深夜アニメは誰のものか?

表現規制と戦ったあの頃


1999年、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」という、通称「児童ポルノ法」が施行された。
この時、対象になった作品は、井上雄彦作「バガボンド」や三浦建太郎作「ベルセルク」小山ゆう作「あずみ」など。
私は、これらが児童ポルノには一切あたらない、という立場から、激しく反対した。

個人でできることなんて限られているので、何をしたかは思い出せない。署名かなんかしただろうか?
しかし、全作品愛読した経験があり、絶対的に間違っているのは、確かだった。いまだに、上記三作が表現規制にあたるのは間違いだ、と思う。

そして、2010年、もう一度表現規制について問われることがあり、このときの集会が中野近辺であった記憶がある。場所こそはっきり覚えていないが、その行列に並んだことを覚えている。途中、著名な漫画家がふらっと訪れるのを見かけ、おおっと独りごちた。建物の外は、人があふれ、結局私は中までは入れなかった。

これだけ非実在する少年とやらを槍玉に挙げる表現規制について、反対する立場の人が多いのを、みっしりとした行列に並びながら、誇らしく思った。

そして今、私は表現規制について、10年前とは違う印象をもっている。

「土下座で頼んでみた」がアニメ化する、というニュースを目にしたからだ。

本作品を知らない人に、あくまで私の“私見”に基づいた、作品(セリフのあるイラスト集?)について、説明する。(詳しくは、ホームページがあるので、実際に確かめていただきたい。原作への誘導もゾーニングなく誰もがチェックできる形になっているので、原作も合わせて、ぜひ。)

ストーリーは、男子高校生と思しき男性が、女子高生に土下座をして、パンツなど下着をみせてもらうように頼む、というもの。(アニメの放送はまだ始まっていないので、どういうストーリーになるかはいまのところ不明。あくまで、原作について)
ホームページをご確認いただきたいのだが、パンツ見せて、と言われて困っている少女を視聴者が視姦を楽しむようなイラストで1コマいっぱいに描かれる。

――これを、どう思うだろうか?

土下座をすることで、女子高生の下着を見られること、がテレビの中で、“楽しいこと”として、エンターテインメントとして、放送されることを。

例えば、オフィスで「お願いです、パンツ見せてください」という頼まれごとをされた時、どういう気持になるだろうか?

さらに、これが上司と部下だったら、どうだろうか?
または、同僚同士だったら許される行為なのか?

これはパワハラであり、セクハラである。
はっきり言うと、性暴力以外の何者でもない。

というのも、2,011年に制定された厚生労働省のセクシャルハラスメントの留意事項の第8に、こう記載があるからだ。

――セクシュアルハラスメントを行った者(以下「行為者」という。)からのセクシュアルハラスメントの被害をできるだけ軽くしたいとの心理などから、やむを得ず行為者に迎合するようなメール等を送ることや、行為者の誘いを受け入れることがあるが、これらの事実がセクシュアルハラスメントを受けたことを単純に否定する理由にはならないこと。――

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/dl/120118a.pdf

つまり、行為者の誘いを受け入れた場合であっても、その行為(誘い)そのものがセクハラにあたる場合、セクハラ言動を受けた側が、承諾したかどうかの結果に関わらず、セクハラにあたるのだ。

実際に、「パンツを見せて」という発言を受けた場合、
正しい対処方法として、携帯か何かでこっそり録音をして、警察に突き出すか、優しさがあれば、人事部に提供するか。または、ユニオンに持っていくのも良いだろう。

キャバクラなどの風俗店ではもしかしたら、行われていて、それがあたりまえになっている人もいるのかもしれないが、「パンツを見せて」と発言することそのものが、通常の大人の世界では、犯罪だ。

これが、すでに性交渉をしている、同意がある上での恋人同士が、オフィスというパブリシティのある場所でなく、プライベートが確保された自宅やホテルなどで、コミュニケーションの一つとして行っているのならまだしも(それは個人間の問題だ)、パブリックな場所で“土下座”をし、下着を見せて、と要求することは、それ自体が性暴力なのだ。

