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表大なれば裏もまた大なり マクロビオティックの取り扱い方【奥義】


※この項はマガジン「「病気」この未知なるもの」所収「病というマトリックス、マトリックスという病」の続編です。
なお、以前の投稿である「ぼくは小2のときに現代医療を見限りました。【東洋的考え方・生き方①】」「「東のさらに東は西である」【東洋的考え方・生き方②】老子哲学序章」も以下のマガジンに収めました。



この世で地味に嫌なことが7つほどある。

  1. 掌の腹の部分や足の裏の分厚い肉を蚊に刺されること。

  2. 思っているのと逆に向かおうとする髪のくせ毛。

  3. かつては自分もその手の話に腹を抱えたことがあるくせに、ちっとも面白くない「面白い話」。

  4. かつては自分もその手の話に興味津々だったくせに、ちっとも興味がわかないメジャーな「陰謀ばなし」。

  5. 昨日と同じように今日も始まるという奴隷にしか実感できないような「日常」という幻想マトリクス

  6. 大概の心配事や悩み事が、あまりにも小さなエゴか、杞憂きゆうのそれであるのに、しんみりとそれを聞かされること。そして、

  7. 7つめが、

マクロビがマクロビオティックではない

ことである。
おそらくは突拍子のないお話しに思われるだろうが、実はこれには、あまりにも広大な宇宙レベルでの「背景」がある。

まずは、どういった次第でそのような(タイトルのような)ことになったのか、なぜにそう言っているのかの理由を記してみる。

この世では一切が変わる
変わらないものはない

あらゆる、(と言っていいくらいにほぼすべての)「聖なるもの」「真理(もしくはそれに肉薄したもの)」「先進的なテクノロジー(あるいは、それを形成する理論や発明発見)」など、つまり「人類の進化に役立つもの」には、闇の手が加わってないものはないと言っても過言ではない。
それらは時に抹消されたり改竄かいざんされたり換骨奪胎かんこつだったいされたりして、表向き元型をとどめつつも、ほぼすべて、若しくは一部の中身は別のものにすり替わったりしている。
そうでなければ、それは「はじめからなかった」ということにされ、一般大衆の目に触れることなく葬り去られた。
《本項の末尾に続く》

いつもの悪い癖で、少々あらぬ方向に行きそうなのでこの辺にして、続きはこの項の最後に分けた。

一見本筋と何ら無関係で大げさな”お噺”のように感じられるかもしれないが、少々我慢して聞いていただきたい。

これは極めて重要な二元性ゆえの法則だ。
一般に「闇」というものは、実はこの二元性を創ったモノたちのことだから、話は壮大になる。

どんな正義でもそれを固守していると「邪」に変わる。
いや、「邪」とは言わないまでも、そこに影が差し始める。
陰は陽に転じるものだからだ。

残念ながら、この地上はそうしたモノたちにいいようにむしばまれて来た。
それでは一体、「邪」が「正義」に、
「闇」が「光」になる日は来ないのか?

それが「今」である。
しかもそれは、そうした相対的(二元的)な対立そのものを消滅させることになる。
すなわち、「正義」が「邪」を、
「光」が「闇」を打ち負かすということではなく、
正義と光と幸せしかない一元世界になるということだ。
すっかり世界が晴れわたる時代が来たということだ。

ぜひ、そんなところを含んだうえでお読みくだされば嬉しいです。


この世では一切が変わることだけが変わらない

何らかを「ただしい」とするとき、それ以外を暗に「まちがい」としている。
正義を立てるとき、同時に邪をも立てている。
なにもない大地に一本のくいを立てると、そこに影ができる。
それを照らす光が強まれば、影はさらに暗さを増す。

何らかの思想なり信念を、「正しい」として譲らないような人たちのお話しに、引いてしまうのはそういう次第だからだ。

すべては変わる。
変わることだけが変わらない。

明日あすありと 思う心の仇桜あだざくら夜半よわの嵐に吹かぬものかは」(親鸞)

あなたが大好物の華正樓の肉まんを大事にし過ぎて、いざ食べようとした際にはいたんでいたといったようなものだ。

「マクロビオティック(不老長生法)」という言葉も、同様だ。
同様の手口、経緯にさらされた。
それは「スピリチュアル」という手垢が付いた言葉同様、換骨奪胎されている。

