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栗林佐知「かたすみの女性史」第1話 死の声――古河為子のこと (その3)

(その2)からのつづき
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(ひきつづき、為子の死のことを、鉱毒地救済運動の人々は何か記していないだろうか……という話)

 矯風会や救済婦人会の意見ではなく、個人ではどうだろう。何か書き残してくれていないだろうか。

 救済活動のエース、潮田千勢子はどうだろう。

 女手一つで5人の子を育てあげ、60歳(為子と同年代なのだ! 当時ならもう「お婆さん」だろう)とは思えない、行動的でいきいきした目をしていたといわれる潮田千勢子。その公平で廉直な人柄を、田中正造に最も信頼されていたが、ものを書き残すにはあまりにも忙しすぎた。

千勢子は、被災地の子どもたちを会の施設「慈愛館」にひきとり、講演に走り回り、物資を積んで被災地に通い、仏教青年たちと連繋して診療所を作り、議員にビラを配って警察に呼ばれたり。あたう限り駆け回り、「鉱毒地救済婦人会」の発足の日(つまり為子の死の前日)から1年半後には、ガンで亡くなってしまうのだ。

 田中正造の切れ切れのメモからは、鉱毒地救済に駆け寄った人々の熱が、どんどん冷めていったこと、矯風会内での「離間」などが伺える。

時代は、富国強兵の先の日露戦争へと向かっており、人々は浮き足立っていた。

そんな時代背景にも況して、「会」の人間関係も良くない方へ流れていたようだ。人望のある潮田が新会頭に選ばれたのを、快く思わない人たちがいたようなのだ。なんと残念なことだろう。

 いずれにしろ、彼女たちが為子のことに触れている文を、私はまだ見つけられずにいる。

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 では、もう一人の重要人物、田中正造に聞いてみよう。

 田中の日記(『田中正造全集』に所収)は、ちょうど明治34年9月24日~36年1月1日のものが見つかっていないらしい。書簡も、明治34年11月15日~12月3日の間のものは載っていなかった。

無理もない。この為子の死の10日後、田中は有名な「天皇直訴」を決行するのだ。殺されるのを覚悟して、儀仗を整えた天皇の行列に「お願いがございます」と掛けよる。……そして「頭のオカシイ人」と片付けられてしまう。

 為子の死の当時を知る人の、一次証言が見つからない。と、ぼやいていたところへ、当時通っていたジャーナリスト文章教室の講師で、女性史家の江刺昭子先生が、「河上肇の『自叙伝』をご覧なさい」と教えてくださった。

 『貧乏物語』で有名な経済学者、河上肇(太平洋戦争中は獄中にあった)は、演説会の夜、服を脱いでカンパしたあの感激屋の学生だった。

 木下尚江が、35年後(67歳)、何かの用で、未知の経済学者、森戸辰男にあてて書いた長い手紙に、あの演説会の思い出を記しているのだが、それが河上肇の『自叙伝 五』に収録されているのだ。木下の手紙の中に、服を脱いでカンパする若き日の河上が登場することから、その内容を知った人が、河上にみせてくれたらしい。

 木下尚江は書く。

《更に意外な出来事は、古河市兵衛夫人の自死でした。婦人はかねて神経衰弱で寂しくしていたそうですが、この夜の集会へ窃かに侍女をやって見聞きさせた結果、その夜神田川へ身を投げたのです。》

 また、田中正造全集を読み進むと、こんな書きつけがあった。8年後の明治42年のものだ。

 この頃、すでに70歳近い田中は、蓬髪を振り乱し、被災地を駆け回っていた。鉱毒問題は、いつの間にか下流域の「治水問題」にすり替えられていた。被災地の村々が、遊水池の下に埋められようとしていたのだ。

 この頃の田中の書き残したものは、ちゃんとした日記ではなく、紙きれに、思い出すままの走り書きである。

《市兵衛の勢力は全国を制圧して 官民市兵衛の前に屈せざるものとては少なかりき。然るにも不拘(かかわらず)、此人の妻は冷ややかなる家庭の苦悶に病んで快々楽しまざりし》

その証拠は・・・

《去ル34年12月、矢島潮田両女史が鉱毒被害民惨状の演説を此青年会(館)にて開会するとの声高きためか、其の広告を見られたためか、市兵衛の妻は 竊かニ下女をこの青年会館に遣わして、矢島潮田二女史の演説の様子を窺わせた。二女史は泣きて被害民の飢え且凍ルありさま、女子や子供の飢えたるありさまを泣て聴衆に訴へたのを、下女も耐え得ず泣へて奥様ニ告げたるよりして、病ハ忽ち重り、神経病を病まれてにや苦痛煩悶、其の翌日は身投げとやらして死なれたというハ うそか真か、誠に憐れの次第です。世に神はないと云ふものあれども、誰カ此因果を 》

 救援活動をする人々の間で、「嘘か誠かわからないが、為子の死は“演説会を聞き、自死した”ものらしい」と認識されていたことは確からしい。

 今のところ、この木下尚江と田中正造の「回想」がもっとも有力な当事者の証言のようだ。

(その4)へつづく
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