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人の努力の正体

おはようございます、ホテル生活が終わりに近づきうっすらと涙が流れるとらです。

今日は昨日から続いた内容になっています。
まだ読んでない方はこちらから読んでください。

人の努力は見れるが…

前回の話をサラッと言うと、「センスや才能で全てを片付ける人が多いよね。いつから努力しているを想定しなくなったの?」と言う話をしました。
そんな僕自身は人の努力を見ることが出来ているのかということを話したいと思います。

結論から言うと、僕は人の努力は見ることができます。
それまでの過程を見て、どこで苦労したのか、何にこだわったのか、そう言う話を聞くのは好きです。
しかし、過程の努力量と比例しない結果を見せられることがあり、努力の評価はできません。
もちろん、純粋に凄いと思い、感動することもあります!!

途轍もなく性格の悪いことを言います。
「それくらいの結果」ならすぐに真似できると思います。場合によっては、超えるものを作ることもできるかもしれません。
素人の背比べだと思って聞いてください。

相手が時間をかけて作ったものを短時間で再現されることで、自分と相手の比較をし始めて、その現実を受け入れる手段として「才能」や「センス」という言葉で片付けてしまうのではないか?とも考えますが、それにしても、逃げ道に頼りすぎだと思います。

自分がだらけている時、そいつはバットを振る

昨日も言ったこの言葉、結構好きで、休んでいられないと奮い立たせてくれます。
普通の休憩でも何か持ち帰れるものはないかとヒソヒソ考えています。本当に小さいものから、人と話すことで得る大きい収穫まで幅広いです。

大きいものはこのノートや何らかの形でアウトプットしていますが、ノートに書くようなものでもない小さい話はいくらでもあります。

お店の照明の配置に何か意図があるのか?
自分はなぜ、その曲が好きになったのか?
メニューを見て美味しそうと思った要素は何か?

などなど、何かしらに疑問を持って考えることが好きなので、暇な時はそんな暮らしをしています。
疑問を持って、自分の中で納得した仮説を出して、自分のやっていることに転用できないか考える。その積み重ねが、相手にとって自分との差になるんだろうなぁと思っています。

矢印は自分に向いているか、相手に向いているか

書いてて思ったのですが、努力の評価は「センス」や「才能」などの言葉で置き換えられているのでしょうか?

もっと言うと、「センスを磨いたね!」「才能を開花させたね!」だと努力した感じが伝わります。
それとは裏腹に、「自分なんてどうせ、何もできないヘンテコですよ」という演出のために「才能」や「センス」を使っている人がいる。

きっと僕は後者に腹を立てていて、相手を褒めているようで自分の演出をする表面的な使い方が気に入らないのだと思います。

何となく、「センス」や「才能」で片付ける人が嫌いな理由が自分の中で出ました。

人の努力を、自分の悲観の演出に利用するな!

そういう「私なんて…」で矢印を何としても自分の方に向かせようとする、そして、皆が心配して慰めてくれることに満足している悲観的自己中が嫌いなんだと思います。
先ほど、人の努力は評価できないと言いましたが、この「人の努力」とは悲観的自己中の努力のことだと思います。

そりゃあ、慰めてもらって満足している人の努力量はそんなもんだよねと感じてしまうんだと思います。
純粋に相手を褒めたら、自分ももっと頑張ろう!って思える人が好きです。

自分の中で結論が出たので、ここら辺で終わりたいと思います。
置いて行っていたらすみません。

最後まで読んでいただきありがとうございます!
良い1日を!

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