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労働Gメンは突然に:第2話「所在不明」

第1話から読む


登場人物

時野 龍牙ときの りゅうが 23歳
新人の労働基準監督官。角宇乃かくうの労働基準監督署・第一方面所属。格闘技は習ったことがない。

加平 蒼佑かひら そうすけ 30歳
6年目の労働基準監督官。第一方面所属。時野の直属の先輩。クール・無口・長身・細身・目つき悪し。あだ名は「冷徹王子」

紙地 嵩史かみじ たかふみ 43歳
20年目の労働基準監督官。役職名は第一方面主任。時野と加平の直属の上司。加平の過激な言動に心労が絶えない管理職。

阿久徳 大二郎あくとく だいじろう
阿久徳興業の社長。ド派手なスラックスがトレードマーク。労働トラブルにアドバイスしてくれた加平に一目置く。

角宇乃労働基準監督署 配置図(1階)

本編:第2話「所在不明」

時野ときのくんの名前さー、龍牙りゅうがって。なんか強そうでいいよねー」

 時野が書類を綴る作業をしていると、安全衛生課長の高光たかみつが話しかけてきた。

「名前負けしてるって、よく言われます……」

 時野が恥ずかしそうに言うと、高光は笑いながら話を続ける。

「俺もさー、『れん』っていうんだけど、顔面に対して名前がかっこよすぎるってよく言われるのよ。こんな二枚目つかまえて、ひっどいよな」

 高光は話好きで、雑談をしている姿をよく見かける。

 忙しい人からは時に嫌がられたりもしているが、時野のような新参者にとって、話しかけてくれる先輩はありがたい。

「それにしてもこの間の加平、申告者への冷徹対応が突き抜けてたね」

 阿久徳興業の申告の件だ。

 借金を取り立てる方法を社長に指南したことに激高して申告者が怒鳴り込んできたのだが、加平が返り討ちにしたのだ。

「えー、すごくかっこよかったけどな。とにかく無口でとっつきにくい人としか思ってなかったけど、加平さんのこと見直しちゃった」

 話に入ってきたのは、渡辺相談員だ。

 今日は時野の席から遠い席に座っているはずだが、たまたま一方面の近くを通りがかったらしい。

「加平はいいよな。普段無口なもんだから、たまに口を開いて普通のこと言っただけで、美人相談員さんに見直されちゃうんだから」

 渡辺相談員は、くすくすと笑っている。悪い気はしないようだ。

「あいつ『冷徹王子』なんて言われて調子乗ってるけど、先輩の俺に対しても、愛想がないのなんのって」

 高光課長は言いたい放題言っていたのだが、席を外していた加平が事務室の入り口から入ってきたのが見えて、この話はお開きとなった。

「加平さん、復命書ふくめいしょ編綴へんてつ終わりました」

「おう」

 復命書とは、職員が労働基準監督署長あてに作成する報告書のことだ。

 業務を行ったら、復命書を作成して上司の決裁を受け、事案が完結したら所定のファイルに綴る。これが一連の仕事の流れなのだという。

(確かに加平さんは寡黙だ。だけど、必要なことははっきりいい放つところ、僕もかっこいいと思う)

 加平の方を見ると、今月指導する予定の事業場の資料だろうか、頬杖をついて書類を眺めている。

(高光課長みたいに雑談してくれたらもう少し加平さんと打ち解けられるかもだけど、今のところ皆無。どうすれば……)

 時野が加平を見つめながら考えていると、視線に気づいた加平が顔をしかめた。

「なんだよ」

「えーと……」

 時野が焦っていると、受付から加平を呼ぶ声が聞こえた。

「加平さんにお客様でーす」

 加平が受付に視線を移す。時野もつられて受付の方を見ると――。

(あっ! あのド派手なスラックスは……)

「加平さーん! 先日はお世話になりました!」

 受付で手を振っているのは阿久徳興業の社長だ。

 先日と同様、社名の入った作業着とド派手なスラックスを着用している。

 違うことと言えば、昭和の香りがするセカンドバッグを小脇に抱えていることぐらいか。

 来客が阿久徳社長だと分かると、加平は時野の方を見てくいっと顎を動かした。

「お前も来い、新監」

(そうだ、打ち解けるどころか、まだちゃんと名前で呼んでもらったことすらなかったんだった……)

 時野はがっくりとうなだれながら、受付へ向かう加平の後を追ったのだった。

「加平さんにアドバイスいただいたとおり、少額訴訟をやってやりましたよ! 息子にやらせたんですがね」

 阿久徳興業を訪問した際、時野達を案内してくれた眼鏡の男性は、阿久徳社長の息子なのだという。

「裁判所で会った山本の苦痛そうな顔、いい気味ったらありませんでした。もちろん私が勝訴して、あいつの癪に障るスポーツカーを差し押さえてやりましたよ!」

 時野と加平はカウンターを挟んで阿久徳社長と向かい合って座っている。

 阿久徳社長は一人ではなく、息子とは別の男性を伴っていた。

(同じ作業着を着ているところを見ると、阿久徳興業の従業員かな?)

