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199.体温がある人

昼休み。

係長が足早に僕たちのところを通り過ぎようとして、思いついたようにこちらを振り返る。

「今、少し手が空いているか。」

僕と、同僚の女性は、何か荷物でも運ぶのかと思い、係長の後ろを追いかけた。

係長はそのまま外に出て、社員用の駐車場を横切る。

手には、いくつかのビニール袋を持っていた。

「仕事の時間に食い込んでもいいって、課長に了解を取ったからさ。」

僕の会社の社員用の駐車場には、さくらんぼの木が2本生えている。

今年は大豊作だった。

どうやらこのさくらんぼを収穫して、みんなで山分けしようというのだ。

「味見をしたらさ、美味いんだよ。君らも食べてみるといい。」

「こんなにたくさん実がなるんですね。」

「放っておくと鳥が食べに来て、そこら中が糞だらけになるのさ。」

「あら、それは大変。」

片方の手で枝を押さえながら、もう片方の手でさくらんぼを獲り、次々にビニール袋に放り込んでいく。

木の上の方までは手が届かない。

そのくらいは、鳥たちにくれてやろう。

「君のところ、お姉ちゃんはもう小学生だっけ。」

「いえいえ、まだ来年ですよ。」

「そうか。今が一番可愛いかな。」

「うるさくてかなわないです。下の子とも喧嘩ばかりですよ。私はいつも怒鳴っていて。叱るんじゃなくて、怒ってしまうんですよね。」

「まあ、お母さんはそれで良いんじゃないか。」

「そうですか。」

「感情に任せて怒って良いんだよ。だって、命懸けで産んだんだから。それで、お父さんが後から理屈でいくのは良いと思うぞ。お前、お母さんが何であんなに怒るか分かるかって。」

「でも、叱ってばかりですよ、私。」

「叱ることも必要なんだよ。でも、何もない時には放置しておいて、悪い時にだけ叱る親には、子どもは耳を傾けないぞ。何もない時にこそ、何倍も仲良くするんだ。そうすればたとえ叱っても、自分のことを大切に思って叱るんだと理解できるから。」

「なるほど。」

「もし道を踏み外しそうになった時、親から大切にされていると考える子は、最後の最後でブレーキをかけられるものだよ。まあ、君のところは心配ないだろうけどさ。」

「いやあ。私、できるかな。」

「大丈夫だよ。できていると思うよ。君みたいに言動に体温があるというか、感情が表に現れている人って、絶対に子どもからも愛されると思う。」

僕は黙々とさくらんぼを獲りながら、ふたりの話を聞いていた。

いつかのため、しっかりと胸に刻んでおこうと思った。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」