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罹災する書物たち

 1923(大正11)年9月1日に発生した関東大震災のあと、「主義者」にかけられたあらぬ噂が徐々に大きくなり、内田魯庵は近所づきあいのあった大杉栄を心配していた。大杉はすでに危険思想の持ち主として官憲から監視を受ける立場だった。魯庵の「最後の大杉」には、大杉栄の最期までの経緯が書かれている。死の当日まで、大杉は身の危険を気にする風もなく、幼子を連れて乳母車を呑気に押していたという。

 魯庵は震災をきっかけに大杉という知己を失ったが、また震災による文献の喪失にも心を痛めていた。
 改造社の『大正大震火災誌』(1924年)は、関東大震災を様々な角度から分析し、総覧できるように編まれたものである。「名跡及文献の喪失」という項目が設けられ、名所、旧跡、天然記念物などの被害状況の概要がまとめられている。この本に、内田魯庵の「典籍の廃墟」という、震災による文献消失についての随想が収録されている。(もとは雑誌『改造』大正13年5月号に掲載されたものだと思われる。)

…恐らく今度の大震災の為めの官私大小十数文庫の全滅は国史創まつて以来の書籍の最大厄であらう。
 単なる数量を以てしても帝大図書館の何十万冊を筆頭として神田の古本屋町の連甍の肆頭に積まれたものまでも合算すれば罹災した書籍の総数は何百万冊か何千万冊に上るだらう。…
 実を云ふと今度の焚書も、…文献の最大厄と痛惧するほどの大事で無かつたのだ。唯だ此の数個の文庫の懸換の無い歴史的資料や金に見積る事の出来ない宝冊稀本は永久に償はれない文化的大損失であつた。

内田魯庵「典籍の廃墟」

 魯庵はこの文章で、よくぞここまで調べたと感心したくなるほど徹底的に、失われた書籍・古典籍・文書記録の類を挙げている。
 例えば貴重書では、帝大図書館にあったマックス・ミュラー文庫の多くが焼けてしまい、その中にはカント自筆の『純粋理性批判』の初版があったとされる。また、日本の名著として魯庵が惜しんでいるのは、狩野亨吉が旧蔵していた安藤昌益の『自然真営道』であった。安藤昌益は戦後に至るまで忘れられていた思想家となっていて、日本通のカナダ人外交官ハーバート・ノーマンが着目して『忘れられた思想家 安藤昌益のこと』という著作を上梓したことで再び注目を集めた人物である。魯庵が大正末期の時点で安藤昌益の思想(と狩野亨吉の慧眼)を絶賛しているのも、余談ながら興味深い。

 明治文学研究者の柳田泉は、災害による書物消失に関する魯庵の文章を読んで大いに感銘を受けた(柳田自身は関東大震災の文章だと回想しているが、実際は上記「典籍の廃墟」よりも、魯庵が明治45年に丸善の火災による書物の消失を書いた「灰燼十万冊」の影響が大きかったようである)。自身も文学作品のコレクターであった柳田は、貴重な文献資料消失の実相を目の当たりにしたことによって英文学研究から転換し、日本文学研究に身を捧げることを決意した。

なるほどそうだ、もしこうした災害が二度三度とくるなら、明治どころか、日本全体の文化、文学の跡もたどれなくなってしまう。これは英文学史などをやっている場合ではない。英文学史はまたあとでもやれるし、ほかにも人があろう。おれは、何よりもまず明治以来の日本文学の跡をいまのうちにしっかりと記録しておく方に回るとしなくてはならぬ。そう考えて、書きかけの近世英文学史の方は、一切放擲ほうてきし、そのとき以来、明治文学の本式研究に身も心も打ちこむことになったものである。私は内田さんのところにかけつけて、この志を語り、よろしく応援を頼んだ。そうして内田さんから大いに励まされたことを覚えている。

柳田泉「明治文学十話」

 歴史学界隈でも貴重な文献が数多く失われた。先の魯庵の文章によれば、大蔵省編纂の『大日本租税史』や『明治初年貿易史』、あるいは江戸時代の財政の重要記録である『理財会要』や『審判記』などもまた失われた。内務省に保管されていた琉球の日本編入関係の記録もことごとく失われたという。また、官庁から帝大図書館に移管された記録類も焼けた。内務省からの『評定所記録』・『寺社奉行記録』、大蔵省からの旧幕府諸藩調達金証書や社寺領文書、外務省からの「釜山文庫」と称される日韓外交文書など、いずれも原本史料が烏有に帰した。伊能忠敬の自筆地図である『日本輿地全図』は、一部が明治6年の皇居火災にて失われており、忠敬自身が副本として残していたものが残されていたが、これも全て関東大震災にて滅亡したという。
 また、魯庵は「幕府が締結した条約書」とだけ簡単に書いているが、これもまた、外交史上に知られる関東大震災での文化財損失である。外務省が保存していた条約書を、たまたま幕末外交文書集編纂のため東京大学の史料編纂所に貸出中であったところに罹災したもので、東大の書庫にあったほとんどのものが焼失してしまったのである。使用中であった英・米・仏の三か国の修好通商条約のみ、損傷は激しいものの奇跡的に焼け残って現存しているが、ロシア、オランダ、プロイセン、ベルギーやイタリアなど、他のヨーロッパ諸国との修好通商条約の原本は、ことごとく灰燼に帰した。

 失われる記録があればその体験から作成される記録もある。前出の改造社版『大正大震火災誌』もそのひとつだし、翌年には警視庁からも、震災の記録を公的にまとめた同名の書籍が刊行されている。
 また、同じ1923年9月1日、小学生だった丸山眞男は突然の激しい揺れに慄いた一人である。丸山少年は、震災の翌日長谷川如是閑の家に避難した経緯などを日記に書き残している。のみならず、震災体験を『おそるべき大震災大火災の思い出』として書き連ね、書籍の体裁にして一冊にまとめていることから、その衝撃の大きさが測り知れる。




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