「それにしても山本のスポーツカー、まったくの見掛け倒しでしたよ。対した値がつかなくて、もろもろ引いたら30万円ぽっちにしかならなくて。結局20万円がとりっぱぐれになりましたけど、スポーツカーを差し押さえた時の山本の血の気の引いた顔ったら!」

 申告監督の日は、怒った顔や絶望した顔しか見なかったが、今日の阿久徳社長は上機嫌で晴れやかな表情をしている。

(今日は金髪男とのその後を報告しに来てくれたのだろうか?)

「いやいや、前置きが長くなってすみません。今日は折り入って加平さんにご相談がありましてね。この高田の力になってほしいんですよ」

 青白い顔でうつむきがちに座っている高田の肩を、阿久徳社長が隣からバンとたたいた。

「高田は最近うちに入社したんですが、前の勤め先で給料が払われていないそうなんですよ。請求書でも送り付けろと言ったんですが、請求しようにも事業主が所在不明だそうでね」

 ここまで関心がなさそうに無表情で聞いていた加平だったが、阿久徳社長の発言にぴくりと眉を動かした。

 角宇乃労働基準監督署から官用車を走らせること、40分――。

「名刺の所在地だと、ここみたいですね」

 そこにあるのは、道路に面した二階建ての建物だ。

 一階は店舗のようだがシャッターが閉められており、営業している気配はない。

(高田さんから聞いた事業場名は『ムラサキ工業』のはずだけど……)

 看板も表札もなく、灰色のシャッターの奥を窺うこともできない。どのような商売をしていたのかすらわからない状態だ。

『面接をしたのはファミレスでした。その場で採用が決まり、面接をしてくれた住友さんがリーダーとして仕事を仕切っていました。仕事は直行直帰だったので、事務所に行ったことはなかったんです』

 採用された後、労働条件通知書はもちろん、給与明細ももらったことがないと言う。

 つまり、ムラサキ工業との雇用関係があったことを示す書類は何もない。

 かろうじてあるものといえば、住友からもらった名刺だけらしい。

『ムラサキ工業 部長 住友剛』

 名刺に併記された所在地はこの場所のはずなのだが、ここが「ムラサキ工業」であることを表すものは、今のところ見当たらない。

 申告者の高田は建設現場の下請け作業員として働いていた。

 住友から現場の場所や入り時間が指示され、事業場に寄ることなく直接現場に行っていたという。

(『いわゆる人夫出しにんぷだしだな』と加平さんは言っていたけど)

 「人夫出し」とは、建設現場に作業員を派遣することを言う。

 法律上、建設業に労働者を派遣することは認められていない。

 このため、あくまで下請けとして現場に入らなければならないが、人手が足りないときに「応援」と称して、下請け事業場が作業員を貸し借りする文化は従来から建設業界に根付いており、人夫出しだけ行う事業場も少なからず存在しているのだ。

(賃金は毎月15日締め、当月末日に振込払い。12月16日から3月末日までの3か月半分の賃金未払――)

 賃金が払われなくなってからも、申告者は現場に行き続けた。

『住友さんから次の現場と入り時間が送られてくるので、行かざるを得なかったんです。指示された通り現場に入らなかったら、余計に給料を払ってもらえないんじゃないかと怖くて……』

 しかし、やがて食べることにも困るようになり、空腹でフラフラしているところを阿久徳社長に拾われたらしい。

(阿久徳興業がムラサキ工業と同じ現場に入っていたことで、阿久徳社長が高田さんを見つけたらしいけど。金髪男の時といい、阿久徳さんは困ってる労働者を見つけるのが上手だ)

 時野と加平が閉ざされたシャッターの前で立ち尽くしていると、どこかから人の声が聞こえてきた。年配の女性のようだ。

「じゃあ先生、今日はありがとうございました」

 声がするのは建物の脇からだ。

 よく見ると、建物の脇に細い通路があり、通路の突き当りに玄関らしきドアが見えた。

 玄関から出てきた若い男性が「先生」のようだ。

 前髪は長めだが両サイドを刈り上げた髪型で、細身のスーツがよく似合っている。

 「先生」が行ってしまい、老婆が玄関の奥に消えそうになった時、加平が瞬時に近づいてドアノブをつかむ。

「すみません、労働基準監督署の者ですが」

 閉まりかけたドアを突然開かれて、老婆は目を見開いて驚いている。

「わぁ、びっくりした。労働……なんですって?」

「角宇乃労働基準監督署の加平といいます」

 加平は証票を取り出して開き、老婆に見せた。

 証票とは労働基準監督官の身分証明書で、警察官で言うところの警察手帳である。

「ああ、基準局の人ね」

(基準局?)

