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【ADHD長女の不登校#2】長女の不登校のはじまり。大間違いだった私の対応。

1.突然の娘からの告白。完全に動揺した私。

あれは長女が中学1年の2学期が始まって間もない頃、、突然言い出した。
「何か、最近○○ちゃんに無視されんだよね。。。何でだろう」
「え?無視??なんで?なんかしたの?」
「それが覚えがなくて・・・」
「○○ちゃんに聞いたら?なんか私やった?って。」
「聞いたけど、それも無視された。」
「そうか。。。無視するような○○ちゃんより、他の友達といたら?」
「うん、、、まぁ、そうだね」

こんな感じの会話だったと思う。
今思えば、本当に最悪な対応。

きっと娘は自分の辛い気持ちを話したくて、わかってもらいたくて、ただただ無条件に受け止めて欲しかったのかもしれない。
なのに私ときたら、「娘を無視するなんて、なんてやつ!腹立つわ〜!」って頭から一瞬で湯気が出ていたと思う。何より、そんな事実に動揺した。

挙句、娘にも、あなたには非がないの?と。痛かっただろうな。
しかも、他の友達といたら?なんて、、そんな器用な子じゃないのに。気になったら気になってしまう子なのに。

娘はいろんなことにとても敏感で、その人の醸し出す雰囲気だとか口調とか表情で口から出る言葉以上のものを感じてしまう人。小さい頃からこちらがドキっとするようなことをよく言った。

この会話のあたりから少しづつ娘の表情は暗くなっていった。でも、そのことに関して、あまり語らなくなったので、てっきり自分で何とかしたんだと思っていた。
何より、学校には行っていた。だから「良し」としていた。

中学生の女子なんて日々変わる関係性でもあるし、いちいち気にしていられない。時間が経てば変わってくだろう、と思っていた。って言うか、そう思わせようと自分に言い聞かせていた。

私からは、たまに「大丈夫?何かあったら言ってね」とは言っていたけど、
「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫じゃない」と答えるような子じゃなかったし、
母親にまた何か言ったら、自分以上に熱くなってしまうし、親に心配かける、とかいろいろ考えて、ずっと一人で溜め込んでいたんだと思う。

それから1ヶ月くらい経った後、小6の時の見学の時からとても楽しみにしていた文化祭があったが、始まる前から「憂鬱」と言っていた。受験する学校の見学に言った際に、「この学校がいい!」と志望校を決めたきっかけになった文化祭だった。

2.「お腹が痛い」「頭が痛い」と訴え始める。学校へ電話。

なんとか文化祭も終わり、学校の中のざわざわが終わりテストも終わった頃、朝学校へ行く前に「お腹が痛い」「頭が痛い」と言って家を出ようとしなかったり、言っても、電車の中で体調が悪くなった、と言って家に引き返してきたりするようになった。

正直、最初の2、3日は純粋に体調を心配したが、1週間、10日と経ってくると、
「また?」と言う気持ちが出てきた。とりあえず、行ってよ、って思った。
学校へ行けば大丈夫、学校へ行くことが正解、行ってさえすればいい、と思った。
私のこの内心は、私の声色や表情から感じ取っていたと思う。

欠席や遅刻が続いて2週間くらいが経ち、担任に電話をして、○○ちゃんの話をした。担任は○○ちゃん本人に聞き取りを行ったが、本人はそんな意図はなく、認識もなかった、と。なので、学校で一度1:1で話をしましょう、と言ってきた。

そのまま娘に伝えた。
「最悪。」
一言そう言って、自室へ行った。

私には何が最悪なのか、その時は、さっぱりわからなかった。むしろ、娘の壮大な勘違いだったんじゃないの?とまで思った。行けばいいのに。。。学校へ行って、ちゃんと話してくればいいのに、と思った。

今なら「最悪」の意味がわかる。
担任は自分の話は信用しない、自分は信用されていない。
○○ちゃんの意見だけが信用される。
親もそれがわかっていない。

娘の中で味方が一人もいない、とわかった瞬間だったのかもしれない。
親も担任も、自分の気持ちを受け止めてくれる人はいない、自分にはその価値もない、誰からも必要とされない。と思ったのかもしれない。

娘は学校の友達はいた。いつも一緒のグループ7人の中に入っていたが、娘が言うには、一緒にいても、なんとなく、2:2:2:1、もしくは、3:3:1なってしまい、自分はだいたいその「1」になるらしい。

自分が何か話しても、「何言ってるかわからない」「またすべったよ〜」とか言われたり、友達の話で自分に興味のない話を聞くことが、本当に苦痛で仕方なくて、なんでこんなに聞けないんだろう、自分はコミュ障だ、と話していた。
とはいえ、いつもの7人グループの中の2人は大切な友達だ、と言っていた。

3.「学校へは行く必要がない」と判断した

担任に電話をした後も、学校へは行ったり行かなかったりだったが、自分で学校の相談室へ予約を取ってスクールカウンセラーと話をしに行ったりしていた。
12月に入り、あまりにお腹が痛いと言うし、食欲も減っていたので病院へ連れて行ったら、胃潰瘍になっていると言われ、驚いた。ただただ驚いた。

帰宅後に話を聞くと、実は電車の中や、学校までの道のりで、何度も過呼吸になったと話してくれた。学校に行くかと思うと怖くて過呼吸になって、呼吸が苦しくなって、倒れてしまうと。

教室が怖い、みんなが怖い、先生が怖い、学校が怖いと行って、涙を流した。

私は驚いて何も答えられなかった。多分、私のその時の表情は、
「かわいそうな人を見る表情」だったんだと思う。なんと声をかけて良いかわからず、抱きしめてあげることもできず、ただただ「かわいそうな人を見る」表情で横に立っていただけだった。

その時期に開かれた保護者会に参加した後、担任に娘の胃潰瘍の話を報告するついでに、○○ちゃんの話を直接聞いた。驚いたことに、担任は、
「でもとんとんさんのお嬢さんも、変なタイミングで変な事言ったりするでしょう?例えば、この校則は何のためにあるんですか?とかいきなり言ってきたりするんですよね。ちょっと困っちゃうって言うか。。。そう言うご本人の部分もあるのでねぇ」と。

カッチーン!はーー?うちの子が悪いと。うちの娘が変わった子だからしょうがないと?確かに、○○ちゃんは、本当はもっと進学校に受かっていた優等生で、成績も常にトップだった。だから?それが?何?校則の意味なんて、答えられないあなたが悪いんでしょ。面倒臭いって顔に書いてあったはず。

完全に担任にも失望した。娘が「あの担任はクソ。自分の成績のためにやってる」と言っていた事が理解できた。

旦那とも相談し、「学校に行く必要はない」と言う判断になった。何より、娘はもう限界だったと思う。私ももう、学校から解放してあげたいと思った。

1月になり、3学期が始まって1日だけ行ったが、教室に行ったのはこれが最後だったと思う。相談室へは仲の良い友達に誘われて、週に1回くらい行った。それ以外は毎朝、アプリで欠席の連絡だけした。機械的な朝の作業だった。

2月も同じ状態が続いたが、3月1日からの期末試験は社会だけは受けようかな、と話していた。「学校へ行く必要はない」と思いながらも、この発言は、正直嬉しかった。やっぱり私は学校へ戻って欲しいと思っていたんだろうと思う。

がしかし、3月1日からコロナで休校になった。期末試験も中止となった。
考えても仕方ないが、コロナがなかったらどうなっていたのかな〜とたまに思う。でも、本当に考えても無意味なのであまり考えない。

とにかくここから、最初は「一斉休校」と言う形で、「不登校」が始まった。

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