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297.石橋を笑顔で渡れ

「これまで我が社に貢献されてきたことに深く感謝し、敬意を表します。これからも素晴らしい人生を送ってください。」

人事部長の言葉の後、僕たちは一人ひとり、退職辞令を手渡された。

人事課にいる同期の仲間が介添えをしているが、厳粛なこの場ではお互いに目も合わせず、一個の社会人らしく振る舞った。

「これにて、退職辞令交付式を閉式する。」

その言葉によって僕たちはぱっと散らばり、会場脇に整列していた部長たちの元に駆け寄った。

固く握手をしながら、短く、別れの挨拶を交わす。

どの顔も頷き合い、上司と部下という関係を超えた笑顔だった。

現状から抜け出したいともがいてきたが、その数年間に意味があるとすれば、これら優秀な上司の下で仕事ができたことだと思う。

この会場には、今日で退職する社員たちが集まっていた。

これまでの会社人生の中で見知った顔もたくさんある。

定年まで勤め上げた者。

体調を崩してしまい、地元に帰る者。

僕と同じように、希望の道に進む者。

事情は様々あれど、みな納得した表情をしていて、不本意な気持ちを抱えたまま今日という日を迎えた者はいないように見えた。

その後、同じ部の退職者一同で、世話になった部署に挨拶をして回った。

出先の事務所も回るため、社用車2台に分かれて乗車し、1台は僕が運転した。

桜並木の道路を走る。

宅地開発されたこの小高い丘はかつての高級住宅街で、メインストリートには老いた桜のアーチがどこまでも続いている。

そう言えば、いつかの仕事の帰り道。

転職することをぼんやりと考え始めた頃にも、この桜を見上げていた。

会社に戻ってきてからは時間いっぱいまで菓子を配って回り、夜は送別会に向かう。

「前はもっと大変な仕事をしていたんだとか、チェックする立場だったんだとか、言っちゃいけないぞ。年下の先輩にだって、はい、分かりましたと、新人のつもりでやっていかなきゃいけないぞ。」

どう見ても堅気の人ではない風貌の先輩が、僕の注ぐ酒を受けながら言った。

これでも随分丸くなったのだ。

僕が入社した頃など、理不尽な要求をする客の胸ぐらを掴んで頭突きを食らわせ、話の通じない役員の顔には書類のファイルを投げつけたということだ。

勤務時間中、通勤に使っていた大型バイクが盗まれそうになった時には、駆けつけて自分で男を捕まえ、警察に突き出されるか、俺に半殺しにされるか、どっちがいいかと言ったそうだ。

半殺しがいいと言ったその男は、本当にその場で半殺しにされた。

「お前、これが最後だぞ。転職する奴は何度も転職する。やっぱり自分にはふさわしくなかったと言って、何度も辞める。この仕事をしていくんだと、覚悟して行ってこい。」

「はい、分かりました。」

「ひとつの仕事をやり抜いて、退職して死ぬ時に、ああ、あの仕事をやっていて良かったと思えればいいんだと、俺の親父も言っていた。」

「はい、勉強になります。」

「しかし、お前が転職していくとは思わなかったなあ。」

「自分でもびっくりです。」

「納得のいかないことがあっても腐るなよ。お前は決断して勇気がある。初めは青っ白い奴が来たと思っていたが、飲み会にもきちんと顔を出して偉いよ。」

「ありがとうございます。」

「愚痴を言い、辞めてやると言う奴は大勢いたし。あっちの会社がいいと思っているとか、こっちの仕事が向いているんじゃないかとか言う奴も大勢いた。そんな奴らに、俺はいつも言ってやるんだ。やりな、動きな、って。だが、実際に行動に移す奴は本当に少ない。」

「結局、現状維持が一番楽ですからね。」

「そいつらが石橋を叩いてばかりいるうちに、橋を渡った先では、とっくに充実した人生を始めている奴らがいる。渡ってみないことには、話が始まらないんだよ。」

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」