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298.真実は酒の中

「今日は時間通りに着きそうだって。」

「いや、そう上手くいくもんか。」

僕たちは待ち合わせ場所に向かう電車の中で、彼女からの連絡を受け取った。 

社員の労務管理を行う彼女は、杓子定規が服を着て歩いているような仕事振りで、いくら仲良くなろうが駄目なものは駄目。

僕たちは彼女と同期だったが、社内で話す時には自然と敬語になってしまうのだった。

しかし、プライベートとなると一転、仲間の家で集まる時も、約束の時間通りに来れたためしがない。

電話をかけて返ってくる台詞は決まっている。

「わあ、ごめんなさい。今、起きた。」

みんなで台湾旅行に行く時など、彼女の家から空港までは、始発電車に乗らなければ間に合わない。

その日も寝坊した彼女はほとんど泣きながら駅に駆け込み、閉まりかけていた電車のドアを車掌が開けてくれたからいいものの、危うく彼女抜きで出発する羽目になるところだった。

遅刻しないように徹夜しようとしたが、結局明け方に眠ってしまったらしい。

「プライベートの予定で、彼女が約束の時間に間に合うはずがない。」

そんな話をしていたところ、財布を忘れたので一度家に戻る、と連絡が入った。

「戻らなくていいよ。お金なら貸すのに。」

そういう訳にはいかない、と妙なところで律儀な彼女だった。

その後、乗り換え駅では走り、電車を降りてからはタクシーを使うなどしてどうにか間に合った僕たちは、予約していた酒蔵の見学会に参加した。

「ここが酒米の田んぼです。春夏にビールを造る酒蔵もありますが、うちは酒米を育てています。収穫時期が重ならないように、晩稲と早稲を育てているんですよ。」

そこには、ひび割れた田んぼが広がっていた。

「収穫後もしばらく水を張っていたんです。水鳥の住処になりますし、地面の温度が保たれて微生物が活動できます。このまま土をかき混ぜれば、次の田んぼに使えます。」

「へえ。」

「あまり肥料はやらずに、ハングリーに育てた方が稲は根を張るので、風でも倒れにくくなります。酒米には、実はあまり栄養は要らないんですよ。栄養は米の外側に集まりますが、酒造りにおいては、外側は精米して削ってしまいますので。」

続いて建物の中に入ると、2台の巨大な精米機がそびえていた。

なるほど。

子どもの頃、祖母に食べさせてもらった糠は、こうしてできていたらしい。

今回は特別に、外から製麹室も見せてもらった。

ここで、蒸した酒米に麹菌を振りかける。

麹がデンプンをブドウ糖に変えていくことを糖化と言うが、日本酒の場合、タンクの中で糖化とアルコール発酵が同時に進行するため、醸造酒にも関わらずアルコール度数をあそこまで高く持っていけるのだ。

見学を終えると、用意された小型のバスに乗り込み、酒蔵の直営レストランに向かう。

これこそが楽しみだった。

和食のコース料理で、それぞれの料理に合わせた酒が運ばれてくる。

酔ってなお、彼女は僕たちに平謝りしていた。

「本当にごめんなさい。もう、どうしていつもこうなんだろう。」

「織り込み済みだから平気だよ。」

いつも遅刻するからといって、次からは呼ばないなんてことにはならない。

公私の落差が面白いからなのか、寝坊した時は寝坊したと、彼女は嘘をつかないという信用があるからなのか。

そこには、同期だからという単純な理由だけでは計ることができない力が働いている。

予想通りに遅刻してきて、正直に謝るという彼女の人柄であればこそ、いくら寝坊しても、僕たちの友情や信用が揺らぐことはなかった。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」