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節目なので、自己紹介をしません。

 本記事で、ちょうど100の投稿をしたことになるようです。少し前から、2021年内に100記事投稿を達成したいと考えていたところ、予定よりはやや早く目標を達成することができました。この100記事のうちには未成熟なつぶやき記事も含まれますし、毎日投稿されている方からすると大したことのない数ですが、飽きっぽい自分にしては珍しい継続力だと驚いています。

 noteを開始した当初は、まさしく「ノート」的な使い方をしようと考えており、自分の将来の研究に向けたメモくらいに捉えて、従来の関心事である歴史関係の抜き書きのようなことをしていました。それも数回で放り出しており、ほとんど黒歴史ですが、記念に残してあります。実のところ、2020年の3月頃からアカウント登録をしてあったのですが、最初の記事を投稿したあとで早速放置してしまいました。その後数か月経って、朗読に興味をもって音声アプリでの近代文学作品の朗読を始め(最近そちらはさぼっていますが…)、もともと好きだった近代文学をより深く知るにつれ、従来から持っていた書きたいという欲求ともマッチして、作家や詩人にまつわる記事を投稿し始めたのは、昨年の12月、ほぼ一年前くらいからです。そこからは定期的に、ジャンルはめちゃくちゃに、四方山よもやま話的な記事を投稿して、ほぼ毎週1~2回のペースで上げ続けることができています。それはやはり、堅苦しい意味不明な文章を辛抱強く読んでくださり、スキを押してくださったり、時にはコメントで励ましてくださる皆様のおかげにほかならず、心より感謝申し上げます。

 私は自己紹介が苦手です。現実世界で必要がある場合は、適当に本業のことを説明して短く済ますのが常です。自分で自分を他人に紹介するというのは、単に自分が他人にどう見られたいかを語るものになってしまい、そういうことは私にとって、端的に恥ずかしい。恥ずかしいというのは、他の人が得意げに自分語りしている姿を軽蔑するという意味ではありません。自分が他人からよく見られたいという意識を強くもっていることは、自分で一番よくわかっていて、そのエゴに直面するのが恥ずかしいのです。さらに、自己紹介というのは自分を社会的に値付けしてタグ付けをする行為であるとも感じるわけですが、それもまたとても難しいのです。タグを付けた後で、やっぱり違うんじゃないか、自分にこんな「値」はつかないし、別の紹介の仕方があるのではないかと考えてしまい、自分にきちんと向き合おうとするほど、困難になります。自分を客観視して適切に見せることと、自分をあるべき姿として良く見せたいという欲が入り混じるがために、難しくなっているようにも思います。「人間あるがままでいい」という意見もあるかもしれませんが、さすがに幼児のように欲望のままに泣き叫ぶことはできませんから、自然体でいるにしても一定の節度を前提とするのは当然のことです。

 noteの仮想空間でつながった世界ですら、自己紹介は難しく感じます。上にも述べたとおり、自分のこれまでに投稿した記事を見直してみると、実に統一感がありません。小説めいたものから、エッセイもどき、日記、紀行文、評論の真似事、ネット記事の亜流のようなものまで、何のまとまりも見出せません。いくつかのマガジンを設定していますが、これらの間に有機的な関連性はありませんし、充分に更新されているとは言い難い。noteの世界では多くの人が、自分は小説を書いている、詩を書いている、俳句・和歌を詠む、エッセイを紡ぐ、イラストを描く、写真を撮る、読書の記録、ビジネスのヒントをアウトプットする、というように、何らかのテーマあるいは目的意識をもって、日々投稿を重ねておられる方が多く、私にはそういった方々の、あるひとつのものに懸ける熱意が非常にまぶしく、敬意を表してもいます。もちろんここで投稿されているような内容は、その人の一面を表すにすぎず、noteでの活動を人生の全てだと考えている人はほとんどいないかもしれません。そうであっても、何かに集中して継続できるということは羨ましい能力です。
 翻って、自分が文章を書く目的とは何かと問えば、そこには何もなくて、私はただ黙って、考えこんでしまいます。なにかを書きたいという気持ちだけで、小説家にも詩人にもエッセイストにもならず、のんべんだらりと思いを吐露しているに過ぎないのです。こういうよくわからない人に対して、多くの人は身構えてしまうでしょう。いったい何を考えて、何をしている人間であるかがつかみづらい。個性・キャラがはっきりしないので、相手からしても自分が受け入れられるかがわからず、接し方もわかりにくいのです。おそらくは、現実世界でもそういう雰囲気があるのだろうと思います。取っ付きどころがなく、人柄を知られるきっかけがないため、深い間柄になる人がほとんどいないのです。
 プロフィール欄には漫筆家などと書いて誤魔化していますが、つまりはジャンルも決めずになんでも書きたいことを書いているだけの人間だということで、なんの紹介にもなっておりません。ただ、それはかなりの程度自分らしい営みだと思うことも事実です。自分には何の目的もない。意味もない。なんでもない。ただしこのことは、なんの根拠地も持たない自分にふさわしいのではないかと、少し気に入ってもいます。無根拠であることによって、むしろ全き自由を獲得しているとさえ思えるのですから。

