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信じていた人に裏切られた


何をもって「信じる」のか?

信じるから裏切られる
信じなければ裏切られない

ということは、「信じる」という行為は
すでに「裏切り」を前提にしている

大概は裏切った相手を非難する
裏切られた自分は「被害者」だと思いたがる
(「害」を被るって、まぁ)

愛するあの人に裏切られた
まさか、あの人がそんなことをする人だなんて信じられない
わたしをぼろきれのように捨てるなんて

愛は憎に変わる
あの人と出会わなければよかった

信じた私がばかだった
死んで花実が咲くものか(?)

しかし、
「信じる」ことが自らのアイデンティティであるならば
それでことは収まらない
またぞろつぎなる「信じるもの」を求める旅に出る



もちろん、いい意味での「裏切り」もある。

だれも地球が丸いなんて
まして動いていて太陽の周りをまわっているなんて
空を飛ぶ乗り物なんて
人間がそこに乗ってるなんて
地下に電車が走るなんて
電話で外国にいる人と話せるなんて

まさかの現実。
その裏切り。

際限もなくある「日常」は、
一昔前は「非日常」であり、無かった世界であり、信じられない世界だった。

「そんな世界などはない」ということを「信じていた」のである。


信じることは他所よそに拠り所を求めること

「信じる」ということは、(嘘でもまことでも)何かを拠り所にする
という極めて私的な行為である。

拠り所? もー、いっか・・・

しかし、極めて私的なそれがエスカレートすると、
時に周囲に強要する場合もある。

「信じる」「信じない」「信じろ」「信じられない」

どこかの国のリーダーを信じる。
それは、当人の勝手である。
しかも、その人物こそ世界を救う「救世主」である。
そう思うのも構わない。

(当人の自覚のないうちに)次第に神格化が始まる。
周囲にその人が窮地に立たされるのは○○のせいだから、今すぐに立ち上がるべきだ! と呼びかける。
ネット、SNSで配信し、しまいには著作まで発行する。
それも構わない。
(その気持ちは「正義感」だろう)

しかし、もし仮に、その崇拝していた人物が実はそうでもない、単なる傀儡かいらいであったことが明るみになった時はどうだろう?
もっと言えば、芳しくない側の人物であったと判明した時はどうだろう?
(別に、坂本龍馬を言ってるんじゃない。)

その人物を信じ切っていた当人は、
「一体自分は何をやってきたのか?」
と自信を失うし、真っ白になることだろう。
下手をするとその信奉していた人物同様自らの信用を無くす。

では、その後、彼は次はどこに「拠り所」を探すのか?



偶像が崩壊する日

私はいずれ情報の全面開示フルディスクロージャーが起きることを期待している。
もちろん、起きるかもしれないし、起きないかもしれない。
(しかし、すでに小出しに様々な情報が開示されるという闇側の戦略が目につくこと自体、全面開示を恐れてのことだから、それはあるだろう)

その時、私が一番に懸念していることは、何らかの「宗教」を信仰している人々の存在だ。

それは何十億人というとんでもない数にのぼる。

果たして自分の拝んでいるものが何だったのか?
崇拝している「あの方」「あの神」が何ものだったのか?

冷酷なようだが、それは一切が明るみに出る。

これは、誰かどこかの指導者やヒーローの化けの皮がはがれたどころのお話しではない。

ふさふさ頼ます(※ちなみに私はありますよ😁)

