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雪老人【短編小説】

 連峰に獣の声も人の気配もなくなった。寒気にもびくともしない深緑の木々も白く染まっていった。
 音も無く降る雪が、山に溶け、川に溶け、凍ったまつげを覆う。川辺に座る十五、六の少年が、重みのない釣竿を引き上げ、瞬きをして雪を落とした。引き揚げ時だと思ったのだ。傍らのビニール袋に入った缶ビールも凍りついているころだろう。
 雪老人の噂は、冬のとば口に麓の高校を少し冷やかしてすぐさま吹き去っていった。噂の後から雪が追ってくるという始末だった。
 少年がかろうじて耳に入れた噂は、曰く、教室の窓から見晴るかす先の連峰の、緑がほとんど白に変わったころ、土産の酒を持っていき、山中の川辺をうろつけば、雪老人があらわれる。雪男ならぬ雪老人、人を襲うわけでもなく、願いを叶えるわけでもなく、ただ歌い、ただ飲んで、山咲く寒梅を愛し、雪とともに消える、と大体こういうようなものだった。
 ただでさえ娯楽の多い高校生である。誰かの親の知り合いの、姉だの子だのの噂話の根源も、誰と知られることもなく、雪老人は雪降る前に飽きられた。
「おい小僧」
 しゃがれた声がかじかんだ耳を叩いた。ごろごろした岩の中でも手ごろに大きくまずまず扁平なものに座っていた少年は振り返った。
 病的に生白いつるりとした禿げ頭と対照的に、綿花のようなあごひげが爆発的にたくわえられている。ゆるい白紗の下には、骨が浮き出た薄い胸の皮が見えていた。
 これこそ雪老人である。少年は直観し、「なんですか」と返事をしてみる。
「酒はあるか」
 無言で缶ビールを差し出すと、雪老人はしわだらけの手で受け取り、痛いくらいの冷たさもものともせず、プルタブを開け、シャーベット状になったそれを流し込んでしゃりしゃりと噛み砕いた。そして投げやるように尋ねた。
「小僧、名前は」
 名前を言うと、雪老人は飲み乾そうとしたビール缶から目を離し、少し驚いたように少年を見て、「そうか、そうか」とニヤリ笑った。
「それでお前、何しに来た」
「いやただ、暇だったので」
「暇そうな顔には見えんがな」
「噂を聞いたんです」
「噂?」
「お酒を持ってこの山の川辺で待っていたら、あなたに会えるって」
「それで、会ってなんとする」
「会って、別になにも」
 雪老人は「クワハハハ」と笑って、二本目のビールに手を出した。
「それじゃ、会えたので僕は帰ります」
 分厚い雲を突き抜ける陽の、最後の光が消えかかっていた。空は墨で描いた画のようだった。
「まぁ待て。お前の望みはわかっている。叶えてやろう。叶えてやろう」
「噂じゃ願いを叶えてくれるわけではないと」
「叶えてやるよ。じゃから儂を信じて酒をもっと持ってこい。お前の望みはわかっている。冬に雪が降るような、春に花が咲くような、自然の理をお前は求めている。当たり前を求めている。なぜかと聞くか。それはその目が答えている。その息が答えている。その身体が答えている。見ればわかる。見ねばわからぬ。ただそれだけのことだ。……あぁ。酒も尽きた。本日はここまで」
 少年は立ち上がった。すらりと背が高く、腰の曲がった雪老人を二人縦に並べたくらいは軽くある。大人びた顔立ちで、真っすぐ通った鼻立ちと、切れ長の目が特徴的だった。ただ、愁いを含んだ目じりには幸の薄そうな気配が漂っている。けれども、それがまた彼を大人に見せており、年齢確認を怠るスーパーのレジをお咎めなしにくぐらせるのだ。
彼は雪老人の無意味な長広舌の意図を理解した。話をしてやるから、また酒を持ってこいということだ。
 こうして少年は、幾たびか貯めておいた小遣いでビールを買い、雪老人に会いに行った。会うごとに求める本数が増え、ついに小遣いが底をついた。
「なんだこれは」
 雪老人はしかめ面で缶を振ってみせた。その日差し出したのは、父からくすねてきた発泡酒だった。
 つるつるとした頭を苛立たしげに撫で、舌打ちまじりにプルタブを開けると、雪より白い泡がぶくぶくと溢れ出てきた。持ち出した際、逃げるように走ってきたからだった。
