299.最近の若い奴
社会人になる僕は、駅から近くて家賃の安い物件を見つけ、川と線路の間に建つそのアパートで新生活を始めた。
ひとつしかない窓には、ひびが入っている。
窓のすぐ外には金網のフェンスがあったが、夏になると背の高い雑草がフェンスを飲み込み、窓に覆い被さってくるようだった。
フェンスの向こうには線路がある。
近くの駅には6路線が乗り入れていたので、どこに出掛けるのも便利である反面、部屋にはほとんどいつも電車の音が響いていた。
一番手前は、貨物列車が通る線路だ。
さすが貨物列車は、僕たちが眠っている間にもあちこちに巨大なコンテナを運んでいるようで、その音と振動でアパートが揺れた。
部屋の日当たりは悪く、生乾きの下着を履いて出社することも少なくない。
それでも、駅から近い立地には満足していて、平日の朝からゆっくり風呂に浸かることだってできた。
反対側の駅前にはスーパーマーケットがいくつもあり、買い物と言えば酒ぐらいだったが、暮らすには便利な街だった。
一日の仕事を終え、夕暮れの中、川沿いの帰り道を歩きながら、僕は今の生活に満ち足りた気持ちを感じていた。
働いて給料をもらい、アパートの家賃を払い、親から自立して生活しているのだという新鮮な感覚があった。
食事は外食ばかりだったが、若いうちは、まあいいだろう。
彼女もできるだろうか。
いずれはそういう人と出会うのだろうと、呑気に夢想するのだった。
「ようし、上がろうか。」
社会人になってまもなく1年が経とうという3月、点検作業で居残りをしていた僕と係長も、そろそろ帰り支度を始める。
仕事には慣れたかい、そんな話をしながら僕たちが駅へ向かって歩いていると、花束を持つ男性が交差点で信号待ちをしていた。
「おうい。」
係長がその人に声をかける。
「お疲れ様です。」
「あ、今日で最後だっけ。」
「はい、そうなんです。係長にも大変お世話になりました。」
聞けば、ふたりは以前、僕が今いる職場で一緒に働いていたらしい。
「何だ、最後の日まで残業か。」
「まだ、みんなは残ってやっているんですけど。僕も、送別会を待たせているので。」
「おいおい、主役がいなくちゃ始まらないだろう。」
電車の中で係長とその人は昔話に花を咲かせていたが、途中の駅で係長は降りていってしまう。
ホームで手を振る係長を追い越すと、電車には、その人と僕が残された。
「君は、新人の子。」
「はい。1年目です。」
「あそこは、今が繁忙期でしょう。」
「はい。でも、大丈夫です。今日はたまたま残業でしたけど。」
「そうか、システムも新しくなったから。」
僕は、昔のシステムのことは分からなかったが、ああ、そうですねと返事をした。
「僕は、今日で退職するんだ。」
「はい。ええと、お疲れ様でした。」
その人は、眼鏡の奥から優しそうな眼差しを僕に向けて言った。
「君は、上司たちがまるで仕事をしていないと思ったことはないかい。最近の若い奴はって、言われたことはないかい。」
それほど深く考えたことはなかったが、多少思い当たる節もあるので、僕は話を合わせて頷いた。
「その上司たちも、若い頃は僕らと同じことを思っていたはずなんだ。上の人間は何も考えていやしない。僕らが何とかしないとって。」
「そうやって頑張って、成果を上げたから、出世したんですよね。」
「だからこそ、自分のやり方が正解なんだと信じて、老いていくんだと思う。この先もずっと、それが正解なんだと思い込んでしまうから。何が言いたいか分かるかい。」
「歴史は繰り返されるということですか。」
「何も考えずに過ごしていたら、いずれ僕たちもそうなるよ。最近の若い奴はって、今に言い出す。」
「気をつけます。」
「もしも、今、上手くいっていると思うことがあったら、それで安心するんじゃなくて、引き際を考え始めた方がいい。やったことがなくて、いかにも失敗しそうなことに首を突っ込んでいくのがいい。自分が煙たがっていたはずの大人になってしまうよ。」
電車が駅に着くと、その人はホームに降り、電車の中の僕に向かって軽く右手を挙げた。
「頑張って。」
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」