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「学校」という機械学習AI

AIは「人工知能」と言われますが、今のAIに考えることはできません。考えているように見せかけているだけで、データから機械的に学習して、そのパターンやルールを見つけ出すものにすぎません。 ここ10年でAIが騒がれたのは、ディープラーニングでマシンパワーが向上し、分岐を深く計算することで予測できるようになってきたからです。でも、これらは全て考えているわけではなく、「膨大な計算力で」「機械的に」処理しているだけなのです。

人類を滅ぼすAI?

AIがいつか人類を滅ぼすのではないかと警告する科学者がおります。大方の人は「そんな馬鹿な」と笑うことでしょう。でも、もし人類がAIによって滅ぼされるとしたら、それは「考えるAI」ではなく、「考えないAI」つまり今のようなAIの延長線上にあるのだと僕は考えています。つまり、さまざまな背景など無視し、その目的のためにひたすら最適化し続けるということです。今後、AIに特化したコンピュータチップは高性能化し、その計算能力を指数的に伸ばしていくことでしょう。この10年ほどでは大して問題なくても、20年後の人類はその行動の多くをこの機械学習AIの進化系となったものに頼ることになることでしょう。しかし、AIは考えるわけではありませんから、最適化を極めていきます。この地球環境を守ることに最適化するならば、人の事情などお構いなしに人類は滅んだ方がいいという結果を導くのかもしれません。

学校という機械学習AI

さて、本題に移ります。今の学校はこんな機械学習AIに近いように思われてなりません。それを予言するかのように、文科省では「個別最適化」を打ち出してきました。本来、個別最適というのは人の人くさい部分にあるはずです。個人の特性、性格、気分、体の調子、家庭環境などなど。ところが、今の学校は子どもが記号化され、それぞれの「個別情報」として扱われ始まっているとしか思えないのです。こそに拍車をかけているのは、GIGAです。一人一台端末によって、まさに人の思考パターンや行動までもが、機械学習で最適化できないか試されて始めました。その行き着く先は、果たして「多様性」となるでしょうか。僕にはそう思えないのです。もちろんGIGA政策そのものが悪いわけではありません。子どもの多様性を惹き伸ばす力がある教師が一人一端末を使えば、より効果的に子どもの力を引き伸ばすことができることでしょう。一方で端末を使うこと自体が目的化してしまうようなガシェットオタクや、それで子どもをコントロールしたがる教師が使えば、それは思考の「収束」に向かうことになりかねません。

収束へ向かう個別最適化

近年の小学校の問題は子どもの問題行動、つまり「荒れ」ですし、中学校では、「不登校」です。これらは、コロナの収束など関係なく、今後も拡大していくことでしょう。小学校ではますます子どもは不安定となり、荒れはひどくなっていくことでしょう。そして中学校も不登校はまもなく生徒の2割に達するとデータは示します。こうした状況に、学校がとっている施策は多様性に向かっての個別最適化ではなく、収束に向かっての個別最適化ではないか、そう思えてしかたないのです。その意味で僕ら教師は、その収束に向けての個別最適化を「考える」こともせず、まるでコンピュータチップのような振る舞いをしているのだと思えてなりません。

多様性に向かう個別最適化

では、どうすればよいのか。僕らはもう一度、「人とは?」「子どもとは?」「教育とは?」という原点に立ち返っていく必要があるのだと考えます。教師は哲学者であり、子どもの前に立つ限り考え続けていく先生(先に生きる存在)なのです。子どもたちに何を投げかけ、何を問い続けるのか考え続け、そして子どもの多様性を育てていく、そんな多様性に向けた個別最適化をめざしていかなければならないのだと思うのです。

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