これを、他の社員に見える場で行うことも、パワハラにしか該当しない。
どう転んでも、犯罪にしかならない。

また、内閣府でも、“頼んで”性行為を強要することは、性暴力である、とはっきりと規定をしている。
https://pilcon.org/help-line/sexualviolence

土下座すれば、性交渉の同意をとった、ということにはならないことは、法的にも倫理的にも社会的にも明白である。

それは、同意ではなく、強要だからだ。
内閣府のページにもあるように、“頼む”ことで、不快な行為を強要する、というのは、たとえ言語上であっても、パワハラである。
選択の余地を与えれば、強要じゃない、ということではなく、こうした物言い(相手を性的に搾取する対象とする発言をする)そのものが、パワハラでありセクハラだ。

社会が成熟してきたおかげで、例えば社内で、「君は太っているから痩せないと、クライアントに印象悪いよ」「顔が良くないから、もっときちんとお化粧したら?」「学歴が乏しいから、仕事が遅いんだよねえ」などがパワハラにあたることは、徹底されてはじめている。

「パンツ見せて」という言動は、社会的に成熟した企業では、通用しない。

では、あらためて考えてみよう。
「土下座するから、パンツ見せてもらえますか?」という行動を、誰でもチャンネルを合わせれば視聴することができる、公共性の高いテレビ局で放送していいのかどうか? を。

フィクションだから、許容されていいのだろうか?

テレビ番組として制作されることは、スポンサーがつくことになるが、そのスポンサー企業の方々は、こういった行為を行うことを、楽しいこと、として受け止めるのであろうか?

成人した大人が所属するオフィスではなく、
未成年の所属する高校が舞台で、未成年間で行われることであれば、“戯言”として、処理されるべきだろうか?

フィクションだから? それが放送されることで、社会へどう影響するかは考える必要は全くないのだろうか?

もし、自分の子どもが、言う立場や言われる立場になった場合、
“青春時代のちょっとした微笑ましいこと”として、受け止めるべきか?

性犯罪を肯定している要素は、ほとんどないのか?

未成年を性的に搾取している、それは性犯罪以上に、子どもへの性虐待に該当しないのだろうか?
児童福祉法34条1項6号の定義には抵触しにくいものの、では未成年をモデルにしたセクハラは、児童ポルノ的な要素は全くないのだろうか?

抵触しにくい、ということを逆手にとって、児ポ法ギリギリのラインを楽しむための作品、として制作されている部分はないのか?

誰のための、作品か?

性に関する作品を発表することは、なんら問題ないと思う。

性的な要素に関係する絵画は、今までも多く名画として存在している。
バルテュスの「夢見るテレーズ」は、それを強く証明していると思う。
メトロポリタン美術館では、強い抗議行動も起きているそうだが、あれが芸術作品として高い要素がある、ということについて、私は異論がない、という立場だ。

バルテュスの言葉を借りれば
「絵は見るものであり、読むものではない」
に、尽きるだろう。

その絵画を見て、どういう印象を受け取るかは、見る側の完全に自由な解釈だ。

では、「夢見るテレーズ」に吹き出しが加えられたらどうであろうか?

――「とっても眠いわ。しばらくこのままで……」
――「猫がピチャピチャ舐めているのは、ミルクかしら?」
――「なんだかすごく、暑いの」

想像力が乏しいため、このような発言しか出てこなくて、大変申し訳無い。

ただ、たとえどんな発言であっても、吹き出しが付くかつかないか、テキストとして挿入されることがあるかないかで、表現というのはかなり変わってくる。
(ちなみに、バルテュスは少女の下半身を露出させた「ギターレッスン」を書いた時は、経済的に困窮している時期で、スキャンダルから注目され、作家として売れることを狙って書いたが後悔している部分もあると、バルテュス自身が後に語っているそうだ。)

