波ジュニア新書〕で知った時は、胸がときめいた。70年前に終わった戦争の際は、翼賛政府のお先棒を担がされたが、現在もなお、差別や貧困など酷い立場に追いやられる女性の問題に取り組んでいる、心強い団体だ)

1987年発行の『日本キリスト教婦人矯風会百年史』(ドメス出版)にある「古河市兵衛夫人は侍女を出席させて伝え聞き、神田川へ投身自殺した」という記述は、前後の文から、木下尚江の証言をもとにしているようだ。

もっとじかに、「鉱毒地救援」のために働いたあの女性たちの肉声を聞いてみたい。

明治34年当時に発行された、婦人矯風会の会報「婦人新報」をあたってみる。…… だが、毎月25日発行のこの機関誌、現存するどの号にも、為子のことは出てこない。

 11月29日から一番近い12月25日発行の第56号には、11月16日の鉱毒地訪問記と、鉱毒地の母子、病人が婦人救済会に迎えられたという報告のほか、演説会のことは「非常の盛会にて無慮千有余名にも上りたりき」とあるものの、「雑件」の欄にわずか9行で片づけられている。

次の57号は欠損本。『復刻版「婦人新報」』には未収録。国会図書館でマイクロフィルムの原物を見ると、所々敗れ残ったページに鉱毒地訪問後の救済活動の報告が見えるが、29日の演説会開催の記事の次は、すぐ、別の話題に入っている。

それにしても。

昔の文章だから仕方ないが、当時の「婦人新報」のコチコチと事務的な文章の前で、なんだか呆然としてしまった。行動的で魅力的な人が、文章を書くと味も素っ気もなかったりするのは、まあ、よくあることかもしれないが。


(その3)へつづく
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