なにせ、半生というもの、いや60年以上もこのかた陰に陽にこの世界とかかわってきた私にとって、「食養」や「正食」が、「マクロビオティック」としてワールドワイドな拡がりを持った時から、そこに違和感というか、一抹の危惧を感じていた。

マクロビオティックの創始者・桜沢如一の衣鉢いはつを継いだ直弟子の久司道夫氏が世界各国に散らばったお弟子さんたちのリーダー格として、おもに米国東海岸を中心にそれを拡大された。そのご苦労は並大抵のものではなかったはずだし、その功績は大きい。そこで火のついたものが日本に逆輸入された格好ですらあるのだから。

学生時代、さることで知り合った天ぷら「銀座天一」の故・矢吹会長さんから、戦後まもなくで渡米が厳しかった折に、彼と久司さん二人がそれを果たし、その後のNYでのご苦労話をお聞きしたのが懐かしい。

そのころ、私がまず考えたのが「ユダヤ系勢力とどう折り合いをつけるのか?」ということだった。
何であれ、事業を拡大するということは、いうまでもなくビジネスである。
つまり、ダイレクトにカネが物言う世界である。
しかもアメリカ。

桜沢もどこかで語っていた(ちなみに桜沢は日本におけるユダヤ問題研究の第一人者でもある)。彼らはまず近づいてくるという。

そこは、久司氏が懐柔策でもって巻かれたふりをしてあしらったのかどうかは不明であるが、どうもトム・クルーズやリッツカールトンの社長が登場しだしたあたりで、私は「ああ、これは違うな」の感を強めた。

何のためにそれをやってるのか?

贔屓ひいきの引き倒しではないが、どーでもいいものであれば、それがカフェや自然食レストランで供される「意識高い系」のスローフードを指そうが、ハリウッドセレブも”やっている”ものであろうが構わない。「いわゆるヴィーガンみたいなもの」でもいいだろう。
また、食卓で食品の陰陽を基準に玄米菜食にいそしむことがそうだというのならば、それは構わない。結構なことである。
それを「マクロビ」と言おうが自然食と言おうが構わない。


「これはパイプではない」=ルネ・マグリット(1929)

ただ、言わせていただけば、私はそこにライフスタイルを求めているのではない。
ファッションを求めてるのでもない。
いや、ライフスタイルもファッションも好きでそんな業界にもいたくらいだが、そんなパッケージなどどーでもいいことである。
いくら人さまがパッケージで物を買うにせよだ。

また、私は、まじめに玄米を食べ、オーガニックな野菜をチョイスし、教科書的な日々を送ること、または送っている方々を見ると、正直何とも言えない嫌~な感覚が自身を襲う。

「一体何のためにそれマクロビをやってるんだろう?」
(散々それをやってきた自分を棚に上げてである(笑))

健康のため、
病気を治すため、
生き方を変えるため、

なんだかそこにふっ切れないものを感じる。
第一、(私の眼には)ちっとも面白くないものに見える。
正しくて、小さくまとまっていて、おとなしくて、控えめな、そして退屈な、、、ついそんな印象を受けてしまう。「わたしなんてまだまだ」と言った風な。

その意味で、マクロビオティックを(批判ではなく)毛嫌いされる方の気持ちが分かるくらいだ。

それにのめり込むものは、社会性を欠いたり、友人を無くしたり、離婚したり、家族争議の火種になったりもすることもあるだろう。

マグロの刺身と晩酌が欠かせない旦那さんに、それをお止めなさいとは決して言ってはならない。

それは、この宇宙規模の激変の渦中にあって、いまだ目をさまさない人に向かって「真相はこうなんだ!」とか叫んだり、説得をはじめたりするような愚だ。

そう言っている側が悪い。

つまり、食環境を変えるということは、おそらくあなたが思っておられるほど簡単なことではない。
なぜなら、それは革命だからだ。


マクロビオティックとの出合い

以下は個人的なことなのでどーでもよいと思い、放っておいたエピソードの一つだ。

私は、都内の簡素な官舎で、平凡な公務員の父とその母親のもとで生まれ育った。
「平凡」というのは、世間様と同じようにというよくある意味でのそれである。
父は、当時はやりの「文化生活?」の影響か、朝にはトーストと、どっぷりと白砂糖を入れた紅茶を摂っていたのを記憶している。
果せるかな、彼は胃腸が弱かった。
しかし、「縁」というものは不思議なもので、そんな我が家の書架の片隅に、一冊の奇妙な本があったのだ。