「こちらに、ムラサキ工業という事業場があると聞いてきたんですが」

「ああ……ムラサキ工業さん。移転して今はいないわ」

 老婆はブラウスにロングスカート、上からカーディガンを羽織っており、上品な印象だ。年齢は、60代後半か。

「失礼ですが、あなたは……?」

「一階の店舗の大家なの。一階の奥と二階が私の自宅。まあそれも今月までだけど」

(今月まで? 引っ越すのだろうか)

「ムラサキ工業はいつまでここにあったのでしょうか」

「うーん、いつだったかしらねえー」

 大家は顔に手を当てて考え込んでいるが、答えが出てきそうな様子はない。

「ムラサキ工業の連絡先はわかりませんか」

「さあ……。 ここで引いていた固定電話は、引っ越したときに解約したんじゃないかしら」

「ムラサキ工業のことで何かご存じのことはありませんか」

「そう言われても……」

 加平がぐいぐいと大家にせまる。大家の表情に恐怖の色が見え始めた。

「あの、加平さん」

 時野が加平の腕を引っ張った。

「なんだよ」

(加平さんは背丈があるし顔面がクールだから、やり方を間違えると相手を怖がらせちゃうんだよな)

「選手交代します!」

「は?」

 不服そうな加平に代わって、時野が前に出る。

「驚かせてすみません。実は、ムラサキ工業の労働者の方からご相談がありまして、事業主さんとお話がしたいんです」

「相談って?」

「すみません、詳しいことはお伝えできないのですが、ムラサキ工業さんのことで何かご存じのことがあれば大家さんにご協力いただきたいんです。例えば、知り合いをご存じとか、移転先をご存じとか……」

「そう……。あ、そうだわ、移転先ならわかるわよ」

「!」

 加平が身を乗り出して、どしんと時野に体当たりした。

 それを背中で抑えつつ、時野が大家からさらに話を引き出す。

「ぜひ! 教えてください」

「ここから前の道に戻って国道に出るでしょ。しばらく行くと、右側に温泉の看板があるのよ。そこを通り過ぎてすぐの道を右折。そのあと突き当りのT字路を左折するの。しばらく行くと、左側に黒い建物があるのよ。そこに移転するって話だったはずよ」

 時野は大家の言う道順をメモした。

「そうそう、T字路を左折した後は狭くて離合できないから、向こうから車が来てないかよく確認した方がいいわね」

「え?」

「細い道なのよ。だから、車同士ですれ違うのは難しいわ。気を付けてね」

「わかりました。ご協力感謝します!」

 時野は大家に繰り返し頭を下げた。加平も会釈をしている。

「お前人と話すの上手いな。正直助かった」

 官用車を発進させると、加平が言った。

「ありがとうございます! そうですね、割と誰とでも話せるのは、僕の特技かもしれません」

(加平さんが褒めてくれた! 打ち解け作戦に進展?)

「ちょっとめんどくさい高光課長とも、楽しそうに話してたもんな」

「えっ」

(高光課長との話って、半ば加平さんの悪口だったような……)

 時野がおそるおそる見ると、加平の口許がほんのり弧を描いているように見えた。

「まあ、一方面まで来て新監に話すことって言ったら、十中八九俺の悪口だろうけど」

(バレてる!)

「あれか?」

「えっ」

 加平が指さした方をみると、猿が湯につかっている大きな看板が見えた。猿の横には「温泉」の文字も見える。

 官用車を右折させた後、大家の案内通りに行くと、やがて黒い2階建ての建物にたどり着いた。

(大家さんが教えてくれた移転先は、ここで間違いない)

 2人が官用車を降りて建物の入り口を見ると――。

(あれ?)

 建物の正面はガラス張りになっており、内部が丸見えだ。

 時野は近づいて中を見てみたが、人がいる気配はない。

 人どころか、中には何も置かれておらず、無機質なコンクリートの空間だけが広がっていた。

「ここ……ですよね? 大家さんが教えてくれた移転先……」

 どう見ても今は入居している様子はない。

 加平も驚いた様子だったが、やがて建物の周囲を捜索し始めた。

 ほかの入り口や会社名の表示、郵便受けがないか一通り探すが、それらしいものを見つけることはできない。

「……」

 加平はしばらく考えていたが、思い立ったように歩き出し、隣の建物の引き戸を開けた。時野も慌ててついていく。

(これは……お弁当屋さんかな?)

「いらっしゃいませ。今日は唐揚げ弁当がおすすめですよ」

 エプロンと三角巾を付けた女将さんが、明るくにこやかな声でメニューを案内した。

 店の奥からは揚げ物のいい匂いが漂ってくる。

「すみません、労働基準監督署の者ですが、お隣のムラサキ工業の件で少しお話をよろしいですか」

「ムラサキ?」

 女将さんは怪訝そうな顔だ。

「ええ。お隣の黒い建物に、ムラサキ工業という会社が入っていたと聞いて訪ねてきたのですが」

「黒い建物の? 確かに何かの会社が入っていたけど、ムラサキ工業なんて名前だったかなぁ? どちらにせよ、もういないけど」

「いない?」

「うん、移転しちゃったもの」

(また移転!)

「いつですか」

 女将さんは、うーん、と考えている。

「ちょっと覚えてないわねー。だけど、移転先ならわかるわよ」

「えっ」

 時野は思わず声を出してしまった。

「ほら、お隣の黒い建物の前の道ってすごく狭いじゃない? 車がすれ違えないぐらい。それが不都合で移転したらしいんだけどさ。うちの店の前からは道が広がってるから、あまり不自由してないんだけど」

(確かに、官用車が1台通るので精いっぱいだった。毎日出入りするには不便だろうな)

「黒い建物に入ってた会社の人、感じが悪い男だったのよ。それで印象に残ってたんだけど。いつだったかな、すぐ近くの建物に入っていくのが見えたの」

 女将さんによると、それはここから車で5分ほどの白い建物だったと言う。

 お礼を言って店を出ようとすると、女将さんが時野たちを呼び止めた。

「ねぇ、唐揚げ弁当買っていかない? 揚げたてなの。単品でもいいわよ」

(からあげ……!)

