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288.かけがえのない信用

ちょうど近くまで来たので、僕が学生時代を過ごした街で昼飯でも食べて行こうと妻を誘った。

ー箇所だけの改札を通り抜けて駅舎を出ると、すぐ右手に僕が通った大学のキャンパスがある。

門構えや生い茂る木々は変わらないが、その緑の上からは、新しい校舎のビルがにょきにょきと伸びているのが見えた。

「へえ、色々変わっちゃったんだなあ。」

それもそのはず。

大きな駅と駅の狭間にあって、幾分のどかさが残る街だったが、あれから長い時間が経過したのだ。

白く小柄な駅舎に、ステンドグラスが彩りを添えている。

朝から開いているあそこの蕎麦屋は、徹夜で酒を飲んだ時には必ず行った。

あそこの花壇の裏で、先輩の女性に告白した。

ああ、若かったなあ。

「あなたが住んでいたのはどの辺なの。」

「大学の向こう側だよ。自転車ならすぐ。」

終電の心配をする必要がなかったし、友人の臨時の宿になることも多かった。

「ひとり暮らしの部屋なんて、寝るためだけに帰っていたようなものだな。」

部室で夜まで過ごした後は、こたつの上で料理を作るか、友人や先輩後輩とどこか外に食べに行くのがお決まりだった。

喫茶店のカレーパスタ、安くて大盛りのラーメン、ちょっと奮発してファミリーレストランのシーフードドリア。

「あ、この店。ここで食べて行こうよ。」

そこは、地下にある寿司屋だった。

そうだ、こんな入口だった。

カウンターにふたり並んで座り、ランチメニューの握り寿司を注文した。

「まだじいちゃんもばあちゃんも元気な頃で、両親と一緒に、ひとり暮らしを始めた僕の様子を見に来たんだ。夜は、あっちの座敷に上がって宴会をして。」

「いいわね。」

「うちはみんな大酒飲みでしょう。酒も肴もたくさん注文するものだから、お店の人がいちいち大丈夫ですか、大丈夫ですかって聞くんだ。田舎者が値段も分からずに注文していると心配されたって、実家じゃずっと語り種さ。」

「ふふふ。」

「そうそう。ここの駅でさ、アルバイトの帰り。ホームからエスカレーターを上がったところで、頭を下げながら誰彼構わず声を掛けているおじさんがいたんだ。僕が立ち止まって話を聞くと、財布を失くしてしまって帰れなくなったんだって。それで、お金を貸して欲しいと。だから、僕は財布に入っていた五千円札を渡したんだよ。」

「怪しい。」

「明日、この駅にお金を返しに来ますからと、その場で電話番号を教えてもらって、電話がかかることも確かめたんだ。」

「手慣れている感じ。詐欺ね。」

「翌日、授業が終わって約束の場所に行ったけど居ない。電話をかけても。」

「繋がらないわよね。そんなのに騙されちゃ駄目よ。第一、電車賃なら窓口で貸してくれるはず。」

「田舎から出てきた純朴な青年を騙すとは、太い野郎だよ。」

「うちのお母さんだったら、あなた、相当怒られているわよ。」

「お義母さんだったら。そうだろうね。」

「あのね、私の初めてのおつかいの話よ。頼まれていた野菜が安売りしていたから、大丈夫だろうと思って勝手にお菓子をかごに入れたのよ。」

「将来は大物になるね。」

「それで、いざレジに並んだら、1円足りないよってレジの人に言われて。何せ初めての買い物でしょう。すいませんとか、お菓子を戻しますとか、言えないの。」

「うん、うん。」

「もじもじしていると、隣の家のおばさんが後ろに並んでいて、1円をくれたわ。」

「良かったね。」

「あんた、このお菓子はどうしたのって、帰ったら当然怒られたんだけど。説明したら、お母さんは何度も頭を下げて1円を返したのよ。」

「たかが1円、されど1円。」

「お金よりも信用の方がはるかに高いことを、よく知っているからね。」

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」