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恩愛〜005〜ショートストーリー

 男は帰宅するとコートのポケットから小さな箱を取り出し、リビングのテーブルの上に置いて、そのまま妻が待つ寝室へと向かった。
「おかえりなさい」
 ベッドの中から妻が声をかける。若くて綺麗な顔立ちだが、いくぶん青白い顔をしている女だった。
「どうだい調子は?」
 優しい口調で男が答える。男は妻の顔を覗き込みながら、ゆっくりとコートを脱いで壁のハンガーにコートをかけた。
「うん、あいかわらず」
 笑顔を見せる妻に男が微笑む。
「無理するなよ」
 男はそのままベッドの隅に腰掛けた。しばらく、とりとめのない話をしたあと、妻が眠りにつくのを見届けてから男はリビングへと移動する。
 ソファに腰を下ろすと、すぐに目の前の小さな箱を手に取ってみる。
『効果は24時間、1日1錠。9錠以上の服用は効果がありません。使用方法は付属のペンでビンのラベルに希望する薬品名を記入すること』
箱にはそれしか書かれていない。男は箱を開けて中身を取りだした。出てきたのは茶色い色をした小さなビンと小さなペン。そのビンには白いラベルが貼ってある。無記名、そこに薬剤の名前は書かれてはいなかった。
 男はビンを開けて中に入っているビニールを指先で取りだし、中の薬の数を数えてみた。薬は9錠あった。男が大きくため息をついた。
「どうすればいいのだろう……」
 そう言うと、男は右手でビンを握りしめ、もう一度大きなため息をついた。いくら考えても結論が出せなかった。
 それは妻の体調がすぐれないと言うので、2人揃って病院に行ったときのことだった。医師の宣告は癌。肺から始まり、すでに脳にも転移しているということで助かる見込みはなかった。余命は1ヶ月。医師はホスピスに入ることを進めたが2人は断った。妻が「最後は家で死にたい」と強く望んだからだ。
 男が顔を上げて時計を見つめる。深夜1時5分。かれこれ3時間は薬を前にして考えていたことになる。室内の気温もかなり下がってきた。
「もうすぐ起きる頃だな」
 男はビンのラベルに付属のペンで『回復薬』と書いてフタを開ける。そして中から1錠を取り出すと、すぐにフタを閉めた。ビンのラベルから回復薬の文字が消え、また元の真っ白なラベルに戻った。男は寝具に着替えると寝室へと向かった。案の定、妻が苦痛に顔を歪めていた。
「大丈夫かい?」
「うんっ」
 妻はそう言ったものの、とてもそんな風には見えなかった。そんなとき男は痛み止めの薬と励ましの言葉を与えることくらいしか出来なった。だが今日は違う、男は覚悟を決める。
「薬もらってきたよ。飲んでごらん」
 男はいつもの優しい顔を見せる。
「ありがとう……」
 うつろな目をした妻が渡された錠剤を確認することもなく口に入れ、男が差し出したコップの水でそれを流し込んだ。
 いつもの痛み止めの薬とは違って、妻にとって2ヶ月ぶりに味わう緩やかな気分。癌細胞は元より、体中の全ての組織が回復へと向かっていく。再び、ゆっくりと眠りにつく妻。その顔は母乳でお腹を満腹にした乳児のように安らかだった。
 翌朝、男の妻はすっかり元気になっていた。薬の効き目は抜群だった。妻はベッドから出ると立ち上がり、体を色々と動かしてみる。男が黙ってそれを見ていた。目が酷く充血している。男は一睡もしていなかった。
「ねぇ、なんか調子がいいの」
 妻が男に笑顔で話しかける。
「話がある」
 男は妻の言葉をさえぎった。
「どうしたの? 怖い顔をして」
 妻が不思議そうな顔をしている。男は一瞬視線を下におろすと、すぐに真っ直ぐに妻を見つめて話を切り出した。
「きみが、色んなことを考える前に話しておかなければならないんだ」
 男は昨日の薬のことを妻に話した。入手経路から薬の効果。それに対する自分の考え。妻が黙って話を聞いている。
 妻が望みを持てば持つほど落胆させることになる。その薬はラベルに文字を書けば、どんな薬にもなるし、どんな病状も回復する。だが24時間しか効果がない。それは24時間過ぎると病気が復活するということだ。残る錠剤は、あと8個。8日間分、つまり8日経ったら元の病状、苦痛に耐える日々に戻るだけだった。
「……そっか」
 妻は下を向いてうなずいた。その瞳からは涙がこぼれ落ちる。
「ごめん」
 男が下を向いて謝る。一瞬、妻を喜ばせたが、そのぶん深く悲しませることになった。やはり、この薬に頼るのは間違っていたのかもしれない。使うにしろまず話してからにすれば良かった。そう考えると、男は妻の顔を見ることができなかった。男の悲しそうな顔に妻が慌てて話を続ける。
「謝ることないよ。こんなに体調がいいなんて、とても嬉しいんだから。体中があんなに痛かったなんて嘘みたい。床ずれだってないんだよ!」
 男の思いを悟って、妻が笑顔を浮かべ大げさに話す。それを聞いた男がゆっくりと顔を上げた。
「ごめん……」
 男の瞳からも涙がこぼれ落ちていた。
「いいの。……でも、そんな薬、とても高かったんでしょう?」
 妻が心配そうな顔を見せた。
「お金のことはいいよ」
「だって、そうじゃなくたって私の医療費で……」
「お金のことはいいんだよ」
 男が笑って見せた。実際は貯金も底を突き、妻の看病で仕事も休みがちで収入は減っている。少し間を置き、男が尋ねる。
「薬はあと8個ある。……どうすればいい?」
「少し考える」
 そう言うと、妻は男の隣に膝を抱えて座ると、窓の外を見つめた。男は、
「考えがまとまったら、話してくれ」
 と言い残し、ベッドから立ち上がった。妻が男の寝巻きの袖を引っ張って下を向いてつぶやく。
「一緒に居て……」
 男は妻に寄り添うように座ると、妻が男の肩に頭を乗せた。男はただ黙って、妻の答えを待っていた。
 しばらくすると、妻が横になり男の膝の上に顔を乗せ、男を下から覗き込んだ。
「とりあえず痛みに耐えられないようになったら飲むよ」
 そう言って妻が笑った。
 その日は2人揃って久しぶりに外出をした。心の底から楽しむことこそ出来なかったが、それでもこれまでの辛い日々を考えたら、それは夢のような1日だった。
 深夜1時過ぎ、夢から現実に引き戻される。薬の効果が切れる時間。ついさっきまでのことが嘘のように妻の体は衰弱し、痛みに苦しんでいる。現実が2人の心を襲う。 男は考えた。
「ねぇ、『完治』と書いて見るか」
 男の思いに妻が生への希望を見出す。だが翌日、それは徹底的に打ちのめされることになった。
 薬の効果は24時間。それ以上でもそれ以下でもない。薬の効果が切れた瞬間、絶望が一気に襲い掛かる。妻が諦めを顔に浮かばせた。これで薬を2つ使ってしまったことになる。

