内へ、さらに内へ、そして光へ【心身の神癒】
Looks like a missionary leaflet I saw somewhere?
No, it's not.
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【まえがき】外界は「闇」、内界は「光」
何からどういえば、ですね。
言葉がないですね。
終末期の狂気
そうなることは想定内ですが、現実に突き付けられるとめまいがしますね。
「悪」が晒され、
おまけに「狂気」までもがばら撒かれ、
しかもそれを頭からかぶっても平気な”善男善女”。
メルトダウンした判断力。
お上からの「Yes」の事案はほぼ「No」
「No」の案件はほぼ「Yes」
むしろ、それらのメッセージにより多くの「No」を出せるか否か
それがその人物の正しさを示すリトマス試験紙にすらなっている。
マスコミ・ジャーナリズムの「報道」はとっくに「プロパガンダ」と化したし、実際の出来事さえも、その事件そのものよりも、それが一般にどういう効果で波及するのか、というメタファーとしての役割を担う。
それは心理作戦であり、「ショー」である。
世界中で湧き上がる支配層に向けての抗議の嵐。
支配層はますます追い詰められ、
最期にはその尻尾を出し、そして正体を現すだろう。
そのとき、むしろ驚くのは大衆の方だ。
2年前、僕は硫黄島に行く機会に恵まれ、日本兵約2万2000人、米兵約7000人の戦死者を出した小さな島で英霊たちに手を合わせた。そのときに深く感じた感慨は、「浮かばれない」ということだった。おそらく「ひめゆり」も、南方戦線で玉砕された兵隊たちも同様だろう。
太平洋戦争では、年端もいかない若者を含む数百万という日本兵が、「大本営」の指揮下のもとで死んだ。
我が国は「浮かばれない国」である。
そして、そう導いたものは、今日僕たちを包囲しているプロパガンダである。プロパガンダを流したのは「大本営」である。
そして大本営を指示したものと同じ勢力(残党)が、今もそこにいる。
「二度と戦争を繰り返すな」の声が届かないのはこうした次第である。
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このような話と、今回のテーマとどうつながるのか。
「陰謀論」という言葉が陳腐化した今、真相究明派?の皆様がさまざまな角度から世界の「裏面」をえぐってくれていますね。中には、「X」を通じて「女優○○さんはゴムでした」みたいな映像なども届きます。
それでなくともCGやSFX、ディープフェイク、プロジェクトブルービーム、”影武者”、クローンなどのテクノロジーを駆使することで、ますます物理世界での真偽は見分けがつかなくなっています。
つまり、外側の世界というものは、特定個人の存在から社会構造の是非に至るまで、究明すればするほどマトリックスの渦に巻き込まれていきます。
何がホントで何がニセモノだか分んない時代。
では、内側のメンタル面はどうでしょうか?
実は一番問題にしたいのはそこです。
僕たちは多かれ少なかれ、自身のバイアスを通してものごとを認識します。
それが、日常生活次元のそれであれば、「個性」で済みますね。
しかし、「真相究明派」の場合、とりわけその方がインフルエンサーであった場合は、えてしてその「正義感」が、大衆の意識を分断することになりがちです。
外部情報から自身の「内部(メンタル)」に落とし込んで形成された「信念」「信念体系」というものが、一番に問われます。
そう、それは「宗教」になりがちです。
何に対して立ち上がるのか?
何を「敵」として断罪するのか?
一方を「ヒーロー(あるいは神)」とし、他方を「敵」とする姿勢は、そのまま闇の手中に嵌る行為かと思うのです。
世界の「要人」といったものの多くは傀儡・パペットです。
卑近な例でいえば、この度の米大統領選で「共和党」「民主党」のセクショナリズムを借りたその「信条」の対立が激化することが予想されるからです。保守⇔グローバリズムといった図式すら、「利用されるもの」でしかありません。傀儡を斃したにせよ次なる権力が支配権を握ります。
それが「革命」であれば、無血でなくてはならない。
しかも、こんどの「革命」は、これまでとは全く異質の、人類が経験したことがないものだと思うのです。
お題目ではなく、アセンション(光の時代への幕開け)が、人類総意の来るべき”革命”であったとき、それは、「外ではなく、自己の内面に深く入っていく」という精神革命であるべきです。
ベクトルが内側に向いています。
「外」を探求すれば深い闇、悪と遭遇します。
残念ながら、僕らの三次元、四次元(そのポータルは五感です)は闇の勢力によって存分に汚され、そこに幽閉されてきたからです。
それを突っついても、”木乃伊取りの木乃伊”です。
「内」に入ってゆけば、光(五次元~)と遭遇します。
難しいことかもしれませんが、「悪」にではなく、この「善悪」はじめ相対的な二元性の世界に「No!」を突き付けたときに、はじめてそれ(革命)は始まります。
僕はそう思うのです。
洞察力、慧眼を持った「真相究明派」のみなさんは、その同じ眼目をぜひ自らの内面に向けてください。
それは「宗教」ではない。
むしろ真逆の方法論です。
なぜなら、それは「個人」が、外の「神」ではなく、内の「真(神)我」と向き合い、一体化することだからです。
いろいろなやり方があります。
いま思いつく言葉を挙げますと、
瞑想
内観
止観
ヨガ
食養道
合気道
只管打座=四の五の言わず座れ!