漫画表現を考えるのに重要なことは、漫画にはテキストが不可欠であり、つまりは、漫画は絵画ほど見るという行為を通して自由に行われるものではなく、作者の意図が言葉を通してはっきりと読者に伝わること、伝える必要がある表現である、ということだ。

では、「土下座で頼んでみた」に書かれたセリフを通してをあくまで“私見”で考えると、これが青少年に、性とは甘美な魅力があり、女性の身体に危険性も伴うもので、苦痛もあり、社会的な影響のある行為である、といったことまで包括して描かれているようには思えない。

これもまた“私見”であるが、性について描かれた作品ではなく、“性行為”を利用して、少女たちの困った顔を楽しんでいる作品、にしか見えないのだ。
大げさに言うと、女子高生のパンツを視姦することを喜んでいる中年男性目線しか、感じることができない。

端的に言って、楽しめるのは、未成年の少女が困っている表情をみて優越感を覚えるのが好きな視聴者が大多数を占めるのではないだろうか。

「ベルセルク」「バカボンド」「あずみ」といった、性を通して人の生き様を考える、という作品と同じレベルに仕上がっているとはどうも思えない。

性的に貶められて困っている未成年の少女の表情を見て楽しむことがメインモチーフの作品、というのは、どうしても女性蔑視的な印象をもってしまう。

ただ笑いをとるためのコメディであれば、どうして女性を貶める必要があるのだろうか? 男性の性欲というのは仕方がないもので、それは女性の人権を貶めて笑うことによって解消されるべきことか?

ただ、これに関しては原作を個々人が読まないと判断しにくい部分もあると思う。
原作を読んだ上で、個々人に考えていただく問題だとも思う。

メディアに露出する、ということ

冒頭でも説明した通り、私は表現規制に反対だし、性に関する作品を発表することは、問題がない、という立場だ。

なので、出版社と作者個人が全責任を負い、作品を出すことはなにも問題が無いと思う。
また、性に関する作品を発表することに政府によって発禁という処分を強く求める規制がされることにも、大いに反対だ。

ただ、性暴力を楽しむような、性行為のみを端的に描く作品は、ゾーニングが必要だと思う。
例えば、これが少年に人気の週刊誌や、未成年の読者から支持されている作家が掲載されている雑誌に、年齢制限なく購入できるのであれば、ゾーニングはされていないと言える。

ゾーニングの良い例は、コミックマーケットだ。

コミックマーケットでは、少しでも未成年にふさわしくないイラストが登場する場合、18歳未満には販売してはいけないし、そういった注意書きをブースや作品の見やすい場所に提示することが、徹底されている。
何度も主催者側が時間を置いて、チェックに巡回したりもする。

では、アニメとして深夜帯で放送することは、ゾーニングされることになるのだろうか。チャンネルをつければ、誰でも見られる状態は、ゾーニングされているのか? 

もう一度想像していただきたい。

――深夜帯だから、見なければいい。

そういった意見がいくつかある。
ただ、人にはそれぞれ事情があるし、深夜帯の放送時間というのは、女性蔑視を喜ぶ人に与えられているものだから、そういった番組を放送してもいいのだろうか?

子どもが寝ている時間(という決めつけ)であるから、なにをしてもいいのだろうか?

例えば、アニメが好きな人がいる。
仕事を全て終え、夜中にやっとプライベートな時間ができ、ゆったりした気持ちでチャンネルを合わせる。
すると、「少女が土下座でパンツを見せてほしい」とセクハラをされているシーンが登場する……。

実際に、残念だったことがある。

それは、あの「宇崎ちゃんは遊びたい!」をうっかり深夜放送見てしまったときのことだ。

献血のポスターで、大炎上した「宇崎ちゃんは遊びたい!」であるが、私はポスターに関しては(好きなデザインではないが)、表現規制にあたるかどうか、と聞かれたら、該当しないのではないか? という印象を持っていた。