 時野はよだれをごくりと飲み込んだ。

(いや、仕事中、仕事中。鳴るなー、僕のおなか)

 おなかに意識を集中させつつ、時野がそーっと加平を見ると、加平はいつものクールな顔で時野を見下ろしていた。

「じゃあ単品でください」

(!)

 加平は唐揚げ5個入り300円を購入すると、すたすたと官用車に戻った。

 時野も慌てて助手席に乗り込むと、官用車の中に唐揚げの幸せな匂いが広がっていた。

「食え」

 加平が時野の膝に唐揚げの包みを置くと、官用車を発進させた。

「えっ」

「着く前に食い終われよ」

「ご、5分で?」

「じゃ、俺も1個食う」

 加平は唐揚げを一口で食べると、口をもぐもぐさせながら運転している。

(唐揚げへの欲求、ダダ洩れだった? でも、買ってくれるなんて、加平さんて……)

「着くぞ。食い終わったか」

「ふぁい!」

 最後の1個を口に押し込めると、時野は慌てて返事をした。

 時野たちが帰庁した時、時刻は17時を回っていた。

 労働基準監督署の閉庁時刻は17時15分。つまり、まもなく閉庁時刻だ。

 事務机に向かって決裁業務をしていた紙地一主任が、時野に気づいて顔を上げた。

「おつかれ! どうだった?」

「それが……」

「お? その様子じゃ事業主に会えなかったか。それにしては遅かったな。なんか買い食いでもしてた?」

(バレてる! まさか服に唐揚げ臭が?)

 時野が思わず自分の袖を嗅いだのを見て、紙地一主任は笑っている。

「ははは、別にいいんだよ。ちょっとした水分や栄養分の補給は、外回り中の楽しみだよな」

 そこに、官用車の鍵を業務課に返し終わった加平が一方面に戻ってきた。

「戻りました」

「おつかれ! 事業主に会えなかったみたいだな」

「はい。ただ……少し妙で。事務所にいないことは想定してましたけど、移転を繰り返して行方をくらましているとは……」

「どういうこと?」

 あれから弁当屋の女将さんに教えてもらった白い建物に行ったのだが、そこにいた男性はムラサキ工業とは無関係だと主張した。

『うちは2週間前にここに越してきたけど、ムラサキ工業とかいうのとちゃうで』

 その関西弁の男は、50代と思われた。

 Tシャツにジーンズ。伸びた髪を後ろで一つに結び、髭は伸びっぱなしだ。

『ここの不動産会社の連絡先? 俺の名前と会社名? なんで言わなあかんねん。こっちは早朝から作業しとんじゃ。もうえらいけん帰って』

(とりつく島もないとは、こーゆーことだよな)

 移転、移転、で辿り着いた3件目ですげない対応をされて、事業場探しは暗礁に乗り上げた。

「そりゃ大変だったなー。どうりで帰ってくるのが遅かったはずだ」

 紙地一主任に一部始終を報告し終わった頃には定時を過ぎ、ちらほらと退庁する職員も見え始めた。

「ま、事業主の行方不明事案となれば、居所として可能性のある所は訪ねるのが常道だ。1か所つぶせたと思えば成果だよ。今日のところは店じまいにして、また明日仕切り直しだな」

「はい……」

(なにか、引っ掛かることをスルーしているような……)

 翌日。時野と加平は朝から阿久徳興業に来ていた。

 前回同様社長室に案内されたが、今回時野たちと向かい合ってソファーに座っているのは、阿久徳社長ではない。

 住友剛――。ムラサキ工業で部長という肩書きだった男だ。

 高田から聞いていた住友の連絡先にかけてみてびっくり、現在住友は阿久徳興業の従業員なのだという。

「住友も給料もらってなくて食えなくなっててよ。うちに来て働けってことになったんだ」

 話をする場所だけ借りたかったのだが、「俺も関係者だ!」と言い張り、阿久徳社長は社長室に居座っていた。

 応接セットのソファーではなく社長の椅子に座っているのは、一応外野だという自覚があるのか。

(本来だったら阿久徳社長は部外者だが、住友さんが同席に同意しているから、加平さんも黙認してるみたい)

 住友は40代。ワイシャツの上に阿久徳興業の作業着をはおり、下はチノパンにスニーカーという出で立ちだ。

 浅黒く日焼けしているのは、長く現場作業に従事してきたからだろうか。

「立花さんとは、もう半年以上会えてないんです……」

 ムラサキ工業の事業主である立花たちばなとは、10年ほど前に現場で知り合い、入社後は現場の責任者を任されるようになったという。

「立花さんが60代のうちは現場に一緒に入ることも多かったのですが、70代になると、現場に入ることはまずありませんでした。立花さんは仕事の受注だけやるようになり、私が現場責任者をしていました。徐々に人が減って、最後は私と高田を含めて労働者は5人しかいませんでしたが……」

