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四国のひとに聞いてみる! Vol.6〈一色眞由美 氏〉 -芸術に今、これから出来ること-

今回は愛媛県松山を中心に活動されているコンテンポラリーダンサーの一色さんにお話を伺いました!


一色眞由美 氏(コンテンポラリーダンサー)
〈プロフィール〉
日本女子体育短期大学卒業後、アキコ・カンダはじめ都内の稽古場で学ぶ。1972年に今治にてモダンダンスグループ・ユーを創立。
グループ公演他、屋内外で異なるジャンルのアーティストとコラボ。

1977年~‘78マー サ―・グラハムコンテンポラリーダンススクール(NY)に留学。その後、日米を往復。「サウスストリート ダンスカンパニー」(PA)ケイ・タケイズ「ムーヴィング アース」に所属。自主デユオ公演(NY)を開催。「イベントオブアースプロジェクト」(NY)に参加。

帰国時には、グループ公演やワークショップを県内外各地で続けると共に、海外アーティストのプロデュースを手掛ける。
1989年異なるジャンルのアーティストで、総合実験芸術体「舞遊天」共同創立。
ダンスを核とした作品を松山市と北九州市で上演(代表・㏇芸術監督)
2005年より長年続けてきた グループ活動や、ダンス教室を閉じ、ソロ主体に。 支援会「冬青」発足により主催公演「触光」始め「2007ダンス白州」「風のおどり座」松山、東京、京都、愛媛久万町等で多様なジャンルのアーティストと踊り続ける。7年間の舞台活動休止の後、2016年より活動を再開。以降多様な音楽家とのコラボを重ね、現在に至る。

- 一色さんのこれまでと現在の活動、四国での活動を教えてください -


子供の頃から歌うこと、詩を書くこと、踊ること、兎に角表現することが好き…というよりも必要だった気がします。一番自分らしく自由でいられたような。踊る私の原点です。

当時には珍しくレコードをかけて即興で踊らせて下さったバレーの先生と出会い、踊る楽しさを知り、高校ダンス部では創作の面白さに惹かれ、日本女子体育短期大学(舞踊専攻科)へ入学しました。

卒業後は多様なダンスに触れるべく稽古場を巡り、いくつかの舞台経験を経て(舞踏にも触れ衝撃、体の奥深く影響を受けました)帰郷。後に神野先生率いるEMD(愛大拠点)に所属後、活動の場のなかった今治にモダンダンスグループ・ユーを創立しました。

第一回グループユーの今治公会堂公演にはEMDの皆さんと東京の友人ダンサーが作、出演で友情参加してくれました。
演劇関係の友人が集めた若いプロスタッフ達が、「地方から純粋な作品を」とのコンセプトで東京から顎足(食費・旅費)のみで来県、合宿し、共に舞台創りに真摯に関わって頂き、舞台創りの基本を学び、苦しくも楽しい充実した時代でした。また、地元大学の演劇部の方たちも裏方として協力、後頼もしいスタッフになってくれました。
以降高知市や東京の友人ダンサーも作、出演参加、私もまた彼らの公演に、という交流が続きました。

当初より、平面舞台に捉われない空間創り、観客と出演者が移動しながら観ることや、群舞やソロで、音楽、現代美術、演劇とのコラボ等、屋内外での実験的ダンス活動を始め、全国合議体「アーティスト・ユニオン」愛媛県日振島でのイベントに高知の友人と参加、1977年~‘78マーサー・グラハムコンテンポラリーダンススクール(NY)に留学後、数年に渡り日米を往復し、帰国時には、グループ公演やワークショップを県内外各地で続けると共に、海外アーティストのプロデュースを手掛け、その際、日本の武道にも触れてもらいました。

1984年にはADF東京が日本で初めて開催され、その一つの企画である集中講座が大阪と愛媛において(2泊3日)実現しました。
講師のケイ・タケイさんとのご縁でグループの荒川香代子と共に、四国開催委員として関わり、半年近い準備により6人の講師と100人近いダンサーが四国4県より今治市玉川町に集まり、舞踊医学はじめ、多くの刺激を分かち合いました。(現代舞踊協会四国支部長 檜先生はじめ、多くの方に協力を頂きました)

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※ADF東京の企画で行なわれた愛媛での講座パンフレット


1985年にはケイ・タケイとムービングアース来日公演を松山で、またワークショップを重信川河川で開催しました。

モダンダンス一般、児童指導に当たっては、各自の癖を見分けニュートラルなカラダ=個性に戻すことに留意、体遊びから即興ダンスを経て、全員が自分のソロ作品で公演、又他団体のミュージカルの振り付けなども行ってきました。

2005年からは、ダンサー、ダンス指導者として、場所作りを同時にやることが難しくなり、若い方たちも各々で活動し始めたことで、はじめた時と同じく、いちダンサーになりました。

