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『花をもらう日』第三章 きょうだいたちとの仕事①

 バスロータリーの向かいに、銀行や生命保険会社の看板が付いた背の低い建物がいくつかある。それらの1階にはファストフード店、定食屋、コンビニが入っている。府中競馬場の正門前からひとつ離れた駅の、ごく普通の個性のない風景を、わたしは気に入った。

 夜10時にかかってきた電話で、明日から来ていただけませんかと言われたとき、脱力した。ほっとしたのとさびしい気持ちがないまぜになって、ため息が出た。引導を渡したのか渡されたのか、どちらなんだろうと思いながら眠りについた。
 しかし翌朝の目覚めはすっきりしていた。自分は意外に、ちゃんと覚悟できるのだと思った。また働けるのだという、嬉しい気持ちもあった。もうアナウンサーではないということを、やっと受け入れられた気がした。それは満足感や達成感に近いものだった。

 駅から10分弱の、小さな雑居ビル。定員6名と書かれたまだ新しい感じのエレベーターに乗る。オフィスは5階。これから週5日、これで上下するんだなあと思いながら階数表示の数字を見る。
 ドアが開く。斜め右前に受付の女性が座っている。女性の真正面には、横長机とパイプ椅子が並べられている比較的広いスペースがある。わたしを見ると女性は、後ろのパーティションの中に顔を入れ、いらっしゃいましたーと言った。
 「ああ、北村さん。今日からよろしくお願いします」
 面接してくれた男性だった。よく見ると彼はヤクルトのキャッチャーの古田によく似ていた。あらためまして、と差し出された名刺には「トータル家庭教師センター東府中支社 教務主任 国分哲也」とあった。トータル家庭教師センター。わたしの新しい職場だ。

 「今、支社長出かけちゃってるんですけど、とりあえずメンバーを紹介しますね」
 パーティションの中に入ると、横長机の置いてある場所の半分くらいのスペースに、事務机が6つ置かれていた。男性2人と女性1人が座っている。彼らはゆるゆると立ち上がり、国分さんは、じゃあ若い順にね、と笑って、まず背の高い男性に顔を向けた。
 「彼は青木くん。まだ入って半年です。年は19だよな?」
 185センチほどありそうな色白の青木くんは、よろしくおねがいしまっす、と長い身体を折った。ディップで固めた長い前髪が小さく風を起こし、その下の目は不機嫌なのか不愛想なのか伏せられたままだった。着こなせていないスーツが窮屈そうに見えた。
 「で、その隣が石川くん。教務全般を担当しています」
 青木くんとは対照的に、日に焼けた色の肌の、彫りの深い顔立ちの男性が、お待ちしてましたと元気に挨拶してくれた。営業マン風の如才なさといたずらっぽいまなざしの組み合わせが、人たらし的な雰囲気を醸し出している。
 「そしてこちらが、社員の紅一点の内藤さん。北村さんはまず内藤さんについてもらいます」
 ふっくらした丸顔に長い栗色の髪、色素の薄いブラウンの瞳。優しく柔らかい、圧を感じさせない空気がなんとも女性らしい女性だった。
 「この中で一番年上なのは俺だけど、北村さんはそのすぐ下くらい……なのかな?」
 国分さんに微笑みかけられ、わたしはすぐに反応できなかった。すると青木くんが、じゃあ北村さんって支社長より上なんすか、といきなり問うてきた。
 「だって、アナウンサーだったって聞いたから」
 青木くんは髪をかき上げながら、ねえ、と石川くんに身体を向けた。石川くんは、え、支社長って28だよな? と問い返し、内藤さんが、年なんていいじゃないとたしなめるように割って入った。
 3人の会話に、わたしは思わず下を向いて笑ってしまった。彼らは仕事仲間というより、仲のいいきょうだいのように見えた。もしかすると、ここは案外いい職場かもしれないと思った。青木くんの質問に答えるために、わたしは少し腹筋に力を入れた。
 「わたし、今27です。アナウンサーやってたのは、23歳から26歳まで。アナウンサーって言っても、地方のラジオ局だったんで全然有名じゃないです」
 一瞬、しんとした。焦った。有名じゃないなんて分かりきったことを言って、印象を悪くしただろうか。
 「……やっぱいい声ですねえ」
 石川くんがそう言い、え、プロだったんだから当然じゃん、と青木くんが返し、内藤さんが、じゃあまず留守電のメッセージ入れてもらうのどう? と言い、国分さんが、支社長に聞いてみようか、と言い、石川くんが、オレの声より全然いいもんなぁと言った。
 「まあまあ、とりあえず座って下さい。北村さんの机は内藤さんの隣です」
 まとめるのはキャッチャーの役目だ。国分さんがそう言うと皆も座った。わたしはひとつだけすっきりと何もない机の前に腰を下ろした。石川くんの向かい、青木くんの斜め前だ。
 家庭的な職場。わたしのこの第一印象は長く続くのだろうか。それとも。
「じゃあ、始めましょうか」
 ファイルを数冊手にした内藤さんが、椅子をくるりとこちらに向けた。
 ふわりといい匂いがした。

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(作中の社名・人名は仮名です)

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