 住友が立花のところで働くようになって10年、賃金不払はもちろん、連絡が取れないことなど一度もなかった。

 それが今年の1月から突然賃金が振り込まれなくなり、3月が終わるとついに音信不通になったのだという。

「以前からLINEも使っていましたが、半年ぐらい前……10月頃からだったかな、連絡が完全にLINEのメッセージだけになって、立花さんとは直接会うことも電話で話すこともなくなったんです」

 住友は少し不信に思ったものの、仕事は今まで通りあるし、賃金もきちんと払われたので、無理に会う必要もなかったらしい。

「1月末の給料日に金が入ってなかったから、びっくりして立花さんに電話したんです。でも、何度かけても電話には出ませんでした。LINEでメッセージを送ったけど、『待ってくれ』としか返ってこなくて」

 それでも仕事の受注連絡がくるので現場に入り続けていたが、それも3月までとなり、連絡は途絶えた。

「昨日事務所に行ってみましたが、大家の女性しかいなくて、移転したと言われました」

「事務所?」

 加平の話に、住友は不思議そうな顔をした。

「住友さんの名刺に載っていた、ムラサキ工業の事務所ですが」

「ああ……。あの名刺は最初に立花さんが用意したもので、データでもらって自分で印刷していました。一応所在地が記載されていましたが、事務所とは名ばかりで、私も出入りしたことはなかったんです」

「半年前から会えてないって言うけどよ。現場に入ってたら何らかの物の受け渡しがあるだろ、日報とか伝票とか」

 ここまで黙って話を聞いていた阿久徳社長が、口を挟んだ。

「そういうのは、角宇乃駅前にあるコインロッカーで受け渡ししていたんです。専用のスマホアプリで開閉できるようになっていて、鍵を共有する機能があるので……」

「住友、お前その時点でおかしいと思わなかったのかよ」

 阿久徳社長が身をのり出して住友を問い詰める。

「今思えば、おかしいとしか思えません。それでも、まだその頃は給料が払われていたから……。10年間一緒に仕事をしてきて、立花さんを信頼していたんです。こんな形で裏切られるなんて思ってもみなくて……」

 住友は悔しそうにうつむいた。さすがの阿久徳社長もそれ以上言えない様子だ。

「阿久徳社長の言うとおりです。こうなって初めて気付いたけど、私は立花さんのことを何も知らない。フルネームも、年齢も、住んでいる場所も。だから、電話もLINEも応答してもらえなければ連絡をとる手段もないし、居所の見当もつかない。信じ切っていたとは言え、自分が馬鹿で情けないです。高田くんたち作業員のみんなにも申し訳なくて……」

 社長室が重い空気に包まれた。

 加平も阿久徳社長もうつむく住友を黙って見ていたが、そこで口を開いたのは――。

「あのー、気になってることがあって。聞いてもいいですか?」

 時野がそーっと手を挙げて住友に質問する。

「事業主は立花さんなのに、『タチバナ工業』じゃないんですね」

 住友は一瞬キョトンとしたが、時野の質問に少し頬を緩ませた。

「それ、私も不思議に思って立花さんに聞いたことがあります。照れくさそうにご家族の名前だと言っていました」

(家族の名前?)

「立花ムラサキ? 変わった名前だな」

 阿久徳社長が首をかしげている。

「それともう一つ。立花さんて、関西の方だったりします? 関西弁を話していたということは?」

「え? いや、関西弁じゃなかったです。出身も関西じゃなくて、確か若い頃に家族と九州から出てきたって言ってましたけど」

(移転先の移転先の白い建物にいた関西弁男は、やっぱり無関係だったか。確かに70代には見えなかったし。ただの感じ悪いヤツってだけか)

「それで? 居所はわからない、電話には出ないだけど、LINEはどうなんだ?」

 阿久徳社長の質問に、住友は首を振った。

「送れることは送れますが、既読スルーです。4月に入ってからも何度も送信しましたが、返信はありません」

(一応、既読はつくのか……)

 結局、キーマンと思われた住友からもこれ以上の情報は引き出せず、時野と加平は阿久徳興業を後にした。

 住友の話を報告すると、紙地一主任はうーんと唸った。

「結局事業主の携帯番号しかわからなかったかー。署の電話からも一応かけてみるのは絶対だけど、出る可能性は低そうだな」

「立花の携帯番号をキャリアに照会して、住所を教えてもらうことはできないのでしょうか」

 時野が紙地一主任に質問した。

「それができたらいいんだけどねー。ただの行政からの照会って言うんじゃ、キャリアに個人情報を出させるのは難しいな。せめて捜査関係事項照会じゃないと」

 捜査関係事項照会とは、労働基準監督官がもつ司法処分を行う権限によるもので、刑事訴訟法に基づく照会なのだと言う。

「申告処理は行政指導だからね。司法処分しようっていうわけでもないのに、捜査関係事項照会ってわけにはいかないなー」

「そう、ですか……」

「行政指導の段階でも、住民票と戸籍謄本なら職権でとれるよ。フルネームと生年月日のセットか、フルネームと住所のセットがわかれば。住所は今の住所じゃなくても、住民票に載せたことがある住所ならオッケー」