なぜなら、単に胸の大きな女性が知性の足りない発言をしていただけ、というデザインであるからだ。

胸のサイズの大きな女性は、今もいるし、魅力的だし、性格が良くても悪くても、単に存在するということだけで法で罰を受けるべき存在ではない。
食事や飲み物を運びながら、挑発的な発言をしていても、なにも問題はないのではないか?
と、私は考えていた。

例えば「花のズボラ飯」が出版された時、食事中の顔が“エロい”という理由で、ゾーニングされそうになったことがあるが、極めて愚かな対応だったと思う。

現実の女性だって、丈の短いスカートを履き、服のデザインによっては胸の谷間が見えるかもしれない。夏のプールや海辺で水着を着ることだってあるだろう。

それなのに、なぜ服装などの見た目でジャッジをするのか。
露出度の高い服装をしている女性は、痴漢などの性暴力を受け入れる対象としてみられなければならないのか?
少し不可解な気持ちになったのだ。

しかし、実際に放送された「宇崎ちゃんは遊びたい!」を見て、ショックを受けた。

家電量販店で、VRの筐体で遊んでいる男性に、胸を揉まれて、何も抵抗をしない姿がそこにあったからだ。
また、宇崎ちゃんの隣にいた家電量販店の店員も、その姿を見て、男性を注意したり、宇崎ちゃんを守ったりはしなかった。

こんなことって、あるのだろうか?

(ちなみに、VRなどゲーム機器で胸を揉まれるような危険性は一切無いので、そこは安心してプレイしていただきたい。基本的に、そのメーカーのゲーム筐体もリアルな女性の胸を揉むことを目的として作られていない。)

家電量販店は、どうお思いなのだろうか?
もし、こういった状況が展開された場合、ただ見ているだけなのだろうか?

家電量販店の方に「宇崎ちゃんは遊びたい!」について、伺いたいものだ。
家電量販店はああいった行為を肯定する企業なのだろうか?

フロアで、女性が胸を揉まれている日本って、社会として正しいのだろうか?

胸が大きいのが問題なのではない。
外見は一切関係ない。
この場合、胸の大きさに関わらず、性暴力を受けてそれを否定しないこと、楽しいこととして社会的に受け入れる状況が描かれることは、正しいことなのだろうか?

最初から、このチャンネルに合わせなければいいではないか?
という意見もあるだろう。
しかし、否定するために見るのではなく、なんとはなしに見てしまう視聴者もいることは考えないのだろうか?
子どもはもちろん、深夜番組の枠は、女性蔑視を容認する人々のためにあるものなのか?

深夜アニメ、というのは常識が通用しない作品ばかりを放送する、パラレルワールドか?

日本には、性暴力がまかり通るパラレルワールドと、通常の世界の2つの常識が存在するのだろうか?

テレビの番組枠を管理しているのは誰か

例えば「宇崎ちゃんは遊びたい」「土下座でたのんでみた」の企画が通らなかった場合、他の作品が制作され、放送できるチャンスが巡ってくる。

つまり、番組枠を使ってでも、こういった作品を放送すべきなのか? 

女性が視聴する可能性があるのに、放送すべき作品であるのか? 社会的に女性を性的に虐げることへのメッセージにはつながらないのか?

テレビ局には、もう一度考えていただきたい。

未成年の少女が土下座をされて、パンツ見せる見せない、のやり取りをする番組は放送すべきなのだろうか?
まるで、JK風俗店やセクキャバでしか行われていないような行為を、他の番組より優先して制作すべきか?
ああいった番組を好む視聴者は一定数存在するから、数字はとれるだろう。
だからと言って、女性が不快に思う表現が多く、性犯罪を連想させる内容であっても、放送すべきなのであろうか?
(風俗店に関しては、いろいろな意見があるが、女性たちのセーフティネットになっている部分もあるので、否定をしたくはない。)