 雪老人は怒ったが、少年は久しぶりに笑った。
 雪老人は飲んでしまえばどんな酒でも変わらぬらしく、いつものように酔いつぶれた。
 下山したころから吹雪いてきた。やっとの思いで朽ちかけたアパートに帰ると、怒りを能面のような顔にたたえた父が居間に背中を丸めて座っていた。机の上には握りつぶされた発泡酒の缶が一つだけ転がっている。床には零れた酒のしみが広がっていた。
 小さなテレビのお笑い番組を見つめる父の横顔は、見れば見るほど自分に似ても似つかない。眉の端から顎の先まで、同じところはどこにもなかった。
テレビを消した父は何も言わないが、重く立ち込めた沈黙が、床に就いても少年の首をきりきりと締めあげつづけた。一つの部屋しかないから隣りの布団に寝てはいるが、互いの無理解が二人に深い溝を穿っていた。
 次の日、少年は初めて酒を持たずに雪老人に会いに行ったが、雪老人はあらわれることはなかった。ひび割れた指を何度もさすりながら帰った。
 それから一週間が過ぎ、山の梅が雪を被りながらわずかに咲き始めたころ、少年はそれ相応の覚悟で冷蔵庫から一本だけ発泡酒をくすねた。
 雪老人は木の下で寝ていた。
「おい。安酒一本だけか」
 近づくと雪老人の目はあいており、目やにの向こうの透徹な眼が少年を見すえた。
「どうしたら、いいですか」
 決死の覚悟をかき消すように、雪老人は発泡酒を奪い取り、ぐびぐびと飲み始め、少年には理解できない歌を唄った。
「いーぺいいーぺいふーいーぺい」
 ひとしきり歌い終わると、雪老人はただ一言、「飲め」と言った。
 少年は罪悪感を振り切って、雪老人が口をつけた発泡酒をあおった。頭を重い真綿で殴られたようなぐらつきが襲ってきた。無我夢中で口から言葉を吐き出した。
「俺と父は似てないんです。似ても似つかない。けどどうしようもない。このまま生きていくしかないんだ」
 雪老人はどこからともなく酒を取り出し、浴びせかけるように飲ませた。少年は酒と唾を飛ばし、また言葉を吐き出す。
「父は俺のことを嫌っている。近づいても遠ざかる。声をかけても返事はない。酒をくすねても黙っている。働きもしない。日がな一日寝てばかりいる。起きれば酒を飲んでいる。酔いつぶれてひっくり返っている。まともにひげもそらない。笑うところを見たことがない。何もしない。何もしてくれない。だけど学校にだけは行かせてくれているんだ。教科書代も出してくれる。俺には父がわからない。どうすればいいのかわからない」
「そんな父親は殴ってしまえ。殴られても殴り返せ」
 雪老人は至極楽しそうにそう言った。
 少年は突然立ちあがって、ぬかるんだ山道を駆けだした。泥が跳ね、服が汚れても止まらなかった。木の根に躓き転んだ。雪で体が濡れた。石で腹を打った。頬をすりむき血がにじんだ。それでもこれから受ける痛みに比べれば何ともなかった。あの能面を叩き割ってやるつもりだった。

 青あざを二つ三つ作った少年は、初めてもらった小遣いで、スーパーに酒を買いに行った。買える範囲で一番高い酒をレジに持って行ったが、いつもはされない年齢確認に引っかかった。しかたなく父から発泡酒をもらった。
 梅の色が見えはじめた地白染めの山に登り、川辺をうろついた。まだ寒いが、ごうごうと川は流れ、鳥の鳴き声がかすかに聞こえた。
 日が暮れるまで待ってはいたが、ついぞ雪老人は現れなかった。
 梅の木の下に発泡酒を注ぐと、どこからか「いーぺいいーぺいふーいーぺい」と聞こえてくるような気がした。見上げると梅の花が雪を被り陽に照らされ、色鮮やかに咲いていた。澄んだ空気に香りがよく広がっていた。
 最後の一滴まで注ぎ切って、急いで家路についた。歩きながらぼんやりと考える。
 雪男ならぬ雪老人。
 噂どおりに酒を飲み、歌を唄い、梅を愛し、雪解けとともに消え去った。
噂と違い酒を手に襲いかかって来た。噂と違い願いを叶えてくれた。
 禿げた頭、白いひげ、丸まった背中。
思えば酔いつぶれた姿はどこか父に似ていた。

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