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文字の水圧に浸りながら

 ここ最近は、とにかくいつも何かを読んでいる――というより、読まされているような感覚で、ちゃぷちゃぷと音を立てて文字の水槽に浸っているような日々をずっと過ごしている。水槽はすでに溢れているのに、いっこうにそれが統一的な流れとして排水されないままに水かさが増している。どんどん新しい水脈から水が継ぎ足されてくるが、そのうちには真水もあれば塩水もあって、清水もあれば汚水めいたものもあって、どれもこれも吸収しようとして、頭の中で清濁混交した文字の水が、すでに表面張力の限界を突破している。

 そのうちに、屋外には雨が降って来た。脳内ではそれが文字の雨として具現化され、私の水槽はいっそうちゃぷちゃぷと浪を立て始めて、揺れ動いて零れはじめる。わずかに澄んでいた水底の水がかき回されて、様々な種類の水が混濁し、ほしいままに氾濫した挙句、うたかたを残影にして何も残らず消えてゆく。

 文字表象の理解に対する自分の二律背反性は実に不思議なものだ。私は、わからぬものが嫌だというある種の合理性にとらわれている一方で、わからぬものを延々と自己撞着的に思考し続けてぐるぐる回っていることを楽しむという性癖も抱えているらしい。しかし、後者の性癖を他人に知られると嬉しくないので(あるいは変態的だと思われるのが怖いので)、表向きはきちんと思考が整理されているような恰好をつけようとする。綺麗に整っていることが、頭のいいことだという思いこみがあり、馬鹿だと思われたくない小さなプライドがそこに入り込んで、いつまでも自分を苦しめている。

 人間の自己表現の中には、嘘がつきまとう。外界からの刺激をそのまま表現することは不可能であって、もっとも重要な感覚だけをどうにか残して、あとは表現手法の限界に応じて削ぎ落さねばならない。物事をありのままにとらえるとはどういうことかと聞かれれば、結局は何もせずに外界からの刺激に身を任せていることであり、それは究極の自然的態度となる。しかし、だからといってただボーっとしていればいいのかという話になる。もちろんただボーっとしていることには私のような怠惰な人間には魅力的な生活態度であるが、それもそのうち飽きるだろうし、一般的にも、社会的生物たる人間の営為として物足りなさを感じる向きも多いと思われる。人間が人間である以上、生きて受け取った感覚を人に伝えたいという欲求が発生してくるわけで、そういう意志疎通の繰り返しによって、我々は過去の人間や同時代の会ったこともない人間とつながりを持ち、時に同調して安心し、時に反発を感じて苛立つのである。そして、文字であらわされた情報については、書かれていないことを読み取る「文学的」素養によって背景を看取しなければならない。それは物事を要領よく、合理的にまたは理性的にのみ解釈しようとする人間には難しい。

 その結果が、この水槽である。水槽にふわふわと浮かんで、下層に沈殿したヘドロのように粘質な概念のかたまりを、これはもともとどんな水に含まれた成分で、どの水に親和性があるのだろうかと一生懸命につつきながら、塊としてとり出そうと足掻き続け、頭上はるか高くに見上げる澄ました水の層に移動しなければいけないと思っているそのうちに、また水槽の水かさが増している。




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