ストーリーラインが薄いと、作画や脚本がいじりやすくて楽、という長所はあるだろう。
しかし、それでも他にコメディ作品はあるはずだ。

また、「クレヨンしんちゃん」のように、優秀な脚本家とセンスのある監督がタッグを組み、「土下座でたのんでみた」が哲学的なレベルにまで高められる可能性がある。
原作に描かれたレベルのストーリーは消え、もっと高次なレベルへと。

女性蔑視的な内容は、落語のような実存的な示唆に富むアイロニカルな方向に転換し(バタイユもびっくりな)、原作とは全く違う方向の、むしろ女性を尊重するような物語に可変される可能性も無きにしもあらず。
……そうなるのであれば、ぜひ見てみたい。

テレビ番組には、スポンサーがいる

民放の場合、テレビはテレビ局が制作費を全額負担することはなく、スポンサーが番組枠を買い(日本の場合は電通が買い占めている状況。つまり、電通から許可を得る、というのも大切なことだ)コマーシャルとして広告を出すことで、成り立っている。

なので、「土下座で頼んでみた」が、どの局で放送されるのか、かなり気になっている。

インターネットで年齢制限をかけるのか?
それとも、Netflixやアマゾンプライムビデオで、年齢制限をかけて放送するのか?

――はたまた、地上波で誰でもみられる形をとって、深夜帯に放送するのか。

「土下座で頼んでみた」に、どの企業のスポンサーがつくのだろうか?

その企業では未成年に土下座でパンツを見せて、と頼むことを許可するのだろうか?
少なくとも、スポンサーとして資金を出す以上、作品内容についての支持する気持ちが企業としてある、と認めるべきだろう。

テレビ局や番組スポンサーになる企業は、視聴率と引き換えに、女性蔑視を助長していることは、意識していただきたい。
また、どのスポンサーがどういった番組の制作予算を出したのか、それにはどういう意図があるのか、を考えないほど、女性や最近の若い子は頭が悪くはないので、マーケットの分野にもゆっくりと数字としてあらわれていくだろう。

成熟したマーケットでは、どの程度通用するのか、考えてほしい。

第三者委員会をつくって、独立したゾーニングを

では、なぜこういった作品が、メディアという表舞台に出るのであろうか?

それは、表現の自由という傘に隠れて、性描写と性暴力が混ざってしまっているからだと思う。
「土下座で頼んでみた」は、わかりやすく性暴力に所属する部分のある作品である。

しかし、内容的にかなり線引きが難しい作品もある。

例えば、押見修造「惡の華」。
高校生の性の目覚め、というのが作品ではっきりと描かれている。

しかし、「惡の華」が女性蔑視を勧めるもので、性暴力を低い知性で肯定している、と誰が読み取るだろうか?
「惡の華」は、積極的には勧められないかもしれないが、「惡の華」を読む中高生がいたとして、批判する気には、全くならない。むしろ、あの作品で描かれたことを、深く考えてほしい、とすら思う。

永井豪の一連の作品も、キリスト教などをモチーフに宗教へとコミュニティが依存する様、さらに神の存在や魂の救済について描かれたものであり、多少性的な描写があっても、やはりこれも女性蔑視や子どもへの性暴力を肯定している作品ではない、と私には読める。

ただ、もし児童ポルノについての法規制が進んでしまった場合、他の端的に性暴力をターゲットとした作品と、「惡の華」も「デビルマン」も同列に並べられてしまう可能性があるのだ。

では、このまま性暴力と女性蔑視を漫画やアニメといったメディアはたれ流しにすべきなのだろうか?

性暴力や女性蔑視を行う作品をゾーニングしてほしいという意見と、表現の自由は、同時に成り立たないのだろうか?

それはとても悲しいことだ。
子どもへの性暴力や、女性の人権を、アニメや漫画によって蹂躙されるなんて……。
アニメや漫画の自由と、女性の人権が天秤にかけられるなんて、悲惨だ。
どちらかが正しくどちらかが間違っていることはない。

それとも、このままアマゾンなどのGAFAを筆頭にするような企業、欧米諸国や中国からの要請で、強制的に性描写も性暴力も一緒に淘汰され、発禁になるのを待つべきなのだろうか?