 とはいえ、人生の暇つぶしに書き連ねた意味のない駄文をわざわざ公表するという裏には、何らかのエゴがやはり潜んでいるわけです。文章の巧みさを評価してほしいとか、人の胸を打ちたいとか、誰かに共感される部分があるかもしれないとか、あわよくば人助けになるかもしれないとか、利益になるかもしれないとか、そういった俗っぽい欲求があることは否定できません。
 そういう俗的な要素をも含め、押し詰めて考えてみると、自分に何らかの書く目的があるとすれば、それは「文筆をもって立つ」ということかもしれません。それは必ずしも書くことで生計を立てるという意味に限定されず(それが全然含まれないとは言いません)、文筆が生活の中心となる生き方を選択するということです。私は現実世界では口下手で、頭の回転もいいとは言えず、感情の表し方を知らず、そのわりにすぐ不機嫌になる面倒な人間で、専門家ぶっているくせに専門知識というものが苦手で、職業柄の形式的なことならばいくらでも話せますが、現実世界において自分の事を語ることがあまりにもできません。すなわち、趣味はなんだとか、ひとやものごとの嗜好はどうだとか、話題がパーソナルな領域に入ると、途端にじっと黙ってしまいます。他人の事を聞いているうちはいいのですが、自分の事を知られたくないという気持ちが先に立ち、自己開示というものがほとんどできません。ある種のコミュニケーション障害かと思えるほどです。これはある種の子供じみた自尊心が、そうさせているのかもしれません。そのような無難な社交ができるようになった一時期もありましたが、もともと染み付いた頑固さからは抜けることができなかったようで、結局のところもとに戻ってしまい、自分の世界を開放することが大変億劫なのです。どうせ他人には理解できないだろうという高踏的で嫌味な気持ちも混ざっていましょう。
 しかし、書くということによって、いくらか自分のことが伝えられるような気はしています。このnoteの世界にどれだけの文字が散らされているかは知りません――それを知ろうとすることは、大海が何粒の水滴からなっているかを探る、あるいは大地が何粒の土砂からなっているかを計るに等しいように思われます――が、その数えきれない中のいくらかの文字を、私は占有させてもらい、たまたまの確率で出会った、日本語のわかる人たちに、幸運にも読んでいただいているわけです。

 こうしてつらつらと書いている、これらの雄弁というよりは冗漫な文章を、どのようにお読みになるかはもちろん読者次第です。全く嘘っぱちのフィクションであるのか、誠実な懊悩の吐露であるのか、どのように受け取るのかは自由なのです。書いている私も自由ならば、読まれる皆さんも自由です。垂れ流される自己愛に苛立とうが、ユーモアを感じて笑おうが、つまらないと放置しようが、馬鹿なやつだとなじろうが、興味深いと評価しようが、構わない。そういう想像が、私を非常に愉快な気持ちにします。私の中に、自由で多元的な世界が現れます。そこには寛容の極致があって、煩わしい政治的対立・現実的利害対立の要素は一切持ち込まれません。私は自分の書くものをジャンル分けせず、虚構と真実をも分別しません。現実がファンタジーであっても構いませんし、虚構が現実に勝るリアリティを持つのはよくあることです。私はそれを非常に愉快に思います。このような態度は読者をけむに巻いているようで不快に思われる方もいるかもしれません。しかし、自分から言葉を切り離して、文字列として示し、あとは読者を信用して、委ねる。これらのことは自分の「文筆をもって立つ」という意識に伴って、必然的に生まれてくる態度なのです。もっともこんなことは、後知恵のこじつけかもしれませんが。

 思えば、何か書いておかなければならないと奮起したきっかけは、現実世界で従事する仕事にひとつの大きな区切りがついたときに、自分の人生の残り時間を意識するようになったことでした。多くの天才たちがすでに世を去っている年齢であるという実感が年々強くなり、同世代の知人たちは、世の中で存分に活躍している。かたや、大病こそ経験しないものの、かといって身体が頑強でもない自分に残された時間がどれほどあるかわからない。そんななかで、死ぬまでにやっておかなければ後悔することを考えたとき、虚無の谷からぼんやりとあらわれてきたのが、書いてみること、さらにそれを自分以外の世界に放出して、人に問うという営みだったのです。そういう意味で私の記事は、日々様々なバリエーションで、遺書を書き継いでいるようなものかもしれません。そして、そう考えているうちに、「居士」などという戒名のようなふざけたニックネームを使っていることにまで、深い意味や必然性があるような気分になります。

 そういうわけで、ただ書くことのみによって、今は楽しく過ごしています。孤独な生活の暗闇に、ぽっと燈火がもたらされています。現在において、これがただひとつの自己紹介の内容です。もっとも、こんなことが何年も続けられるものか、わかりません。やがて飽きたり諦めたり、目的がないことが虚しくなる、そんな時期もやってくるのかもしれません。それを予期するのは寂しいことですが、今のところは気分に任せて漫筆していられるのが幸福です。何よりただただ文章を紡ぐこと自体が面白い。現象や心境に対して、時には分析して、美しく遊び心のある言葉を、時には粘土のように練って強引に押し当てたり、ブロックのように凹凸をきちんと適合させたりして、接いで当てはめていく作業が楽しい。この先、この作業をもし停止することがあるとすれば、人生の画期をなす別の楽しみがまたやってきたということでしょうから、それはそれで幸せなことなのだろうと思います。


【付記】
 アイコンは、明治の文人・趣味人である内田魯庵の『文学者となる法』から拝借した「遼東のいのこ」の戯画です。「遼東の豚(あるいは豕)」とは、狭い世界で育って他の世界を知らないため、自分だけがすぐれていると思い込んで得意になっているという意味で、もちろん魯庵は同時代の「文学者」たちを皮肉ってこの言葉を使っています。
 私がアイコンとしてこの絵を使うにあたっては、自分の書くものが「遼東の豚」にならないようにという自戒の気持ちももちろんありますが、そうあってもいいじゃないかという開き直りの気持ちも、少しだけ込められているかもしれません。

三文字屋金平(内田魯庵)『文学者となる法』より
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871761





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