アイアムプレゼンス
IAM
まだまだたくさんあるかと思いますが、それぞれのやり方でやればよいと思います。
ただボーっとしていることでもいいと思います。
宗教、宗派などは関係ないというか不要です。
必要なのは、ただ一つ。
あなたです。
純粋な言葉
ここでは、第二次世界大戦後に降りたイエス・キリストの直の言葉を挙げます。
もちろん、僕はクリスチャンでも仏教徒でも拝火教徒でも何でもありません。むしろ宗教を否定していますが、聖賢が何を述べたかについては若いころから独学で研鑽してきました。
これは、その中の一つです。
1948年春、南アフリカ共和国・ヨハネスブルクのさる講堂に主イエス・キリストが降臨した。
それは、神学博士であり哲学博士であったマクドナルド・べイン氏を通じてである。同氏は長く、主にホメオパシー医学の施療で多くの病に伏せる人々を癒し、決して一人たりともその依頼を断らなかった。なぜなら、彼はアストラル旅行ができたからである。彼は霊体で患者のもとに飛び、そのベッドの脇に立った。そのようにして治癒に携わることが可能だったからだ(上記『伝記』参照)。
こう書くと眉唾に聞こえるご時世だが、スピリチュアルは鵜呑みにするのも、全否定するのもいずれも危ない姿勢である。
物事の真偽を判断するには、一番はそれを唱えているものと直接会うことだと思う。
会ったとしても、言葉では、なんというか「自家薬籠中の物」として丸め込まれてしまうこともあるだろうが、その人物のオーラというか「人格」はごまかせない。それはダイレクトに伝わってくるからだ。
残念ながら、76年も昔の話。
それはかなわない。
では、何よりもその言葉が果たして真実を語っているのか?
が残された吟味の手段だろう。
幸い、ここにはべイン氏の講演(口述)を書記の手により一部始終一言一句まで手を加えることなくまとめたものがある。
それが、著書『心身の神癒(SPIRITUAL AND MENTAL HEALING )』一冊である。
週に二回、14週にもわたり、べイン氏にはイエス・キリストがオーバーシャドウし、ご自身も「1000万ボルトの電流に打たれたかのような」大きな力に身を任せた。そのようにして、自身でも驚くように一切の淀みなく口述を始めたわけだが、聴講者は一様に彼の姿が全く背の高い別人(イエス・キリスト)に変わるさまを目撃、光輝いて、その光は講堂いっぱいにあふれたという。
聴衆の一人で長いキャリアを持つ霊媒師・ギルバート夫人はその様子を次のように語っている。
これは、ナザレのイエスとして知られた肉体をまとったものの存在ではなく、「キリスト意識」という宇宙に遍在する「愛の意識体」だと僕は思う。
いわゆる「チャネリング」とは違い、多くの(=約250人という)聴衆の前で姿格好までもが変容し、その存在が口述するという形式は、この講演に先立って1917年5月から10月にかけてポルトガル・ファティマで聖母マリアが降臨、計五回も少年少女や多くの群衆の前で奇跡を見せた「ファティマの奇跡」を思い出させます。
(「ファティマ」の場合のメッセージは戦争などの警告がメインで、特に公開されていない「第三の預言」は、バチカンの内部腐敗に言及しているといわれます。)
どのみち、まもなく明るみに出てくることでしょう。
「・・・だ」は全体を観ていない
では、ここに『心身の神癒』から、イエス・キリストの「直」の言葉をいくつかご紹介し、蛇足ながら僕の寸感☘を併記してみます。
死はない、あるのは変化だ
感覚が善悪を造る、あるのは久遠の善のみ
神は内なるところに在る
・・・ここでやめます。
同著には、ベイン氏を借りたイエス・キリストの言葉が第一章から第十四章まで合計1643言が掲載されている。
なかには、今日の科学が、眼に見えない霊的世界を探求することで宇宙的な完全なそれに開眼するなどの予言も含まれ、興味深い。
【あとがき】真実か虚構か
いくら抜粋してとはいえ、この調子で列挙していきますと、優に20000文字を超えます。僕自身の心に刻む意味では極めて有意義ですが、読者にとってはこのあたりが限界でしょう。
この『心身の神癒』は、もう40年ほど前、僕がまだ20代の若かりしころに購入した一連の「精神世界の本」のなかの一冊。おそらくは渋谷の大盛堂書店か現在閉店中の八重洲ブックセンターのその方面の書架から購入したものだと思います。その後、何度もの引っ越しや貸し出しなどで紛失したものもありますが、無事にいまだ手元にある稀覯本?です。
今、改めてこの著書を読み直して気づいたことは、まず全編を通して流れる純粋性ということです。
おそらくイエスはそれを「愛」という言葉で表したんだ、と。
そしてまた、イエス自らを人間の手の届かない高みに置いて「神」とし、後世「教義」「教条化」の一途をたどったことへの戒めの言葉が目を引きます。訳者の中里誠吉氏は「はしがき」でこう述べている。
なにせ、初の邦語訳である同書の出版から半世紀余りも経つ今日、内容の純粋性は失われないものの、古い表現や、幾分の宗教臭は拭い去れないところもあって、正直隔世の感は否めません。
ここまで根気よくお読みになってくださったあなたは、当然内なる光に導かれた方でしょう。
そこで、さらに気になる点は本書の信ぴょう性にあるかと思われます。
過去に「偽メシア」「偽キリスト」は履いて捨てるほどに登場してきたからです。
この項の先の方でも触れましたように、原著者マクドナルド・ベインにオーバーシャドウした存在(イエス・キリスト)については、ご本人がそう語っているのではなく、それは聴講者の「証言」である点に注意したい。
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。