頁を開くと、「第一期食」だとか、「生玄米を炒ったものに濃い塩水を振りかけたものをよく噛んで食す」的な意味不明の項目があったり、フランス語らしき自著の紹介や、パリにて記すだのの記載があったりで、「はて、この人日本人なのかしら?」と素性がさっぱりわからない著者。
「弁証法の現代版です」??? かと思えば、「何と愉快ではないか!」とか、何やら楽し気に人生を送っているような文字が躍っている。

その中に「食物だけで病気を治す法」なる項目があり、それが病弱な少年だった私の眼を惹きつけた。
なにせ、そこには難病の治療法も、一般の病同様に記載されており、「造作もなく治る」とか、さらっと断言されていたからだ。
(ただし、甘いものから何から何まで「厳禁」との但し書きにおびえていた少年は、「いよいよになったらこれだな」との判断を下したものだった。何度も読んでは同じ意思を固めていた(笑))

そんな意気地なしの私ではあったが、小2の時分に自ら「玄米を食べる」と、なぜか言いだし、父を巻き込んで2人で玄米食を摂り入れたのは正解だった(母と妹は普通食)。お陰で、爾来半世紀にわたり、病とは無縁の生活を送れたからである。
もちろん、その下地には前述の本の盗み見があったわけだ。

その本こそ、桜沢如一の『新食養療法』であった。
社会に出て知り合ったある女性が、その著書がやはり自宅にあって、既知であったことを聞いて驚いたものだが、同著は桜沢のなかでも最も売れた本の一つであったことを考えると、当時かなり多くのご家庭に眠っていたものと想像がつく。

さすがの私も、物心つく高校時代に達すると、「いよいよになったら」を返上し、四つになってその食養に取り組むことになった。
すでに病とはおさらばしていた私は、桜沢の言うところの「(Le principe uniqueル・プランシップユニック無双原理PU)」そのものに惹かれていたからである。それは現代版老子哲学であったが、とにかく面白くてやめられないのだった。

一日に玄米二膳とみそ汁と少しの野菜を食べ・・・

高校時代の半分ほどは、一日二食、一椀の玄米ご飯と少しのお菜だけという生活をしたものである。何よりきつかったのが、プロボクサーの減量か?といったあんばいの水分の制限だった。食欲旺盛な若き日々にそんな修行をしたものは、他にあまりいなかったことだろう(貧弱な私がスポーツ心臓になったのもそのころである)。

昼飯は抜いて、その時間にはそっと図書室で読書。
今となっては、さぞや、貧乏でご飯も満足に食べられないのか、などとクラスの面々は思っていたことだろうなんて考える(笑)。
「現国」の授業中にさえ、アナトール・フランスについて考察した桜沢の『永遠の子供』なんぞを読み耽り、美人の教師に逆に教えたりするなど、まあアレな学生時代だったものだ(笑・汗)。

社会人になっても、当時代々木上原にあった日本CIでよく開かれていた大森英桜氏の勉強会に参加するなど、ますます求心的なエネルギーのるつぼにいる感を強めた。

70年代の当時は、ニューエイジムーブメントの渦中にあったわけで、何かしら輝ける新しい世界がすぐ近くにやってきている風なムードが世界の若者たちにあったのだろう。思えば、私は長らく『新しき世界へ』という桜沢創刊によるマクロビオティックの雑誌を愛読していたが、当時のマクロビ界隈にはフォン・デ二ケンの『未来の記憶』や、竹内文献をはじめとした古史古伝、「日月神示」など、若者を魅了するに足る多くの”未知の扉”が開かれていた。

桜沢の片腕となってご活躍された小川ミチさんが経営されておられた渋谷の「天味」という自然食レストランには、いつも米国人らしき若者が、テーブル中ナプキンを散らかしながら、拙い箸遣いで玄米のランチに向き合っていたものだ。
また、アメリカ西海岸でご活躍されていたお弟子さんのヘルマン・相原さんがたくさんのご当地の若者を引き連れて来日されたのもこのころで、私は彼らとともに玄米食の食事会にも同席したものだ。彼らは日本文化の吸収に真剣だった。