 時間が過ぎていく。決して止まってはくれない。アパートの一室、子供の誕生会を開いている隣の部屋では、借金を苦に首をつろうとしている人間がいる。善人にも悪人にも平等に時は過ぎていく。そこに感情は無い。無情。ありとあらゆる生物のゴールは死でしかない。個々の想いに情けをかけずに通り過ぎていく。

 残る薬は、あと7個。
「最後に使うよ……。もう駄目ってときに。それから7個を1日ごとに飲むの。実際は亡くなっているのに、7日分余計に生きられるんだもん。それでいいの!」
 妻が考え抜いた答えだ。男に異論はなかった。
「わかった」
 男が頷いた。その日から全てが元に戻った。妻が苦痛に耐える日々。それを見ているしか出来ない男も同様に苦痛に耐えている。あの薬を飲めば楽になる。それでも『どんなに痛くても我慢するから、絶対に最後に使って』そう言った、妻の言葉が男の心をかろうじて踏みとどまらせる。

 とうとう、その日がやってきた。数日前から妻は痛み止めの薬のせいで幻覚を見ているのだろう、ときどき訳の判らないことを呟くだけで、殆ど何も話さなくなっていた。そして午前6時。妻は昏睡状態に陥った。
 男は現在の時間を正確に記録すると、妻の口を開け鼻をつまみ、その薬を無理やりに彼女に飲み込ませた。「回復薬」、その薬は24時間しかもたない。
 少しずつ妻の顔に赤みが増していき、ゆっくりと瞳を開く。それは永い眠りから覚めた白雪姫のように美しかった。妻は辺りを見渡して呟いた。
「とうとう、約束の日ね……」
 1週間の猶予。旅行をしたり1日中部屋にこもったり。端から見たら普通の夫婦に見えることだろう。自然で当たり前のこと。それでも2人には特別な時間だった。
 午前6時。それは妻が薬を飲む時間だ。それを忘れると妻の時間が永遠に止まる。念のため部屋に5個のアラームが用意された。