 加平が目を閉じて首を振る。

「それも厳しいです。事業主の名字しかわかりません」

(70代男性。名字は立花。ムラサキという名の家族がいて、九州出身。わかってるのはこれだけだもんな……)

「そうなると……立花の携帯電話に何度かかけてみて、出なければ手詰まりか」

「……はい」

 加平は悔しそうだが、今のところ他に手がないことも事実だ。

「仕方ないよ。行政指導には限界がある。事業主に会えないと監督指導のしようがないからな。一定期間連絡がつかなければ、処理不能で落とすしかない」

(落とす……未解決のまま完結させるってことか……)

「時野くん、その顔は納得いってないでしょ!」 

「えーと……」

 紙地一主任に見透かされて、時野は言葉に詰まる。

「うちは警察と違って、行方不明者を探すのは得意じゃない。労働基準法に規定された労働基準監督官の権限は、事業主に会えてこそ行使できるものばかりだからね。ある程度で区切りをつけて割りきるしかない。その見極めも仕事のうちだよ」

 紙地一主任が左肘で加平の脇を小突いた。

「まあ、ここにも納得いってない先輩がいるけど!」

「……」

 加平は無言で目を伏せていた。

(加平さん……)

「最初奥さんの実家に行ったときびっくりしたんだよな。関西弁ならテレビでもきいたことあるし、大体わかると思ってたんだけど、意外とそうでもなくてさー」

 角宇乃労働基準監督署には男女別の更衣室があるが、それぞれの室内には簡易な机と椅子が置いてあり、休憩がとれるようになっている。

 時野は、コンビニで買ってきた弁当を男子休憩室の机で食べていた。

 他には、高光課長と労災課の係長が食事を取っている。

 高光課長は、新婚だという係長と、妻の実家に初めて帰省したときの話をしているらしい。

「お義母さんが『漣さんえらかったでしょう』っていうから、『過去形で偉い俺ってどーゆうこと?』ってわけわかんなかったのよ。そしたら『えらい』って関西では別の意味で使うらしくてさ」

(えらい……?)

 高光課長の話をラジオでも聞くように他人事として聞いていた時野だったが、引っ掛かるものを感じて箸を止めた。

「『えらい』って、関西弁ではどういう意味なんですか?!」

 突然時野が食いついてきたので、さすがの高光もタジタジとしている。

「『疲れる』って意味だけど」

「!」

(たしか、あの時……)

『もうえらいけん帰って』

(関西弁男が言ったこと、「疲れたから帰って」っていう意味だったんだ)

「どうしたの急に」

 高光課長が不思議そうに時野の顔を覗き込む。

(そうだ、確かあの人……)

「おーい、時野くん?」

 時野は弁当の残りを急いでかき込むと、ペットボトルのお茶で流し込んだ。

「すみません、僕行きます!」

 ぽかんとする高光課長を尻目に、慌てて事務室に戻った時野は、業務用パソコンでインターネット検索の画面を開く。

 キーワードを入力すると、すぐに知りたい情報にたどり着いた。

(そうだったんだ! ということは……)

「あ、時野くん、まだ休憩時間だよ。労働基準監督官が休憩中に働くなんてダメダメ!」

 そういう紙地一主任は、自席で仕事をしながら昼食をとることがほとんどだ。

「よーし、ここで労働基準法クーイズ! 法定の休憩は何分でしょーかっ」

(そうか、そういうことだったんだ……)

「時野くーん? わかんなかったらオーディエンス使ってもいいよ」

 紙地一主任は、自席でコーヒーを飲んでいる加平を指さす。

「労働基準法第三十四条、労働時間が6時間を超える場合の休憩は45分、8時間を超える場合は60分です!」

「せ、正解」

 突然時野がさらさらと答えたので、紙地一主任は面食らっている。

 時野はバンと机を叩いて立ち上がった。

「加平さん!」

「!」

 加平は驚いて時野を見上げた。

「僕、フルネームと住所わかったかもしれません! フルネームと住所の組み合わせがわかれば、住民票と戸籍謄本が取れるんですよね?」

「そうだけど……なんで急にムラサキ工業の事業主のフルネームがわかったんだ?」

「いえ、事業主のじゃありません」

「は?!」

 ポコン、とLINEのメッセージ音が鳴った。

『立花さん、一体いつになったら払ってもらえますか』

(また住友からか……)

 今回も、メッセージに返信をする気はない。

 あと2日で家を引き払って、娘夫婦が住むA県へ転居する予定だ。

 二世帯住宅を建てるから一緒に住もうと娘が言ってくれたのだ。

(建築費用の半分は援助しないと。この家が大した金額で売れないとわかった時は焦ったが、最後の3か月、住友たちが稼いでくれたお金で、少しはまとまった金を用意できた。住友には申し訳ないが、10年食べさせてやったんだ。まだ若くていくらでも稼げるのだから、諦めてくれ――)

 スマートフォンの画面を閉じようとすると、再びLINEが鳴った。

『それと、エブリイの鍵をもったままでした。いつものコインロッカーでいいですか』

「エブリイ……」

 業務用に、軽の商用バンのエブリイを住友に預けてあったことを思い出した。

(すっかり忘れていた。あんな車でも、中古車屋に売ればいくらかにはなるかもしれない)