支援会「冬青」発足により主催公演「触光」始め「2007ダンス白州」「風のおどり座」にて愛媛他、東京、京都、で多様なジャンルの音楽家と踊り続けていたのですが、個人的事情で7年間の舞台活動を休止したんです。

2016年より高知市でダンサーとしてV・タロネン作品に出演し、再出発。改めてこの年で現役ダンサーとして復帰することは本当に勇気がいりました。以降は群馬県富岡市、愛媛県松山市、西条市で多様な音楽家とのコラボ公演を重ね現在に至ります。

私はダンスから沢山のことを学び続けています。
この自分は3次元にだけ存在するのか?(20代、本番中のある瞬間、確かに本当の自分が数メートル上にいた個人的体験による)
イ・マを生きるとは・・・(瞬間と永遠もしくは瞬間と持続)
個と全体(カラダと細胞・個人と社会・日本と世界・地球と宇宙 etc)

2005年以来、ダンス活動は一色支援会「冬青そよご」によって支えられ行っています。

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※2018年にシアターねこで行なわれたダンス公演「触光Ⅲ」フライヤー

生業としては、探究してきた呼吸法を取り入れたB(body.breath.being )エナジー・ストレッチクラスを定期的に行っています。
ハンドヒーリングワークの一つであるクゥンタムタッチの個人セッション、
老若男女問わず参加できるグリージングワークとカラダと向き合うワークショップ等も不定期に県内外で行っています。


-コロナウィルスによる影響をどう捉えていますか?また、ご自身の活動への影響は出ていますか?-

長年にわたり様々な創造活動と教室を続けてきましたが、公民館等が閉鎖の為4月からストレッチクラスがほぼお休み、個人セッションも出来ずです。

この様な長期間の休みは初めてです。まして外的要因では。収入が伴わない年中無休のアーティストにとって本当に厳しい現実!実は、十年ぶりの東京での作品発表の中止や辞退をすることになりました。

今までも大きな挫折と絶望感から辛うじて踊りの火種を消さずに来れたのは、ひとえに周りの人たちのお陰でです。あらためてこの安全な国と地域、また、周りの人たちに生かされてきたことを再認識しました。


- この状況下に置かれた芸術(舞台芸術)がなせることは何だとお考えですか? -


舞台活動ができるのは、平和であること、自然災害の影響を受けていないこと、経済を含め国が安定していること他、様々な条件が揃っているからですよね。個人レベルでは、舞台作り他協力者、観てくださる観客、身体表現者であれば、表現できる程度の健康、最低限の生活と勉強や作品創りができる環境、特に継続的に使用できる稽古場。加えて活動や発表の核となる劇場があることでしょうか。

とはいえ・・・どの様な状況下に於いても、人はパンのみにて生きるにあらず。良い芸術は魂を喜ばせます。生きる力が湧いてきます。細胞が活性化、免疫力も上がるでしょう。
いつか来るコロナウィルス終息の日の為に、今出来る事、他者を助けられることがあればささやかでもそのことと、同時に創造の種に栄養を与えることが出来ます。例えば瞑想や感性を磨く、読書、そしてじっくりと自分の心と体に向き合うことですかね。

東温アートヴィレッジのこの様な試みもそのひとつですよね。

話は少し変わりますが、30年程前は、松山にも近郊にも小舞台はなかったので、借りていた私設の稽古場の天井に照明機材を取り付け、100席弱の仮設の階段式客席を大工さんにお願いして小劇場をつくりました。
大きなホールでは、年に一回がやっとの公演が、ソロ作品や少人数での公演、又連続数回の公演することで、出演者も作品が成長する機会をもてます。

アーティストや作品、そして観客の方々も育つ空間として小劇場の存在の意味は大きい。「シアターねこ」や「シアタ-NEST」を核として、この困難な時代を超えて老若男女の舞台活動者達が活躍できる環境が整い、力強く再出発出来ることを心から願っています。


- 愛媛/四国での今後の活動を教えてください -

私事ですが、3月はじめに小さな作品発表が中止、7月も東京の劇場主催の「国際舞台芸術祭」に小さなソロ作品で参加することになっていましたが、現状を鑑み、自粛辞退。残念です!
松山では出来れば年内に地元の音楽家とのコラボなどで公演を考えています。

5月の自然は空も山々も花達もため息がでるくらい美しい!
これを機に、歩をひと時止め(コロナウィルスと生活者を支える方達に頭を下げ)、俯瞰し、何かを気づき、学び、新たなより良い世界が、どの人にも訪れますように!そう祈っています。

一色さんありがとうございました!

インタビュアー:田中直樹(東温市 地域おこし協力隊)
 

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