余談になるが、私も好きなミュージシャン・あがた森魚さんも長らく桜沢如一の支持者だったし、亡くなってしまって残念だが、その考え方は坂本龍一さんをも晩年うならせたものである。

「左様ですか、左様ならば、さようなら」到達すれば、この身は不要。

さて、回顧録はこの辺にして、マクロである。

雪舟の画は、画そのものではなく、それを踏み台に、自らが昇天アセンションすることに意味がある。
画は肉体と同じく物質マテリアルである。
二(三)次元である。
雪舟はそこを通過したのだ。
つまり、見るものが感嘆したり、感銘を受けたりするのは、彼の通過点を見ているわけだ。

国宝「秋冬山水図」=雪舟筆

そう私は思う。
禅の修行の足掛かりとして画があった点では、白隠禅師などもそうかもしれない。

ともあれ、マクロビオティックの根本原理PUは諸刃の刃である。
滅法切れるが、使い方を間違うと自らを斬ることになる。
これは、桜沢自身が良く言っていた言葉でもある。

なぜなら、PUの「宇宙の秩序」には、

はじめあるものに終わりあり

表あるものに裏あり

表大なれば裏もまた大なり

とあるからである。
とあるからではなく、狭い世界ではあったものの、私が半世紀にわたり見てきた限り、そうだからである。

マクロビオティックに「表」があれば「裏」もあることになる。
その運動は、世界中で多くの病人らを救ってきたが、反面それがゆえにたおれたり、実験台になったりしたものも多い(冒険好きな桜沢自身もそうだった)。

もし、マクロビオティックを「始めた」のであれば、必ず「終わり」が来る。
言い替えれば、終わりのないマクロビオティックはマクロビオティックではないものに変化している(存在できない)。

生涯「無限の自由、永遠の幸福、絶対の正義」を標榜した桜沢如一は、マクロビオティックによってそれを達成しようと試みた。
つまり、マクロビオティックは雪舟の画である。
それは手段であり、足がかりであり、目的ではない。
一元世界に脱出するための二元世界の「仮象の姿」を見極める目である。

だから、陰陽にいつまでも囚われていてはならない。

この有為転変を繰り返す娑婆の様が地獄に見えようが天国に見えようが、またはそれが逆転するさまを見ようが、その変化そのものが幻である。
人生も、
生命も、
地球も、
銀河も、
刻一刻と変化している。
おかしな話だが、それこそが幻であり、
そして、その(幻であるという)ことだけが真実である。不変である。
(これが二元性のパラドックスなんだ)

それが、そうなんだと理解したとき、
左様なんだ、と諦観(止観)できたとき、
とっとと、そこを去るのだ。
「左様なら」と。


楽して病を治す究極(悪魔)の秘儀【奥義】

「マクロビオティック」は確かに「実践」に特化した一種のメソッドである。私が知る限り、自身の意志で、目に見えて、はっきりと、その効果を実感できる方法はほかにない。

しかしながら、それは徹底した唯物論である。
だから、それのみではすぐに限界を感じたり、軋轢あつれきを生じたりするのだ。

「マクロビオティック」という言葉は、桜沢晩年の著作になる『禅・マクロバイオティック』(1960=英語の著作)がその語源になっているが、同著では、まさに禅で言うところの「不立文字ふりゅうもんじ」よろしく、理論や哲学面の記述を故意に排している。

桜沢如一(1893-1966)

そのバックボーンである「無双原理PU」は、実はこのマクロビオティックと表裏一体をなしているものだ。しかも、マクロビオティックはPUの単に肉体的な一応用であり、PUそのものはさらに無限の広がりを持っている。
PUというものは、精神そのものだからである(おそらくは、ほぼ生涯をかけて世界中で説きまわったPUの概念が、とりわけ欧米人には理解されないことに対しての彼の”奥の手”だったのかもしれない。事実、最晩年の「原子転換」の取り組みは、PUの応用で、海水のナトリウム→カリウム、空気中の窒素→シリコン、鉄→マンガン、その他金やダイヤを別な元素から作るという試みだった。つまり、その「転換の原理」を物質界で目に見せるということだ)。

