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ありがとうはサンキューではない

突然ですが、いますぐその意味の違いを書いてください。
緊急事態です。

「ありがとうございます」と
「Thank you」

です。

え? どちらも「ありがとう」ですか?
僕もそう思います。

そう「習った」からです。

では、その「ありがとう」の意味は何ですか?
両者は同じものですか?

それは習いましたか?



こう書いていると、さも僕がその答えを知ってる風に思われますね?

知りません。

いや、ある程度の想像ができるっていうくらいの次元です。

「似て非なるもの」くらいの認識で、なんと先にタイトルまでつけてしまいました。ひどいもんです。

これをお読みになっている方で、

「そんなの知ってるよ」
「いまさら何よ」

とお思いのあなた。

また渡米、渡英その他で海外英語圏在住または帰国されたあなた、これってそんなあなたにとってさえ、想像以上に深いですよ。

また、もし知っていらしてもまだ黙っててくださいね(まあ、黙ってても黙ってるんですが?)。

あ、先に一つ前置きしておきますが、これは文化圏、民族の慣習の違いを明らかにしたり、学際的な研究材料にしたりとかではなく、「精神」を調べる試みです。


私の認識です。
まずはっと、

「ぼくの英語なんてThank youが言える程度でして、ははは」
とは言うものの、はて、そのサンキューとは何ものだ。

どこぞのもんだ!

「てか、待てよ、ありがとうはいいが、そもそも何それ?」

かくして、分かっていると錯覚していた最も低い梯子はしごさえ外されていくのでした。

「足がかりさえないとはこのことか」

まあ、お芝居はそこそこにしまして、
現段階でのわたくしめは次のように考える(一歩手前の想像する)わけです。


「サンキュー」
いかにも軽い
対者(相手)を同格に見ている
相手は同じ人間
挨拶
言葉を置いている感覚

「ありがとう」
神妙な意味がある
対者(相手)を敬っている
相手は人間の場合もあるし、山川、八百万やおよろずの神を含む森羅万象
挨拶ではなく、むしろ祈り
言葉を置いていない。「有り得がたい」すなわち、こうしてこの世に生きている奇跡のような「生」に対する感謝の念を(自分が)対者を通じて、森羅万象に向けて投げかけている印象


いかがでしょうか?
え? 根拠がない?

それでは今から調べに行きますね。
あなたもご一緒に行きますか?
いや、物理的に無理ですね。


ただいま!
モニコド上等兵、只今無事帰還したのであります!

「サンキュー」については、まずまずの発見があったのでここにご報告するのであります!

以下です。

  1. 「Thank」は、もと「Think」(考える・思う)から来ている。すなわち「Thank you」「Think you」(あなたのことを考える)が本来の意らしい

  2. 「No thanks」(もう結構です)の意があらかじめ「Thank you」にある。ただし、相手が自分に対して何かをやり続けている状態を丁寧に断る際に使用

のような情報を得てまいったのであります!

面白いではないか?  
はっ、ありがとうございます。

え? そんなの知ってますって?
何? 国際常識?  

ま、まあまあ、しかし私の当初の予想は当たらずともいえども遠からずではないでしょうか?

どーも、対者とのコミュ二ケーション的な使い方ですね。
1と2を複合すると、「私はあなたのことを考えてますが、あなたは私のことにお気遣いくださらなくてもいいんですよ」のように天才的な解釈が出来ますね(多分こじつけですがね)。

少なくとも、相手は人間ですね。
自然に対しては言わなそうです。

西欧社会は、人間中心の社会なんですね。
しかも、「Think you」と、「自分」が思ってるわけですね。
(良くも悪くも)自分中心、自分軸がありますね。


よーし、
わがニッポン国はどーか?
「ありがとう」の国はどーだ!

うーん、しょぼいねえ。
想像通り、その成果は。

何々?
「ありがとう」の意味は「有難い気持を表しま~す」だと?
(´;ω;`)

まんま「花」の意味は「お花で~す」じゃん、それ。
日本語舐めてますね、完全に。
昭和舐めてますね、完璧(無関係)。

と、フツーのアカデミーのレベルに落胆して帰りかけていた時、

ありやした。
あったではないか、そこに本物が。

さすが親鸞聖人
哲人・親鸞聖人
ありがたやありがたや
南無阿弥陀仏

ある時、釈迦が、阿難(あなん)という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねた。

「大変、喜んでおります」
と阿難が答えると、釈迦は、次のような話をしている。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は、風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」

阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。

「絶対にないと言い切れるか」
「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」

「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と、釈迦は教えている。

仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」
太字Monikodo=以下の「1から分かる親鸞聖人と浄土真宗」より引用

以上、宗教宗派関係なく一読されることをお勧めします。

ところで、上記の釈迦の喩え、いかが思われますか?
え? 盛りすぎ?

No No No!!
全然その通りですよ、
まだまだ控えめなくらいです。

それほど、私たちが今ここにいるって―ことは
有り得がたいんです!!!

よかった。
私の予想もまんざら悪くはなかったようです。
この上記一文を発見しなかったら、単なる想像で終わるところでした。



みなさまへ

確か、(エドガー・アラン・)ポーだったかの作品中に、「秘密の最高の隠し場所は、最も身近な目につきやすいところだ」みたいな発言があったかと記憶している(←要は作者も出所もどっちも定かではないという○○症💦どなたか正解知ってる方教えて下さい)。

これは、長く私の追い求めているテーマで、何も「秘密」というわけではなく、最も卑近なところに最大の発見があるということ。
あくまでも私の意見ですが、それを俳句の世界で完成したのが松尾芭蕉の句ではないでしょうか?
なんでもない旅中の光景に壮大な宇宙が拡がる・・・しびれます。

さて、「ありがとう」「サンキュー」という、いずれも「何でもない」日常的に使う言葉の最右翼。
すごかったですねえ。
ワクワクしましたねえ。
知らないことが身近に転がってますねえ。
しかも極めて大事なことが。

因みに「ありがとう」を毎日何度も唱えることで、どんどん幸運を招いておられる方も一人二人ではなくおられるようです。
そりゃそうですね、それは奇跡を招来するというよりも、奇跡の中にいる自分を認識するのに等しいわけですから。

そんな「凄い、凄すぎる」言葉を、
日常に、
普段に、
無意識に、
相手に何かを受けたときに発することにしたのは
一体どなたなんでしょうね?

そこに日本という国の精神性の高さが際立ちます。

それは、ただ挨拶であるなら、
「サンクス」
でも、
了解の「り」
でも
頓首の「と」
でもいいわけです。

感謝するという行為
その都度、この私たちを生んだ大宇宙に感謝する習慣をつけるという偉業を成し遂げた
おそらくは無名の哲人に、
大感謝ではないですか?

乾杯!
(と、呑兵衛は何にでもかこつけて一献やろうとする)

では、最後に、
みなさま、ありがとうございました。






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東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。