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『花をもらう日』第一章 無職、はじまる①

「またいつかどこかでお会いしましょう。さようなら」
 言い終えるとわたしはカフ(マイクのスイッチ)を下げ、残りのBGMを聞き、ヘッドホンを外してお茶を一口飲んだ。テーブルの上に散らばっているキューシート(進行台本)を集め、角を揃えて立ち上がる。番組がCMに切り替わるのを待って、スタジオの防音扉をゆっくりと押す。
 スタッフが2列になって花道を作ってくれている。拍手と歓声がかるい地鳴りのように耳に届く。背中で扉が、空気を含んだいつも通りの音を立てて閉まる。
 お疲れさまでしたー! おつかれ!
 なぜかクラッカーの弾ける音も聞こえる。わたしは目を細める。眩しそうな笑顔を浮かべてみる。感謝と充実感とすこしの疲労、それらが入り混じった顔に見えているはずだ、と思う。続けて、皆に見えるようにふう、とひとつ鼻で深呼吸する。口角がさらに上がる。花道の真ん中を歩き始める。電報、ファックス、花束が、ゼブラ柄のスーツの胸に一気に押し付けられる。
 ありがとう。わー、こんなに?
 開きかけの大輪のユリの花粉が目尻に付く。拭い切らないうちに、花道を崩したスタッフに取り囲まれる。同期のディレクターが腕を絡めてくる。後輩がわたしの肩に顎を乗せる。総務の女子が頬を寄せてくる。皆がわたしを奪い合う。前方でカメラのフラッシュが、いくつも光る。
 撮られながら誰かが涙声になっている。うつむいているつやつやの髪を見つけ、手を差し伸べる。あーあ、もう。泣かないで。死ぬわけじゃないんだから。これからも頑張るんだよ。わたしも、頑張るから。
 よくやったよ、お前。プロデューサーが握手を求めてくる。ほら、最初の頃あいつに、結構しぼられてたよな……? 芝居がかった彼の視線の方向へわたしも目を遣る。そうでしたっけ? わたしは声をひそめる。そんなこと、忘れちゃったなあ。まあ、それだけお前がでかい仕事取ったってことだよな。いやあ、運が良かっただけですよ。そこだけは真面目に聞こえるように答える。
 わたしを中心とする輪の中に、箱に入った花がもうひとつ届く。背の高い胡蝶蘭。箱のてっぺんから取り出す。側面の透明な厚手のフィルムがべかべかと揺れる。差出人は、何度もリクエストをくれた、なじみの静岡のリスナーさんだ。お疲れ様でした、これからもどこかで頑張ってください、と書かれたカードが挟まっている。そう言えば、彼に香木をもらったこともあったなと思い出す。世の中に香木というものがあると教えてくれた人。
 「ねえ、ヒロコちゃん、こんなにたくさん届いちゃって、持って帰れる? 実家へ送ってあげようか?」
 同期がわたしの顔を覗き込む。
 そうだねえ、とわたしは、小山のような花束を見下ろす。折り重なって、競うように良い香りを放っているそれらは、わたしの3年3カ月そのものだと、ふと思う。
 そして、その直後に、しみじみと思った。
 「ヒロコさん、写真写真!」
 声がかかる。はーいと返事をし、わたしは太いリボンのついた大きな花束のひとつを取り上げる。手首がしなる重さ。わたしはそれを胸いっぱいに抱える。
 1993年6月末日。
 終わりの日は、人生最良の日だった。

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