PUなきマクロビオティックは、さながら「仏作って魂入れず」であり、その辺の土産物屋の店頭に並ぶような運命にあるのは当然のことである。

ここで、桜沢ご本人の言葉を引用してみたい。
それは、マクロビオティックが杓子定規に「○○しなければならない」というマニュアルではないことを言い得ている。

極意
・・・(前略)・・・トニカク肉体は陽性だ、求引力だ。それの別名をムサボリ、貪欲、剛欲と云うのだ。見ろ、肉体至る處、イカナル細胞にもあれ、寸秒も休まずに食を求めているではないか。肺はドウしても空気を求めて一分も休まない。心臓も一秒もその強力な吸引を止めない。角のような爪でも、草のような毛でも、石のような歯でさへも、あらゆる食物を刻々に要求し、摂取して止まない。要求があると云ふことは生きていると云ふことだ!食欲は旺盛なほど頼もしいのだ。遠慮するな!食へ、大いに食へ!大いに呑め!楽しく、安心して食って呑め!宇宙はお前の食卓だ。心配するな、哀れなちっぽけなお前がいくら食ったところで知れたものだ。・・・(後略)・・・

女性のための極意解説
・・・(前略)・・・「原則としてその食は植物性たること」ただこれだけ!(食べ方はご承知の通り)外には何の規制もいらない!・・・(後略)・・・

男性のための秘伝
・・・(前略)・・・「何品にあれ、好きなものを好きなほどウント食へ──そして、出来る限り大きな夢を描き、最高度の情熱を燃やせ!」

桜沢如一著『心臓を入れ替へる法(悪魔の書)』より抜粋

桜沢は、「食事の7段階」を規定している。
その最高の7番目にこうある。

「大いなる喜びをもって何でも食べる」

──?──

では、マクロビオティック(食養)で教えているうるさい戒律は何なの?

それは、マクロビオティックの病人食だよ。
それは病気を治すためのものだろう?
大っぴらにやるもんじゃないよ。

第一、「教え」や「戒律(食戒)」は病人にのみあるもんだよ。つまり、それは破るためにあるんだよ。

桜沢如一著『東洋医学の哲学』
(日本CI協会刊)より引用
=この表
によれば、「マクロビオティック」
は、第4段階にあることが分かる。


それは、陰でこっそりと人知れず、まるで泥棒のごとく悪事を仕出かすかのようにやる秘儀だ。

何でかって? 

当たり前ではないか。

それは最高医学直系の「秘儀」だからだ。

ただ玄米を食う、よく噛む、小食にする、少量のお菜を摂る。
そんな単純な作法に、どれだけの死闘に裏打ちされた先人の叡智が刻まれていることか?

望まないものにそれを絶対に教えるな!
決して安く卸してはならない。

世の人々が苦吟し、効くか効かないかも知れぬ新薬を頓服し、挙句は手術の痛みに堪え、吉と出るか凶と出るかもわからない博打のような医療に身を預けているというのに、お前は涼しい顔をして玄米を噛んだり、味噌をなめたりして優雅なライフスタイルを時に楽しんでいたりすらしているではないか? それが悪魔の所業でなくて何なのだ!

それは確かにあらゆる病が治る。
しかしそれがどうしたって言うんだ。

第一、病が治らなくてそれをどうしろって言うんだ。

どーせ誰もそんなことを信じてはいない。やりはしない。
だからこそお前がやるというのは実に卑劣ではないか?

もしお前同様にやるものが欲しければ、
つまり、お前と道連れにするカモが欲しければ、
外野の眼を気にしつつ、そっと教えてやれ!

「何もしなければ治る」とでも。
そして、とっとと治して、何でも好きなものを食え!

え? 化学添加物? 砂糖や魚や肉が悪いって?
そんなケチ臭いことでくよくよするな!
人間の体は、少々のことでは参らないようにできているんだ。
まして、添加物を作っている悪魔などと比較にならないほどの、お前は大悪魔ではないか?

