294.単純な話じゃないか
「戻りましたあ。」
僕は、係長の代打で出席していた会議から職場に戻った。
会議と言っても、みんなで集まること自体が目的になっているような会議だ。
最近、この手の会議はすっかり僕の仕事になっている。
僕以外のみんなは忙しいからだ。
会議で配られた資料を係長に渡してしまうと、僕はふらっと席を立つ。
トイレや自動販売機に行くついでに社内をぶらぶらと歩き、見知った人がいたら退職の報告をして回るのが、ここ最近の僕の習慣となっていた。
「すでにご存知かと思いますが。」
「え、存知じゃないよ。」
「今週いっぱいでということになります。」
「ここで偉くなっていくものと思っていたのに。でも、希望の道に進むということで、ご活躍くださいね。君と一緒に働いていた頃は私も未熟な時期で、ご迷惑をおかけしました。」
「いいえ。生意気な後輩ですみませんでした。」
「いいなあ、私も辞めたいわよ。」
「妻は残りますので、よろしくお願いします。」
「そうだ、最近結婚したばかりじゃない。いつの間に手を回していたの。」
缶コーヒーを片手に階段を下りると、夫婦共々世話になった先輩と目が合った。
こっちに来いと手招きをしている。
僕は窓口カウンターを越え、先輩の席まで進んだ。
こんな面白い人と知り合いになれたと考えると、人事異動というシステムも捨てたものではないと感じる。
「退職していく人に対して、どうしてその理由をヒアリングしようとしないんだろうな。組織として非常に貴重な意見なのに。」
「そうですねえ。」
「あ、そうだ。ほらよ。」
「ありがとうございます。え、何ですか。立派な箱ですよ。」
「火入れしてある酒だから保存が利くよ。」
「わあ。先輩、さすがです。」
「結婚の話をしていたと思ったら、勝手に転職なんかしやがって。」
いつもの調子で、腕を殴られた。
「痛い。」
「まあ、仕事も家庭も大事にして頑張って。」
向こうの島の部長のところに、かつての人事部長が話をしに来ているのが見えた。
この会社を定年退職した後、関連会社の顧問を務めている。
たまに顔を出しに来るのだが、当時、僕を希望の部署に行かせてくれた恩人でもあるので、挨拶をしない訳にはいかない。
用事が済んで廊下を歩くその人に僕が転職の報告をすると、大仏のような尊顔が瞬時に険しい表情に変わり、ひやっとする。
そうだ、この覇気。
今の上司たちにはないこの眼光。
「一隅を照らすと言ってね。人間、どこに行っても一箇所しか照らせない。頑張ってください。でも、度々仕事を変えちゃ駄目だよ。」
「はい、分かりました。」
夜は送別会だ。
今夜でもう十回目だろうか。
これまでの仕事を通じて、多くの仲間と知り合えたことに感謝したい。
送別会の間中、僕は酒を注いで回り、残された時間を惜しむようにそれぞれと思い出話をする。
「係長が色々と手配してくださったおかげで、円滑に退職日を迎えることができそうです。」
「よく言うよ。」
「本当にお世話になりました。」
「でも、好きなことがあって、やる気があって出て行くなら良いことだよな。どうして転職をしようと思ったの。いや、責めている訳じゃなくて。ここで出世した方が、やれることも広がったんじゃないか。」
「昇進していくなんていうのは、僕には合っていないと思います。やっぱり僕は、現場に近いところで仕事をしたいです。」
「間違いなく我が社を背負っていく人材だったのになあ。残念ながら、我が社に魅力がないということだ。向こうの会社は得をしたよ。俺だったら獲るもん。」
「いやいや。ははは。」
「しかし、君の仕事の負担は大きかったはずだけど、よく転職活動をやり切ったね。例の施設整備も、全国的にも珍しいケースだったのに形にしてくれた。」
「システムを組むのだって、僕が仕様書を書いたんですよ。あんな重い担当を任されて、正直、ついていないなと思いました。」
「そうだろう。」
「でも、本業が忙しかったからと言い訳するのも格好悪いですし、道理で本業が疎かだったと後ろ指を指されるのも嫌じゃないですか。だったら、そんな中途半端な心持ちを解消する方法はひとつです。どちらも、すべての事柄で結果を出す。そう気づいた時、何だ、単純な話じゃないかと気持ちが切り替わりました。」
「なるほどねえ。」
「前例がない仕事だろうが、係長から休日にトラブルの連絡が入ろうが、そんなのまったく関係ないんですよ。」
「悪かったって。」
「誰に頼まれたことでもない、自分で決めたことですし。急に言われた話じゃなく、ずっと前から考えていたことですから。分かっていたのに対策しないのは、誰のせいでもなく自分の責任です。」
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」