悲しい。まるで、日本が常識ないように思われるのは。
性描写はあっても、物語としての内容が極めて良い作品もたくさんあるのに。

どうか、表現の自由を再考する第三者委員会を作って欲しい。
なぜ、映画倫理機構はあって、アニメ倫理機構はないのだろうか?

その際、委員会はどこの出版社に偏ることがないようにしていただきたい。

漫画に詳しい専門家、
性被害に詳しいカウンセラーなどの、専門家
文化全般に詳しい人、
女性の権利に詳しい人

など表現を発信することについて詳しい側と、それを読者や視聴者などのユーザーとして受け取る側、双方が対等な立場になるように構成するのも、大事なことだ。

そして、議事録もしっかりと残す。黒塗りにせず。

日本の漫画文化を政治取引に利用されてはならない、と思う。
そのためにも、政府からは独立した立場の、読者からの投書も受け入れることもし、公平な視点と、社会に対する強い責任感をもち、漫画アニメ文化を温かく観察する機関ができることを、強く望む。

出版社に気をつけてほしいこと

『ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。』

という署名ページが出来上がったように※1、今、再び性暴力を描くことへの社会的な影響について、再考する時期が来ている、と思う。

性暴力描写のあるエロ本を無くせ、発禁しろ、というのではなく、
きちんとエロ本、性暴力を描く作家を尊重した上で、正しいマーケットを開いてほしいと思う。

発売禁止ではなく、どうかゾーニングを。

そしてそのゾーニングは作品名だけでなく、できれば作者名でもゾーニングをした方が、より社会的に受け入れられやすいはずだと思う。

例えば、映画館のシートで未成年の少女の姿をした宇宙人(しかし外見は少女)の、女性器をまさぐる。映画が上映中で他の観客もいる中で。
幽霊やおばけ、宇宙人、半獣など、完全な人ではないのだが、女性器があきらかに女性器として描かれていたり、未成年の身体で描かれている少年、もしくは少女が、性暴力に該当するような、性行為を行う。

全く安全ではないところで。

(セーフティ・セックスについては、シオリーヌさんがPVとしてわかりやすくまとめている。参考になるだろう。)

そういった作家が、性暴力以外の作品を描いた場合、読者はどう受け止めるであろうか?

「Aの作品では性暴力を描いたけど、Bの作品では“サービスページ”はあるけど、エロはない(サービスページがあってエロ本ではない、という感覚があまりに古く理解しにくいが)」
と、紹介されて、性暴力描写を好まない読者が読むだろうか?

最近、教師による生徒への性暴力が何件か報告されているが(そういった教師は極一部で、真面目な教師の方が多いはず、だ)、性暴力を行使した教師が、また同じ教職に復帰した場合、子どもを預けられるだろうか?

心理的にかなり難しいと思う。

エロを積極的に描く作家の中には、エロ作品で使う時のペンネームと、未成年が読んで問題無いペンネームを、自主的に分ける作家がいる。あきらかに、絵のタッチから同一人物だとわかる作者もいるが、過度な性暴力を伴う作品を読むことを好まないので、心遣いには大変感謝している。

ペンネームを遣い分けることは、マーケットの観点からできないのであろうか? 性暴力を伴うサービスページが無いと、売れない作家もいるから、できないのであろうか?

たとえ、絵のタッチが似ていても構わない。
――性暴力と、未成年が読んでも問題無い作品を同じマーケットに並べないこと。
――未成年への影響を考えていること、責任をとっている事
など、姿勢がわかることが、未成年の読者への心配りにもなると思う。

例えば、
「エロ書くけど、そうじゃない作品だって書いたっていいでしょ、作家の自由では?」
という態度と
「性暴力にあたるかもしれない作品と、未成年に向けた作品は分けて発表している」
という作家がいるとして、読者がどちらに好感をもつかは一目瞭然である。

