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286.本番までの過ごし方

その日、僕は休みを取っていたので、仕事終わりの妻を拾いに車を走らせた。

道のりは単純で、家の近所のガソリンスタンドの角を左折し、川に突き当たったところを右折するだけで、彼女の会社の近くまで行くことができた。

「ねえ、そこのカフェに寄って行こうって言ったら怒る。」

「別にいいよ。」

「新しいドリンクが出たのよ。今日は金曜日だし、贅沢してもいいでしょう。」

僕のブラックコーヒーと、チョコレートやらホイップクリームやらが山盛りになった妻の飲み物をトレイに載せ、僕たちのテーブルに運ぶ。

少しすると、大学生と思しき女性と店員の女性が隣の席に座った。

どうやらアルバイトの採用面接らしかったので、僕たちは遠慮して静かにしていた。

弊社で働きたいと考えた動機をお聞かせください。

大学では、どんなことを頑張っていますか。

周囲をサポートしたと仰いましたが、具体的にはどんなことがありましたか。

「では、合格の場合のみ、明後日までにご連絡を差し上げますね。」

面接が終わると、切り取り線でぱりぱりと書類を切り離すように、ふたりはまた他人同士に戻っていった。

「彼女、きっと大丈夫だね。」

「大学生って初々しいわね。」

聞き耳を立てていた僕たちもほっと胸を撫で下ろし、話題は面接のことへと移っていった。

僕の初めての面接は、中学校受験の時だった。

「私立の中学校に進むことを勧められて、小学校6年生から塾に通い始めたんだ。塾では、友だちができなかったなあ。」

「あなた、引っ込み思案よねえ。」

「嫌だったな、夏季講習とか正月特訓講座とか。」

「受験は上手くいったの。」

「まあね。筆記試験にパスして、5人くらいで集団面接を受けたよ。」

今でも覚えている。

部活動の試合がある日に、家族の大事な予定が入っていたらどうしますかと、面接官は僕たちに尋ねた。

僕も含めた全員が、家族の大事な予定を優先すると答えると、次に面接官は、その部活動の試合が、県大会に繋がるとても大事な試合だったとしたらどうですかと尋ねた。

また、家族の用事とは、ずっと前から計画していた旅行だったとしたらどうですかと、僕たちを揺さぶる。

「みんなは、それなら部活です、それなら家族ですと、あっちに行ったりこっちに行ったりしたけど、僕は、それでも家族の予定を優先しますと答え続けたんだよ。それが良かったのか、僕は無事に合格したの。」

「その頃から融通が利かなかった訳ね。」

試験を受けて合格するというのは生まれて初めての経験だったので、僕は飛び上がるほど嬉しかった。

一緒に合格発表の掲示板を見に行った祖母と、抱き合って喜んだものだ。

「試験は緊張した。」

「いや、僕は昔から緊張しないんだ。」

「やっぱりね。」

「試験でも面接でも、何でもそうだけど、本番の日を迎えた時点で勝負は決まっているんだよ。」

「でも、本番でこそ頑張らないと。緊張しちゃって、いつもの力が出せないこともあるでしょう。」

「それも含めて、その人の実力さ。本番でちゃんと結果を出す人っていうのは、本番の日にどうにか上手くいった人じゃない。練習の7割の力しか出せなかったのに、結果を出す人なんだよ。」

「本番までの過ごし方が大事っていうのは分かるわ。」

「本番で上手くいくかどうかは関係なくて、いつも通りの力が出なくても結果を出せるぐらい、実力をつけておくべきってこと。」

「まあ、本番が始まってから頑張っても仕方がないのよね。」

「でも、結局その中学校には通えなかったんだ。」

「どうして。」

「合格ラインを超えた受験生が多かったみたい。最後はガラガラの抽選器を回して、ころんと不合格の玉が出た。こればっかりはどうしようもないね。」

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」