 そして2人に最終日が訪れた。ビンの中には錠剤が1個しか残されてはいない。
「ねぇ、『奇跡』ってラベルに書いたらどうだい?」
 男が提案をする。ずっと考えていたことだ。効果は24時間。その日に奇跡が起きても、それ以上は続かないかもしれない。それに「完治薬」と書いたときのように妻へ余計な期待をさせて、落胆させることにもなるかもしれない。それは分かっている。それでも男は望みを捨て去ることが出来なかった。こんなに元気な妻が24時間後に死ぬなんてことは信じられなかったし、信じたくもなかった。
「いいよ」
 妻が笑った。その顔からは男のように奇跡を期待しているのか、それとも、もう諦めてしまっているのかは読み取れなかった。
「私に書かせて」
 と言うと妻がビンとペンを取った。ビンの中には錠剤が1つだけ寂しそうに転がっている。男は隣でそれを黙って見ていた。
『奇跡&死ぬのが怖くなくなる薬!』
 妻が男に向かってビンを差し出して子供のように笑った。男は精一杯の作り笑いを浮かべる。
「今日は全部、あなたに任せる!」
 最後の薬を飲み込んで明るく振舞う妻に、男は哀れみを感じたが即座にそれを必死で打ち消す。
「あぁ、素敵なデートを用意するよ」
 と、男は泣き顔と笑顔を同時に浮かべた。

 その日は晴天だった。午前中から車に乗り込み、ファーストフードのドライブスルーで食事を注文して、車の中でそれを食べながら、都心のシネコンまで出掛けた。家の近所にもシネコンがあるのだが、2人はあえてそこまで出掛けて行った。
 映画の次は、その建物にあるレストランで食事。それから同じ建物でウィンドーショッピング。そして自宅に戻って車を駐車場に置くと、歩いて駅前の居酒屋のチェーン店へと出掛けた。時間が過ぎていく。
 家に帰ってくると、ソファに転がり込み、そこで不覚にも男は寝てしまった。アルコールのせいもあったが、この1週間は特に睡眠を取っていなかった。妻は1時間ほど男を寝かせてあげると、男に声を掛けて起こした。
「ごめん。こんなときに寝ちゃうなんて……」
 男が泣きそうな顔をして妻に謝った。
「いいよ。ずっと寝てないの知っているし、今日ずっと運転だったもん」
「ごめん……」
「こっちこそ無理やり起こしちゃって……。ごめんね」
 部屋には時計がない。もちろん携帯も腕時計もなかった。2人で話し合って今朝出掛ける前に全ての時計を外しておいたのだ。
妻が台所に風呂の給湯ボタンを押しに行った。今夜は2人で一緒に入る予定だった。ぬるめのお湯にゆっくりと浸かる2人。風呂から上がると男が妻を抱いた。互いの心が満たされる。油断すると、このまま眠ってしまいそうになる。男はコーヒーを用意した。妻はそれを一口飲むと、
「死ぬときは、ちゃんとした服にする」
 そう言って、ベッドから出て洋服に着替えた。ベッドに戻ってくると、男の差し出した右腕に妻が頭を乗せた。男の鼻にシャンプーの甘い匂いが漂ってくる。男は左腕で妻を優しく抱きしめた。ふいに男の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あなたに1個、薬を取って置けばよかったね。『泣かない薬」って書いてさ」
「君だって泣いているじゃないか……」
 妻は指先で男の涙をふき取った。そして男を気遣って色々な話を切り出した。
「そんなこともあったよね。でも、あのときは……」
「だって、あれはあなたが「食べたい」って言うから……」
 話は尽きることがなかった。2人の心はこれ以上ないほどに満たされていく。互いの仕草や表情、伝わる体温や感触。この寝室に幸せが満ち溢れていた。……どのくらい時間が過ぎたのだろう。それでも2人の想い出を語るには時間は足りなかった。
「今日は、ずっと起きているよ」そう言っていた妻だったが、いつしか眠ってしまった。男は妻を起こすことをしなかった。安らかな顔を浮かべたまま寝ている妻の横で、男の鼓動が早まっていく。
 午前6時、奇跡は起こらなかった。男の腕へ妻の体温が下がっていくのが伝わっていった。それは数分間の出来事。男は永遠に時が止まった妻の体を抱きしめ、子供のように声を出して泣いた。