あくまで私の場合であるが、たとえその作家が性暴力と関係のない作品を書いても、性暴力を楽しげに描く作品を書いているのを知ってしまうと、どうしても性暴力がない作品すら読めなくなってしまう。

性暴力描写が無い作品が、どんなに優れていても、だ。

また、性暴力を描く作家に限って、他の性暴力を書かないという作品にも、かなりゆるく性暴力が描かれている傾向がある。
もしかしたら、作家そのものに、性暴力についての知識がない状態で、性を扱う作品を書いているのだと思う。またそれにより、どんどん認識が歪んでいってしまうのかもしれない。売れれば売れるほど、周囲に厳しい意見を言う人はいなくなってゆき(また出版社の気質的に、ベテランの作家にはある程度ストーリーラインの常識は若手の編集者が口出しせずともわかっているから、放っておくという部分もあるかもしれない)、雑誌連載だと漫画を書く時間しかなくなり、大人の社会から隔絶されてしまう。

また、編集部によって、性暴力描写の認識に違いがあるのかもしれない、と感じる部分がある。

例えば、講談社の「モーニング」「アフタヌーン」では、性描写のある作品もあるのだが、性器を不用意に出すような(他社の作品によっては女性の性器をパンツ越しに覗き見できるようなコマを多用する作品もあるのだ)性暴力のある描写は少なく、安心して読める。
おそらくであるが、編集部にある一定の基準のようなものが存在するのではないか? と思う。

では、連載作品に性暴力描写がないと、色気がなく、つまらないか、といえばそういうわけではない。

性を描いても、物語のラインと絵のセンスがしっかりしていれば、過度の性暴力におもねらず、色気のある面白い作品、というのは制作できるのだ。

性暴力=エロい作品だけが、マーケットとして数字がとれる。だから女性の人権や未成年への影響など、社会的な責任は全部無視して、より過激な描写のある作品をゾーニングせずに出版する、という態度はあらためていただきたい。

どうか、編集部には、性暴力に関する知識をつけていただきたい。
男性目線だけが優れているわけではない、という事は十分に証明されているはずなのだ。

フィクションだから何を書いても自由であり、性暴力を肯定すべきこととして、楽しく描く、という古い価値観は、今後かなり確実に遠のいていくだろう。

素人が個人で自費出版するのならともかく、出版社を通してプロとして作品を出すのであれば、表現の自由を逆手にとって、社会的に悪影響を及ぼす作品を書くのは、一番に責任を取るべきは企画を通した出版社であるが、作者に責任がないわけではない。

そうなる場合を見越して、今後、性暴力を描いていた作家をどう守るか、についても編集者は考えてほしい。
性暴力を描いていた作家が、性暴力のない作品をどの媒体で発表し、読者にどう受け取られるのかを。

性暴力について、マニュアルをつくるでもいいし、勉強会を設定するのでもいい。※2

どういった性描写が性暴力にあたるのか、書く、書かないの選択はどうするか、書くのであればどういった形で発表するのか……。

性暴力について知らなかったから、たとえ書いたことが性暴力にあたったとしても、責任はない、という時代は、海外の流れをみているともうすぐ終わる。

絵に力のある作家が、性暴力を知らないがために、性暴力要素の強い作品を描き、キャリアが潰されていくのをみるのは、切なくなる。

日本の漫画がもっと成熟したメディアになるために。
漫画がより自由な発想で、より高いステージで活動するために。

女性への過度な性暴力を、楽しい事として視姦することだけのために、描かくことがどんな解釈をされ、社会に受け入れられ、キャリアにつながるのか、考えていただきたい。

漫画というメディアが、性暴力についてきちんと考えられるメディアであってほしいと強く願う。


※1(署名の内容を否定しにくいがために、この署名ページの発起人の性別や身分について追求している方々がいたが――中にはツイッターの利用規定に抵触しそうなユーザーも――今の論点からはずれるので、留め置く)

※2(参考図書として集英社文庫「部長、その恋愛はセクハラです」著・牟田和恵を、勧めたい。)

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