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295.恋は焦らず

一週間後に転職を控えていた僕は、ここ最近は弁当を持ってくるのをやめ、昼休みには仲間を誘ってランチに出掛けることにしていた。

今日は後輩と約束をしている。

当時、同じ部署に配属された一年後輩の男で、僕が社会人になって最初の後輩である。

昼の鐘が鳴ったらすぐに入口ロビーに集合し、並んで歩き始めた。

「僕もいい歳じゃないですか。未だに奢ってくれる唯一の先輩だったのに。」

「仕方ない、最後も奢ってやるか。」

「もっと気持ち良く奢ってくださいよ。」

幾度も通った店だ。

2階の入口へ続く外階段を上る。

夜は薄明りの似合う立派なバーだが、昼はカレーライスを提供している。

昔からそうしていたように、彼がチキンカレーを注文し、僕は茄子と挽肉のカレーを注文した。

ただし、昔のように大盛りにはしなかった。

「先輩、株とかやっていますか。うちもお小遣いが厳しくて。」

「一応、やっているよ。」

「儲かりますか。」

「儲かりはしないな。まあ、社会勉強の代金だと思っているよ。」

「そんなに甘くないかあ。」

「決算の後、ぽんと値上がりした時に売った株で、ちょっと儲かったことはあるけど。あぶく銭だからさ、自分の欲しい物を買って、妻にケーキでも買ってあげて。それぐらいかな。」

「仲が良いですよね。奥さんとは経理で一緒だったんでしたっけ。」

「そう。僕が異動して、妻の隣の席に行ったのがきっかけだね。」

「一目惚れですか。」

「まさか。社会人歴で見れば僕が先輩なのに、最初は、生意気な奴がいるなと思っていたよ。」

「ははは。そうなんですか。」

「向こうも快く思っていなかったはずだよ。全然言うことを聞かない奴だと思われていただろう。」

「どうして付き合うことになったんですか。」

「向こうから食事に誘ってきたんだよ。」

「言いますね。先に惚れたのは向こうだと。」

「いや、ふたりで残業して帰った時とかにさ、食事をして帰りませんかって。そんなことが何度か続くと、おや、と思うよね。それで、今度はこっちから休日に誘ってみたり。」

「いいですねえ。」

「ただ、今にして思えば妻が一枚上手だった。妻は仕事に厳しくて、いつも不機嫌そうな顔をして働いていたんだけど、デートをした翌日なんか、にこにこしていてね。私、手伝いますから、なんて言ってくれるんだ。それで、僕も気持ち良く働けるものだから。」

「なるほど。奥さんの機嫌が良いと得する先輩は、奥さんの味方になっていくと。」

「僕に利益を与えた方が、彼女の利益が増えるということだ。」

「結局、先輩が追いかけているじゃないですか。」

「そういうからくりなんだよ。」

「それで、先輩から告白したんですね。」

「ディナーを予約したレストランでね。隣のテーブルにいた学生たちに一部始終を見られて恥ずかしかったよ。」

「奥さんは何て。」

「やっと言ってくれたのねって。」

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」