 今後のことを考えると、金はあるに越したことはない。

 少し悩んでから、LINEのメッセージを送信した。

『エブリイの鍵は、すまないがいつものコインロッカーで頼む。エブリイはどこに停めてあるかな? 住友くん、給料のことは本当にすまない。金策はしているが、なかなかうまくいかなくて、君に合わせる顔がなかった。でも信じて待っていてくれ』

 ポコン、とメッセージ音が鳴る。

『わかりました。立花さんのことを信じています。エブリイは角宇乃駅前の月極駐車場です。鍵はコインロッカーに入れ次第、共有キーを送ります』

(そうか、月極駐車場の料金が口座から引き落とされていた。ムラサキ工業の名義で借りっぱなしだったな。ついでに解約手続きにも行こう)

 それから1時間経って、住友から共有キーが送られてきた。

(待ち伏せでもされたら困るが、早く取りにいかないと中古車屋に売りに行く時間がない。まあいい、たとえ待ち伏せされたとしても、住友にはこちらの姿がわからない。それでも声をかけられたら頼まれたとでも言って、エブリイを諦めて立ち去ることにしよう)

 2時間後、角宇乃駅前に向かった。

 住友から送られてきた共有キーを画面にかざすと、カチ、とドアの開錠音が聞こえた。開いたドアを引くと――。

「そう遅くならずに取りに来ると思ってました。今月で引っ越すとおっしゃってましたから」

「!」

「やっぱり、あなただったんですね」

 驚いて振り向くと、男が4人立っていた。

 1人は住友、もう1人はド派手なスラックスの男、あとの2人は――。

「あんたたち、基準局の……!」

 基準局とは、労働基準監督署の昔の呼び方だ。

 年配の人は今でも、労働基準監督署のことを基準局と呼ぶことがある。

(あの時も、僕たちのことを「基準局」と言っていた)

「え? 立花さんじゃない! 一体誰なんですか、この人は」

 住友は、驚いて困惑している様子だ。

 時野はコインロッカーの扉に手をかけている老婆のそばに立った。

「あなたが事業主だったんですね、大家さん。いえ、立花ゆかりさん」

「!」

 住友の名刺に記載された所在地にあった建物。今ここにいるのは、時野たちが最初に訪ねた事業場と思しき場所で、大家と名乗った老婆だ。

「ムラサキ工業。立花さんは、ご家族の名前から『ムラサキ』とつけたと言っていたそうです。照れながら。きっと、奥さんのお名前だと思いました。『紫』と書いて、『ゆかり』と読みますよね。素敵なお名前です」

 時野は、大家の言った「ある言葉」から、この大家こそがムラサキ工業の事業主の妻ではないかと推測した。

 それならば、事業主夫婦の住所は名刺に記載された所在地だ。

 住所ともう一つ、住民票をとるにはフルネームが必要だが、妻の名前が「ムラサキ」だとすると、それは「紫」ではないかと考えた。

「なんの話? 私はただ……」

「あなたの住民票と戸籍謄本を取りました」

 時野は、住民票と戸籍謄本を取り出し、立花紫の前で広げた。

「あなたの夫――ムラサキ工業の事業主である立花和夫さんは、1月10日に亡くなっていますね」

「!」

「住友さんは、10月頃から立花和夫さんの姿が見えなくなり、電話で声を聞くこともできなくなったと言っています。もしかして、その頃から和夫さんは体調を崩して入院でもしていたのではないですか」

 立花紫は、青ざめながら時野を睨んでいる。

「入院中、和夫さんの指示を受けてあなたが連絡係をしていたのではないですか。取引先からの受注を受け、住友さんへ伝えるのです。代金の受領や賃金の振込も、あなたが代理で行っていた。それで一連の仕事のやり方を把握したあなたは、和夫さんが亡くなってもそのまま続けていたのでしょう。そう、賃金の振込以外は」

「そんな……。立花さんは死んでいたって言うんですか? 私とLINEのやり取りをしていたのはこの人だったなんて……」

 住友は信じられないという表情だ。

「和夫さんの死亡を伏せたままでいつまでも事業を続けられないでしょうから、短い期間で終わらせるつもりだったのでしょう。僕たちが訪ねた時、あなたは今月で家を出ると言った。あと2日でどこかに逃げるつもりですね? 住友さんたちの賃金をせしめたまま」

 立花紫は黙って時野を睨みつけたままだ。

 その表情には、初めて会った時の上品さが微塵も感じられない。

「おい婆さん、なんとか言ったらどうなんだ! 住友も高田も食えなくて困ってたんだぞ!」

 阿久徳社長が怒鳴りつける。

 立花紫は4人の男たちをキッと睨みつけた。

「……黙って聞いてりゃ、さっきから一体何言ってるの。私がムラサキ工業の事業主の妻だって証拠が、どこにあるって言うのっ」

離合りごう

「え?」

「道案内をしてくれたとき、『離合』って言いましたよね」

「……?」

「和夫さんは、若いときに家族を伴って九州から上京したと、住友さんに話したそうです。九州では、車がすれ違うことを『離合』と言うそうですね。普段は標準語だけど、思わず九州の方言が出ていたんですよ。紫さん、あなたは九州出身です!」