その方の価値観、生命の拠り所を失うに等しいハンマーを振り下ろすようなものだ。

おそらくパニックや自殺者、暴動騒ぎをいかに最大限に食い止められるか否かの話だろう。
「信ずるもの」「偶像」が音を立てて瓦解するさま。
これが一番恐ろしい。

すべてデトックス。
良くなる前触れなのだが、
そのとき、そんな講釈は通用しないことだろう。



「自分以外を信じない」意味

闇は(実は存在しないにもかかわらず)闇を本気で信じている。
闇は悪魔をホント―に(神のごとく)崇めている。
光は光を信じてなどいない。
すべて光しかないからだ。

キリストが「信じるものは救われる」と言ったのは、
キリストを信じろと言ったのではない。
汝自らを信じなさいと言ったのだ。

そう私は解釈するし、そうでなければ(残念ながら)それは排他的な一神教の教義以上のなにものではない。
そんなことをキリストご自身が言うはずもない。
(余談ですが、「汝右の頬を打たれたら、左の頬を差しだしなさい」は明らかにイ会による改竄ですね。それは宗教学や哲学的に解釈するまでもない=ニーチェ流に言えばさしずめ怨恨ルサンチマンですか。新約も部分的に手が加わっています)。

偶像を信じない

分かっているもの
分かりきっているものを私たちは信じたりしない。
実は、信ずるに足りない、
不明瞭だからこそ信じるのだ。

(自分以外の何ものかを)信ずること
その信ずる対象は一体何なのか?

これほど怖いことはない。
それは「偶像崇拝」だから。

一方、自分のみを信ずることは「無神論」のような印象を与える。
自信というものは、一見エゴイスティックで排他的に見える。

しかし、自分=他者
自分=森羅万象
であったとき、それは実はすべてを包含する。

あなたの中ハイヤーセルフに答えを探しなさい」
そういうもののみが本物だ。


自分の許容範囲を超えたもの、アンビリバボーなもの、自分の価値観と異質なもの…
なんであれそれらを目の前にしたとき、「そういうこと(見方)もあるんだろうなあ」で見る「余裕」が欲しいものです。

絶対に否定してはならないし、自分の価値観を押し付けてはならない。
そして、、、信じてはならない。


ここにきて、ますます強くそう思うのです。


「信ずる拠り所」が、一国のアイデンティティであり、
国民の支柱であったものが、
それが目の前で崩れ去る場合もあった。

天皇の「人間宣言詔書しょうしょ」(終戦の翌年昭和21年1月1日発布)がそうだろう。
いきなり万世一系の「現人神あらひとがみ」が庶民と同じ「人間」になってしまった。
(もちろん、そう言わされたのである。)

(それ以前からそうだが)太平洋戦争の戦線や、原爆投下まで、ロスチャイルドやイエズス会の介入(というより操作)によって攪乱されたうえに、それはあまりにも愚弄的ぐろうてきな日本国に対する処遇であった。

それは驚天動地のことだった。
良し悪しは置いておくとしても、
それまで気の遠くなるほど長い間日本人の元型として存在した神が、
その威光をすべてはらい落とし、
人として国民と同じ地平線に立った。

それによって、拠り所を失った日本人は、西欧の「目に物見せるモノの神」
を信仰することになった。目に見えない「精神」を捨てるということとそれはイコールである。


マッカーサーはそれ(人間宣言)を「日本国民の民主化に指導的な役割を果たした」と言った。
それを聞いて、とりわけその「民主化」と聞いて、あなたは首肯するかもしれない。
しかし、その民主化という金看板ほど、国民を骨抜きにする魔手もないことに気づくものは少ない。
ちょうど、フランス革命時の「自由・平等・博愛」と同じだ。

それは、一切を平準化する全体主義思想である。
万人が「善かれ」と信じて疑わず、、、、、、、自らの手で自らを奴隷化させる巧妙な罠だ。

私は、天皇制礼賛者でも、もちろん右翼(だか何だか知らないが)でもない。というか、どーとられようがどーでもいい。私はむしろ「国家神道」なるものに懐疑的だし、やんごとなき界隈における様々な「沙汰」も小耳に入ってはいる。

ただ、ここで明言しておきたいことは、一番大事なことは「自らに信念を持つ」ことだということ。
「信ずること」ではない。
むしろ、一切を信じてはならない。
(自らに)信のあるものは、何ものかを信ずる要はない。

「あのとき、あれを信じたばっかりに」

時にそれは「戦争」の引き金にもなるし、
自らの生死を分けるものにすらなる。

あなたも、それは聞き飽きたはずである。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。