『花をもらう日』第四章 花をもらう日⑥
昔何をしていたか、は、その人の価値を高める要素にはならない。肝心なのは今何をしているか、だ。
わたしは今、家庭教師センターの、アルバイトだ。少し前までアナウンサーだったということに、事実であるという以上の意味はない。それに……アナウンサーだったって言ったって、そもそも全然たいしたレベルではなかったじゃんね……。
ひとつの思考はだいたい同じところを巡るものだが、そのあたりまで行くと必ず笑いそうになるのだった。そう、たいしたこと、何もしていないんだよね。有名でもなかったし、たった3年とちょっとだったし。自分のしたかったことを一時期仕事にできた。それだけだ。経験はただの過去。アルバムに貼られた写真と同じ。
通勤電車の中で、駅から仕事場への道で、いつもそのひとまとまりの考えを繰り返し、こねくり回した。オーディションの結果の電話は、1週間経っても、10日経っても、来なかった。
内藤さんと国分さんの結婚式まであと1カ月だった。内輪で式を挙げ、そのあと友人たちを集めて披露パーティをするのだという。
「……カラオケ大会になりそうだよ」
「それ聞いた。内藤さん、前もそう言ってた」
歌いなはれ歌いなはれ、とからかうと内藤さんは、まあ、みんなが楽しんでくれればね、と笑った。スピーチは5,6人くらいが適当、写真を撮る時間をたっぷりとって……など、すこしばかりの司会の経験をもとに、パーティの進行にささやかにでもアドバイスできるのは嬉しかった。幸せそうな人を見るのはいいものだ。
でも、内藤さんがここからいなくなってしまうと考えると、たちまち寂しくなった。仕事仲間としても友だちとしても、彼女はとても得難い人だった。わたしは彼女と仕事がしたかった。
───ここで、これからも働く。
自分はそう思っているのだと気付く。社員に、という話の返事を、まだしていないくせに。保留の期限を聞くのを躊躇しているくせに。
オーディションに落ちたらアナウンサーへの執着は消えるだろう。というより、消さなければならないだろう。消しながら働くのだ。社員にしてもらって、ボーナスをもらって……そうすれば気持ちも安定して、普通の勤め人にきっとなれる。
ずるいと思いながらも、その考えが心の受け皿になっていた。
井出さんが内藤さんの後任になるということを支社長から聞いたのは、オーディションから2週間が経った頃だった。
結果の電話はまだ来ていなかった。どう考えても2週間は長い。落ちたのだと分かった。2月ももうすぐ終わる。4月からの仕事なのだから、合格の人にはもう連絡が来ているはずだ。
社員になれず、オーディションも落ちた。社員の件は、返事をしなかった自分が悪い。でも、結果を待ちたかった。そのことを内藤さんに言えなかった。背信のような気がして、オーディションを受けたと言えなかった。もしかしたら励ましてくれたかもしれないのに。
井出さんは新卒だし、有能だ。井出さんだったら内藤さんに近付けるだろう。
27歳。アルバイトのまま、春が来る。
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(作中の人名は仮名です)
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