 数日後、男は妻からの手紙を見つける。それは真っ白い封筒に入っていた。男が中の手紙を破かないように慎重にハサミで封を切る。中から3つ折になった白い便箋が2枚、その便箋を開くとボールペンの字が所々にじんでいた。男が文字を目で追っていく。

『あなたがこの手紙を読んでいる頃は、私はもう居ないんだね。
私はあなたと逢えたことが嬉しかった。同じ時間を過ごせたこと、同じ想いを共有できたこと、その全てが嬉しかった。
想えばあなたと出逢ってから、あなたを通して全てを見ていた気がする。
お店で気に入ったヒールを見つけたり、かわいい洋服を見つけても、あなたに可愛いって言って欲しかったの。
面白そうな映画の予告を見たってそう。私はあなたと一緒にその映画が観たいんだもん。美味しそうなお店を見つけたって、あなたと一緒に食べたいって、そう思っていた。

愛してる。心からそう想う。

そういうこと、あんまり言わなかったね。ごめんね。でも、ずっと想っていた。
あなたのさりげない優しさ、照れた仕草。気に入ってた。
あなたが好きだよ。

書きたいことは、いっぱいあるんだけれど。何を書いていいのかわからないよ。
もっと、もっと伝えたいことがあるのに。もっと、もっと私の全てを伝えたいのに、困ったね。
愛してる。これで伝わるかな? 

ごめんね。
あなたの心は空っぽになっちゃったかな? やっぱり子供がいれば良かったね。
でも子供がいたら、余計に死ぬのが嫌になる。
ごめん、わがままで。
また煙草を吸い始めた? それとも出逢った頃のように爪を噛んでる?
からだ壊さないでね。
あっ、風邪とか引いたら早めに薬飲むんだよ。医者にも早めに行くようにしてね。薬や保険証とか大事な物は二番目の引き出しに入っているから!

この手紙は薬を飲んだ日に書いているの、最後の日だよ。
いま、あなたは酔っ払ってソファで寝てるの。私のせいでずっと寝てなかったから。ごめん。
でも、もう少ししたら起こすよ。もっとあなたと話したいんだもん。最後のわがままだと思って諦めてね!

今日の映画、面白かったよ。
ねぇ、今日わざと映画に遅れたんでしょ? あれって映画の予告編を私に見せたくなかったからだよね。 
「お腹が痛いからトイレに行ってくる」って? うそつき!
ありがとう。
やっぱり、この人優しいんだなぁって思ったよ。泣きそうになっちゃったもん。

奇跡だよ。
こうやって、あなたと初めてデートした映画館に行けたし、一緒にお酒も飲んでさ。
酔っ払って甘えん坊になるあなたも、あの頃と一緒だった。
憶えていたんだね。最初のデート。
行った場所も入ったお店も全部一緒だった。
ありがとう。すごく嬉しかったよ。
あなたは昔も今も、いつも優しかった。
私は、そんなあなたが大好きだった。

ねぇ、これでも、あなたが元気になれるように手紙を書いてるんだよ。少しでも元気になれたかな?
もし、あなたが元気になれたら、それが一番の奇跡だよ!
愛してる。ずっと、ずっと、
私は、あなたの心の中へ行くよ。
今より、もっとあなたの近くに行くの。
あなたが他の人を好きになっても、あなたの心の中に置いといてね。
あなたの心の中へ行くって思うと、救われるんだ。
怖くなくなるの。
きっと、そこは温かくて優しいんだろうなぁ。
ありがとう。いっぱい愛してる。泣きたくなるほど、あなたが好きだよ。ずっと、ずっと、ありがとうって想ってた。
さよなら、
ちがう。やっぱり、さよならは言わない。
またね!

あなたに出逢えたことを嬉しく想ってる。あなたに出逢えたことを誇りに思ってる。
ずっと、ずっと愛してた。ずっと、ずっと忘れないでね!』

 男は手紙を読み終えると、綺麗にその便箋を折りたたみ、体を抱え声を押し殺して泣いた。窓の外では空がゆっくりと色を変えていく。
 男は前に進むことを拒絶し、心の時間を止め過去へと向かって歩いていく。そこには数え切れぬほどの最愛の人との想い出があった。時間が無情にも過ぎていく。ときにはそれが傷つき前に進めなくなった人の助けになることもある。
 男は妻の遺影の前に置かれた、からっぽの薬のビンの横に、そっと手紙を置いて瞳を閉じた。

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