「あ……」

 立花紫は両手で口許を押さえている。

 時野が、大家が立花の妻ではないかと思った「ある言葉」とは、「離合」だ。

 高光課長から関西弁の話を聞いた時、もしかして「離合」も方言なのではないかと思いついたのだ。

 それが九州の方言と分かった時、複数のピースが急に時野の頭の中でつながった。

「わ、私は関係ない! 何も知らない!」

 立ち去ろうとする立花紫の前に、加平が立ちふさがった。

「どきなさいよ!」

 立花紫が無理やり突破しようとすると――。

 ドン!と、加平がコインロッカーを拳で殴りつけた。立花紫の小さな体がびくんと揺れた。

「いい加減にしろよ、ばばあ」

 立花紫が、青い顔で加平を見上げる。

「3か月半もの賃金不払を起こしておいて、まだ言い逃れるつもりか? 夫が積み上げてきた労働者との信頼関係を壊して支払いを踏み倒すなんて、恥ずかしくねーのか! どこに逃げても必ず追いかけるぞ。労働基準監督署は全国にあるんだ。なめてんじゃねーぞ! 今すぐ賃金を支払え!」

(冷徹王子、炸裂――)

 加平から凍てつくような形相ですごまれた立花紫は、一瞬硬直したかと思うと、その場に崩れ落ちたのだった。

「いやー、時野さん、お見事でした!」

 阿久徳社長は時野の肩をバンバンと叩いた。

「あ、ありがとうございます」

 立花紫は、嘘の移転話を言ってしつこい加平たちを追い払おうとした。

 あの時点では、立花紫が事業を引き継いでいるとはバレていないのだから、一旦追い払った後は居留守を決めこんでしまえば振り切れると思ったのだろう。

 黒い建物の隣の弁当屋の客だった立花紫は、女将さんとの雑談の中で、黒い建物から入居者が転居し、今は空室であることを知っていた。

 とりあえず追い払えればどこでもよかったので、ムラサキ工業が黒い建物に移転したと嘘の情報を伝えたのだ。

(僕たちを追い払うための方便だったのに、弁当屋の女将さんがたまたま次の移転先を知っていたから話がややこしくなってしまった、というのが真相だったな)

 あれから加平は半ば無理やり立花紫を銀行に連れて行き、住友たち5人の労働者の賃金を振り込ませた。

 未払期間3か月半。5人分の賃金総額4,375,000円――娘夫婦と暮らす2世帯住宅の建設費用のために口座にプールしていたようだが、加平が許すわけがない。

 振込を終えた立花紫は、実年齢よりも老け込んで見えた。

「加平さん、今回もお世話になりました!」

 阿久徳社長は、がっはっはと笑うと、住友を伴って帰っていった。

(賃金未払が解決したのはよかったけど、気になるのは……)

 時野は、最後に立花紫に尋ねた。

『紫さん……どうしてこんなことを?』

 立花紫は、うつむきがちにこう答えた。

『本当にごめんなさい。魔が差したの……。突然、ムラサキ工業あてにメールが届いて。賃金なんて踏み倒せばいい、あなたにはお金が必要だ、ご主人が死んだことを黙っていればわからないって。誰からかって?知らない差出人だった……アールと書かれていたわ……』

(立花紫をそそのかした「R」とは一体……?)

 帰り道、加平は官用車をコンビニの駐車場に停めた。

 時野に千円札を渡すと、顎をくいっと動かす。

「コーヒー。ブラックで」

「えっと……はい」

 コーヒーを買ってこい、という意味のようだ。

 時野が車を降りると、加平も車を降り、煙草をくわえて火をつけている。

 コンビニの入り口に向かって時野が歩き出すと――。

「時野!」

(!)

「お前もなんか飲むもん買えよ。お菓子もいいぞ」

 加平は煙草をくわえた口角を少し上げた。

(今、「時野」って呼んだ……!)

「あ、ありがとうございます!」

 加平は煙を吐き出しながら、煙草を挟んだ手をヒラヒラと振った。

 時野が買い出しに行っている間、加平は官用車にもたれて煙草をくゆらしていた。

 近くには、踏み切りが見える。

 加平はぼんやりと、踏み切りを行き交う人たちを眺めていたが――。

「!」

 加平の口許から煙草が落ちた。

「加平さーん! お待たせしましたー」

 時野が買い物を終えて戻ってきた途端、加平が急に走り出した。

「加平さん?!」

 時野も思わず加平を追いかける。

 加平が踏み切りの前まで来たところで、遮断機が降りてきた。

 遮断機の向こうには――。

「レイカ!」

 加平が大声で叫ぶ。

(えっ?)

 時野が遮断機の向こうを見ると、若い女性が振り向くのが見えた。

 長い黒髪がサラサラと風に揺れた。その姿は、白い百合の花を思わせる。

 次の瞬間、轟音を立てて電車が通り過ぎた。

 遮断機が上がった時、百合の花はどこにも見えなくなっていた――。

ー次話に続くー


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