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自己存在を保つための批評

「それでも自己存在を保つために批評があるんちゃうかな」

こういうことを言ったのは、後輩が、考え方やものの見方や論の語り方が借り物に感じられていて、自分から出たものじゃないと呟いたからだった。彼からしたら悩みというほどのものでもなく、ただなんとなく感じている違和感だったり不安だったり不満だったりするというだけなんだろう。

僕らは研究をやっている。研究には枠組みというものがあって、論文や発表はもちろんそれに従う。ただ、論文といえど何かを語る際に、自分のなかからはち切れそうな言葉があって、構成や構造をくずして、こわして、そこから飛び出そうとするような、言葉になる前の「なにか」に悩まされることがままある。

そうした「なにか」は自分のルーツでもあって、大地でもある。研究する動機であって、信念でもある。ただ、それを研究を発表するために必要な枠組みに押し込めようとするときに、どうしようもない、あるいはどうにもならない無力感や悲しみを抱えたりする(もちろんこれは僕らが未熟であることの証左にすぎないのかもしれないけれど)。「なにか」から始まったはずの研究は、ぐにゃぐにゃと柔らかで軟体的な「なにか」を鋳型に入れて、固めなければ成り立たない。そしてもちろん鋳型も固くなければ、固くしなければならない。そうして方法も内容も固まっていく。それが必要なことで、それが正しいはずだ。でも型からはみ出た「なにか」は、研究の外側に噴き出してねちょねちょと蠢いている。

こうした悩みを抱えた彼(あるいは僕)に対して言いたくなったのが、冒頭の言葉だった。
深く考えて発した言葉ではなかった。ただなんとなくそう思っていただけだった。

けれど、後輩に画面の上側に掲げられた言葉を見ると、存外に自分にも当てはまることで、もう少し考えるべきことだと思った。

研究という客観的で固定的な、一人称が介入する隙間のない営みに対して、自分を保つために批評があるという考え方。
ここで僕は普通考えられている意味の「批評」というよりは、自分のための言語活動を想定していたと思う。自分のためというのは、自分の知りたいことを知ることや、こう考えた方が面白いと考えるようなことだと思う。そうして自分以外のものを価値づけて、自分の好きなものを再確認する試みのことなんじゃないかと思う。
僕は通常「批評」をする人たちに比べて著しく知能が劣っているけれど、ここで僕が述べた批評とはそういう「批評」とは違うものだろう。

それは誰にでもできるし、(建前だとしても)世のため人のための研究と違って、自分のために行うことができる。

このような批評とはまた少し違うかもしれないが、僕は後輩に加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』を薦めた。研究的に見ると誤謬があることを言ったりする著者ではあるのだけれど、後輩に伝えたいことは加藤さんが言うことに近いんじゃないかと思ったのだ。

批評は原理的にことばでできた、精妙な、繊細な思考と感覚の身体であることをやめない。心の動きからいったら世間一般の人々の生きる場でのそれとは対極にある、あらゆる先入見から自由で、とぎすまされた自己批評に立つ、精神と手の共同作業である。
加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波現代文庫)・岩波書店・2020

僕の言葉より遥かにわかりやすく、洗練された言葉で、これまで僕が語ったこととは異なるようにも思えるのだけれど、僕が言いたかったことはだいたいこんなことだ。

僕は自分の言葉の未熟さに悩まされつつも、自己存在を保つために、批評的なことを続けてみたいと思う。もちろん他人から見れば批評なんて言えないような代物だとは思うのだけれど。

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