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こいつはひょっとして夢の続きか?

と、だれもが一度は考えたことがあるだろう。
大概は、いや単なる思い違いだと、覚めたアタマで否定する。
現実から見ればそうだろうが、
しかし「夢」から見ればそうではない。


今朝、夢を見た。
明晰夢に近い。
ははあ、そういうことだったのか、と何かが大きく腑に落ちた。
しかし、(素面しらふのアタマで思い出しても)
いったい何がどう「そういうことだったのか」分からない。
ということは、論理で納得したんではなく、もっと直感というか
霊感というか・・・
しかし、ああ、そういうことで、そうなるわけだ。
夢の中では、その一部始終がありありとわかっているはずなんだが、
さっぱり思い出せない。

表面的にはこうだ。
何かの事態が生じても、
それをそうだと思わずに、素通りさせるような感覚。
いや、すべてを一旦受け入れてしまう。
すると、それで終わりで、「現象」は生じない。

だったか、そうではなくて、
なんだか根本的な物事が
一件落着してしまったような、
それが今までは困難なことだったのに、
簡単にできてしまう。

それは、発明発見で、僕にとっては画期的な一大事のようなもの。
いやいや、そのものだった(はず)。
しかし、それが夢が覚めた現実世界では無意味なものでしかない。

一朝の夢たぁーこのことか?

「夢の中へ、夢の中へ・・・」
「・・・夢芝居」

なんだか通俗的な歌の歌詞のように、
いまさらだけど、この世の歌の半分は夢を扱っていないだろうか?
いやいや、この現実の半分は夢が支配しているような節がある。

おかしい、 何かがおかしい
ただ夢はいったん途絶えてしまう。
だから、脈絡がないようにそれは朦朧としている
いやいや、なんか怪しい。
途絶えてなんかいない。

夢の中は 夢もうつつも 夢なれば 覚めなば夢も うつつとをしれ

(『続後拾遺和歌集』巻第17の雑歌:覚鑁上人かくばん しょうにん作)。

夢も現実うつつも夢の中
覚めない夢こそ現実だ

といった感性が好きだ。
小うるさい論理を超えているからだ。


横尾忠則《城崎幻想》2006年 


つげ義春《夢の散歩》1972年

TUGE|YOKOO|LYNCH|MAGRITTEの迷宮

うまく思い出せないのがもどかしい

さあて、
この手の話にオチはない。
ただ、それだけの話で、後に何も残らない。

そんな方向性の人物なり、作品というものが
果たして成り立つのか?

これがどーして、結構存在するんですね。

映画監督のデビッドリンチ
つげ義春
横尾忠則
ルネ・マグリット

おお、夢の系譜というかなんというか、
まだまだこの方面の旗手ともいうべき人物はたくさんいますが、ここに挙げた方々はそれぞれの方面を代表しているというべきか。
「変態」「異常」そんな陳腐な形容すら通用しないほどの異世界を描き切っている。
作品を前に「それがどうした?」となっちゃうタイプの方は、夢の入り口で踵を返すようなもの。

総じて言えることは、その偏執狂的な現実描写
現実のリリシズムと薄気味の悪さ
平穏な中での暴力性
客観的なユーモア
無意味で突発的なセクシュアリティ

その意味で、彼らはむしろ正統的なシュールレアリストともいえるだろう。

なかでも、つげさんは、最近「第47回アングレーム国際漫画祭」で渡仏、栄えある「特別栄誉賞」を受賞したニュースはうれしい話題だった。
彼の感性は、フランス人には大変にマッチングしそうだ。
なんたって、アンドレブルトンを生んだ国ですからね。

僕は、つげさんとはお会いしたことはないが、中学生の時分にリアルタイムに月刊『ガロ』を愛読するような生意気な子供で、友人と二人でなんと当時神田神保町にあった青林堂に突撃訪問した思い出がある。材木屋さんの二階だったような記憶があるが、水木しげるさんの漫画にもちょくちょく登場する名物編集長・長井勝一氏が気さくにお声をかけてくれ、少年はそれだけでうれしかったものだ。

僕は、最近の俳優や歌手の名前はほとんど出てこないが、
妙にニッチな、シュルレアリストの名前はいまだにポンポンと出てくる。
マックスエルンスト、イブタンギー、ポールデルボー、フランシスピカビア、トリスタンツァラ、マルセルデュシャン、アントナンアルトー、ロートレアモン・・すべて半世紀以上も前の中学生時分の記憶であるから、この現象はアレですかね? ニンチショウ?

デビッドリンチ《RABBITS》2002年
ルネ・マグリット《脅迫された暗殺者》1927年

マグリットの絵で面白いのは、それがどうもトロンプルイユ(だまし絵)風のうさん臭さをあえて「演出」している風で、しかも妙に落ち着いているというところ。
上の作品にしても、緊迫感というか、劇画的なモチーフでありながら、静的で、時間が止まっているかのような印象すら与える。
これは、デビッドリンチの映画作品にも通じるかもしれない。
(映画タイトルにもあるような)ベルベットのようなベタな色彩で登場人物を描き切ればそうであるほど、なんだかむしろ現実感が希薄になっていくような・・・。(もちろん僕は映画評論家でも何でもないですので、あまたおられる大御所リンチファンの方にお教えいただきたい立場です)

デビッドリンチ
ルネマグリット

そういえば、二人は似ておりますな。

さて、こうした”ゲージツサクヒン”を前に、なぜそのような作品が生まれたのか? もしくは生まれるのか?
という「解説」ほど、蛇足・無粋なものもないだろうが、あえて言っちゃえば、それはおそらくは「意識の大海」のなせる業ではないでしょうかね?

シュールレアリスムは「無意識」を云々しますが、無意識も含め、それは「意識」です。

そこには「目的」も「手段」もありません。
「自己」も「他者」もない。
まだ未分化の状態で、形而上世界のおそらくはアストラル界あたりを指すんだと思います。
見方によっては良くも悪くもある世界。
美しくもあれ、悪夢でもある。
その世界の垣間見グリンプスとでもいうべきか。

そーいやあ、アンドレイタルコフスキーの『惑星ソラリス』の「意識の海」は、その人物の深層心理を具現化してしまうそれでしたねぇ。
「化け物」が具現化するあたり、
その象徴的な表現が怖かったですね。

このあたりが、「芸術」のレベル。

文字通り

人の夢は

はかな

そして、

人生とは

邯鄲かんたんの夢

・・・と見ることができる「目」は、永遠の世界
あなたの本体ですよ。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。