それで具合が悪くなったら有難いじゃないか?
それは神が、お前をまだまだ見捨てていないという証だ。
そのときゃ、またこの秘儀をやればいい。


という心持で一切は解決する。
山賊の仲間になるような心持で(笑)。

自分が何かしら善いことをしているんだという気持ちを捨てよ!
(そう思わなくても)自分が特別なことをしているのだという自意識を捨てよ!
自分の病を治すという行為ほどエゴイスティックなものはないのだから。
それこそ個人の勝手、ご都合で、誰もそんなことをあずかり知らない世界なのだから。

これは私が40代のころ、それまでの20数年間にわたるケッコーな苦汁をなめたうえで行きついた結論である。

これを「奥義」と称するとは、臆面もない、僭越極まりない表現だが、これはマクロビオティックの「とらわれ」で相当な苦労をし、二進にっち三進さっちもいかないような窮地に追いやられてしまった人にとっては救いとなるのではないだろうか?
言い方を変えれば、そのように自ら考え抜いた方でなければ分からない。
だから「奥義」である。


この世では一切が変わる
変わらないものはない


《冒頭からのつづき》

それが近未来の人類の生活に直結しているという点で、フリーエネルギー装置などは、目に見える例としての代表的なものだろう。
アメリカ合衆国だけでも、400とも、500ともいわれるそれらに該当する特許がペンディング状態だとも言われる。
それらが一斉に日の目を見て、社会に流通すれば、日に4~5万人に上る餓死者は皆無となり、この世に貧困は無くなる。
いや、そうする以前に、それらを差し止めている連中の一人の私財を投げ出すだけで十分だ。
つまり、そうすれば何万何十万人という命が救われることを知っていながらそうしない。
これは立派な犯罪行為である。
石油利権と同じで、それらの登場によって、現代社会のインフラ業界を根底から叩き潰す結果を招くから世に出さん、という理由は通らない。
一個の命でさえそうであるのに、多くの無辜むこの子供たちの命と、企業だろうが国家だろうが、そんなものの利益とが比較できるはずもない。
まったく、前回書いたようなどこかの組織と同じ構造。
「え? その通りだがそれが何かね?」
(糾弾したり、息巻くことが無意味な相手だが)

その闇の手が、太古の昔からこの地上に及んでいたことは、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』などインドの神話や旧約聖書などに残されているほか、有名なモヘンジョ・ダロの遺跡やゴビ砂漠などでは核戦争の残滓ざんしと思しきガラス化した砂(ヘクタイト)、高温で溶けたレンガなどが大量に発見されている。

ナチスドイツの草創期の「ブリル協会」が、闇(ヒトラーやカール・ハウスフォーファー)に乗っ取られていく様は、神聖なものが邪悪なものにいかにしてすり替えられるかの典型だろう。
仏教、キ教、イスラム教然りである。
それらの教えの一部は捻じ曲げられている。
だから、真摯な研鑽者けんさんしゃは、あるところまで行き着くと、はたと戸惑うような、整合性をくつがえすような事象が出てくるわけだ。

悪魔教のシンボル「フクロウ」「山羊」や「666」などがもとは神聖なものであったという事実は分かりやすい例だろう。
(「触らぬ神に・・・」の諺は、その辺の事情を言うのかもしれない)

そうした「魔の手」はもちろん形而上の世界にも及んでいる。
たとえば文字・言葉の意味である。
なかんずく、「愛」という最もポピュラーで、広く浸透した言葉などは、はなはだしくもてあそばれつくして道端に捨てられた恋人のような、変わり果てた姿になってしまった。

「愛」といったとき、あなたはそれにどのような定義を下すだろうか?
いや、それに明快な答えを示せるだろうか?

この言葉ほど歪曲され、陳腐化され、換骨奪胎かんこつだったいされた例もないだろう。
「愛」にある厳しさ、峻厳しゅんげんさ、苛烈かれつさといった重要な側面はいつしかぎ取られたままだ。
まして、昨今語られる「愛」には、合成甘味料の味がする。
こんにちの「愛」は執着しゅうじゃくであり、偏愛である。
つまり、「モノに対する愛」である。

しかも、社会的に強要される「愛」は「悪」の巣窟そうくつである。
「全て生きとし生けるものには差違はなく、平等に愛されるべきである」的なメッセージが悪の巧妙な隠れ蓑レトリックであることくらい、誰にでもわかるだろう。
「差違」ほど神聖なものはない。
それは、私たち個人個人がすべて、ユニックであり、オリジナルであり、同じものはない独立した存在の証明だからである。
それを「悪」に見立てて、自分たちは隠れたつもりなわけだ。

以上のことから、それ(闇の正体)がこの世のものではないことはお分かりだろう。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。






東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。