【小説】過

木内麗架様

 御手紙を拝読しました。安田から私の生家に送られ、それから自宅へと転送されたようで、私のもとへ届きましたのは五日前のことでした。御返事が遅くなってしまったことをまずはお詫び申し上げます。
 まさか木内のお嬢さんの名前を知る日が来ようとは、思ってもみないことでした。これから綴る私の過去は、面白いものではないことでしょう。貴女はおそらく、多くの時間を費やして私を探し、便りをくださったのだと思います。切実なお気持ちが文面から伝わって参りました。私は、貴女の誠意にお応えしたく思い、当時のことを精細にお伝えすることにしました。けれど、読み飛ばして頂いてもかまいません。破り捨てた方がよろしいのかもしれません。私は貴女の期待に応えることができないのです。
 私の知る貴女の母親は、快活で美しい人です。私と木内は学部生の頃、近世史のゼミで出会いました。木内はとても髪の毛が明るかったので、最初は話す度に身構えていたのですが、そのうちすっかり慣れました。分け隔てなく話をする人で、飲みに行くときはほとんど木内の発案でした。仲間のうち何人かは確実に木内に片想いをしていたと思います。その実、私もそうでした。木内と、上島先生から言い渡されたゼミの雑用をする時間が、当時の私の唯一でした。サークルに入らず、真面目に単位を取りながら、塾で講師をして過ごした私の地味な学生生活の中で、木内と馬鹿笑いをした記憶だけが華やかに、鮮明に思い出せます。
 もう十五年も前のことです。
 貴女の手紙を読んで木内が私に好意を寄せていたことを知り、本当に驚きました。今でも信じられません。そう思うにも理由があって、何しろ、私は当時、木内に振られているのです。
 二十歳の秋の日のことでした。私と木内は一緒に帰っていました。外濠沿いを二人で歩いて、左を見たら、木内の瞼がきらきらと光っていました。甘い香りがしました。金木犀であったのかも知れません。
 夕暮れの牛込橋で、私は、人混みに紛れかけた木内を呼び止めました。平日の夕方、JRの改札前は人がごった返していました。
私は木内に告白をしました。とても緊張していて、木内がどんな顔をしていたのか見ていません。ゼミには優秀な奴がひとりいて、帰り道にそいつの話ばかりしていたからでしょうか。私は衝動で告白しました。道の真ん中で立ち止まったから、何度も人にぶつかられました。
 そのとき、木内は、「唇の形も知らない相手をよく好きになれるね」と言って笑いました。そうしてさっと後ろを向いて、そのまま行ってしまいました。引き止めていたらよかったのに。木内の白いスカートが左に右に揺れて、やがてなくなりました。
 その時に私がくらった衝撃たるや。お嬢さんは想像もできないことでしょうが、当時は感染症が大流行し、人々は常にマスクをつけて過ごしていました。「密」だなんて言葉が流行って、マスクをつけていないと店にも入れず、透明なプレートを通じて食事をするのです。日本中が潔癖でした。そんな時代があったのです。そんな時代に私たちは大学生であったのです。
 私は時風に気後れして、自分から木内を食事に誘ったことも、指先に触れたこともありませんでした。彼女はそんな私を茶化したのです。若かった私はいたく傷つきました。嫌いだと言われた方がずっとよかった。彼女は文学的な人でした。
 私は木内を避けるようになりました。恥ずかしくてたまらなかった。ゼミに行かないで、ゼミ長の仕事は教授室に伺って行いました。上島先生はよくしてくれたのですが、授業に半分出席しなかったので単位はくれませんでした。級友よりも一年長く研究をして、結局私は大学院まで進学しました。その間、一度も木内に会うことはありませんでした。
 木内が大学を中退したことを知ったのはずっと後になってからです。同窓会の日に、ちょうど安田から聞いたのです。中退の理由は噂で聞きました。でも、貴女のことも、貴女の父親のことも、まさかと思っていました。愚かなことです。貴女の御手紙を読んで、貴女が中学三年生だと聞いて、ようやく全てほんとうなのだと知りました。そのあとに起こったことも。何度を読み返しました。知ったけれど、わかったけれど、受け入れ難いものです。木内と帰った外濠の桜並木や、谷崎の展示会へ行った在りし日の光景が思い出されます。私の記憶の中の木内はどこまでも無邪気で美しい女の子でした。彼女が今、この瞬間にも、病床に伏していることがとても信じられません。
 時代が、何かが、違ったなら。木内と共に歩んだ未来があっただろうかと考えますが、もうどうしようもないことです。
貴女の御手紙を何度も読み返しました。何度も考えました。貴女の気持ちはよくわかります。貴女が、木内がどれほど愛を込めて育てたお嬢さんであるかわかるようでした。貴女にとって木内が、どのような母親であったかがわかるようでした。ひとりで育ててくれた母の望みを叶えたいと思って、どこにいるかもわからない男に手紙を出すことにした貴女の気持ちを、私はわかっているつもりです。
 わかっています。けれど、私は病院にはいけません。木内が私に会いたがっているとしてもいけません。いえ、本当は、私が二十歳のあの日をやりなおしたくなってしまうことが恐ろしくていけないのです。
 木内の顔を見たら、私は今度こそ手を握って、彼女への後悔を溢してしまうでしょう。木内の中に自分がいたこと、木内も私と過ごした日々のことを愛しく思っていてくれたことを思うと、苦い思いがおこります。若く幼い愛情は未だに、私の心に残っています。
 しかしそれは破滅への足掛かりです。私には妻がいます。一昨年に式をあげ、今は妻の郷里で暮らしています。妻は私のことを信じています。一途な青い感情だとしても、過ぎた十五年はあまりにも長かった。私の返答は、貴女たち親子を脅かすことに繋がります。心の内に留めなければならないことです。
 私と木内は過去にしなければなりません。今や私たちの生は、私たちだけのものではなくなってしまいました。貴女には理解のできないことかもしれません。納得できないのが自然です。私は最低な自分本意で、それゆえに木内の思いを無下にするのです。そして幼い貴女に私の悔恨を背負わせるのですから。木内には、私を非道い男であったとお伝えください。
 一刻もはやく木内が快方に向かうことを、心から祈っています。お嬢さんもどうかご自愛ください。

2036年10月

門倉志馬

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