ADHD長女との語らい②【コミュニケーションの苦手さ】
以前、このような記事を書かせていただきました。
(久しぶりの投稿すぎて、長くなっちゃいました。。)
先日もまた、長女と2時間ほど語らう時間がありました。そこで分かったのが彼女の友達とのコミュニケーションにおける難しさ。
初対面だとそれなりに会話はもつ。
まず前提に、「自分はもともと、私発信でしか会話ができない」と感じていた様子の長女。
例えば、新しい学校生活がスタートするなどして、みんなが初対面、という状況の場合は、みんながモジモジしているから、とりあえず、自分が自分の好きなものとか、適当に話を出して、マシンガントークをして、なんとなく盛り上がった気になる、っていうか、多分、その場はなんとなく盛り上がっている、と感じる。
・・・ものの、、、だんだん皆んなが慣れてきて、いろんな話題になり、流行っている話題、女子が好きそうな話題、とかになると、自分には全く興味のない話になり、だんだん、自分が浮いてる事や、初対面の時のように喋っていても、なんとなく周りとのズレを感じたり、一線引かれているのを感じる、そうな。。
空気はものすごく読める、と言うか、感じてしまうみたいです。
空気を読めないフリをしても話題をブっこむ。
そうなってくると、すでに盛り上がっている輪の中に、しれ〜っと混ざる事は不可能で、空気はめちゃめちゃ読んだ上で、それでも、話題をぶっ込んで、自分発信の話でしか話ができない、、だから、ぶっこむ。もう、賭けようなものらしい。
ぶっ込んでる間は、頭が真っ白になって、でも、何か喋らなきゃ、と思って冷や汗かいて、ひたすらに喋る。でも、冷ややかな反応があり、そこで、また奈落の底まで落ち込む、疲れる。
前は、それが自分の性格のようなものだと思っていたが、それがADHDの特性だと分かった今は、もうどうしようもないんだな、かといって、どうしようとも思わない、ただただ、人と話すのが疲れるし、特に同年代の子と話すのが一番疲れるらしい。
小さな失敗ですら恥ずかしい
例えば、黒板に何か書いていて、チョークがポキっと折れた、とか、先生に当てられて答えを間違った、とか、音読で噛んだ、とか、、その程度のことが、とても恥ずかしく感じる、とも話していました。
例えるなら、、、。最近、私自身、「講師業」をやっているのですが、先週も、説明の中でいくつか失敗をしました。まだまだ新米講師なので、間違えるんですよ。
そんな失敗話を披露していて、1つ目は、扱うファイルの内容が違って焦った、という話、2つ目は言い間違いをしてしまい、、若干、下ネタに聞こえてしまったこと、を家族に話していました。
私個人的には、2つ目の間違いの方が、恥ずかしさ倍増ですが、間違いの深刻さでいうと1つ目の方が深刻です。でも、また失敗するならまだ1つ目の方がいいや、って話をしていたんです。
長女の失敗をしたときの恥ずかしさレベルは、先にかいた小さい事でも、私でいう2つ目の言い間違いくらいの恥ずかしさがあるらしいのです。だから、失敗するのが怖い、失敗できない、という強いプレッシャーを感じるのだそうです。
この辺は、ADHDと関係があるのかちょっとわかりませんが、そんな話をしていました。
恐ろしく冷静に自分を分析している
前回の話も今回の話も、共通して思うのが、しっかり自分のことを分析できていると感じます。中1のころからそうでしたが、娘としては、それに「ADHD・AS D」という特性が加わり、いろんなことに説明がついた、という感じのようでした。
また、自分はいろんな経験をしてしまっているから、正直、同じ年齢の子の話を聞いているとイライラすることがあるそうです。以前の自分を見ているようで嫌気がさす、と。。なぜ、過去の自分のことが嫌いかは、前回の話のなかにヒントがありそうでした。「固定概念の塊だった自分が嫌いだ」と言っていました。
今日の発言と合わせると、おそらく、「ものを1つの方向からしか見ずに、いかにも自分が正義だ、と言わんばかりの意見を言う人」「その人の背景やそこに至るまでのストーリーを知らずに勝手に人を評価する人」の話を聞くことがとても腹が立って耐えられない、という感じなんじゃないかと思います。。耐えられないレベルが、私とは違うのでしょう。
どちらにしても、生きづらいのかもしれません。
最後に・・・。普通ってなんだろうね。
こういう場合、病院へ行けば、例えばADHDのお薬を飲んで、とか言われるのでしょう。
ただ、その薬を飲むという事は、あの子がこれまで、あの子の中では「普通」だと思っていたことを、こちら側の「普通」に合わせることになるんだろうな、と思うのです。逆に、私が薬で、「多動、多弁」にされたら、どうしていいかわからないでしょう。自分のアイデンティティが揺らぐのではないかと思ってしまいます。
あの子の中の「普通」と、私の中の「普通」は違いますし、どちらが良い悪いという訳でもありません。多数派が、発達障害を持たない人、というだけで、多数派に合わせることが「解決策」という訳ではないと思ってます。
生きづらいのは、発達障害のせいではなく、”発達障害”を「障害」とする社会にある気がします。
感覚過敏や、発達性協調運動障害など、物理的に困っているなら、多分、特効薬のようなものがあれば、きっとその子の生活は楽になる可能性は高いかもしれません。
でも、そうじゃない部分って、もう、彼女の個性という感じがして仕方ないのです。長女がADHDじゃなかったら、私は、長女らしさを感じることができないんじゃないか、とすら思います。
※お薬に関しては、人によって考え方や効き方も違うと思いますので、あくまで私の個人的な意見なので、ご了承ください。
長くなってしまいましたが、やっぱり、私はいろいろ悩ませてくれるけど、長女が大好きだな〜って思いました。きっときっと、将来、いい出会いがありますように、と願う母でした。
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
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